ぱらぱらと、細かいガラスの破片が地面に落ちる。家のなかから突き出している大きな刃物は、よく研がれているのかきらりと太陽光を反射させている。そしてその切っ先が、なんとナマエの眼前に迫っていた。ナマエは呑気にも「くしゃみしちゃったら刺さっちゃうなあ」と考えている。やはり彼女はちょっぴりほにゃほにゃしているのだった。

「お、おいおい……なんて力だよ」
「こんな大きな刃物を片手でだなんて、信じられない……。あとは、肉を取るか、命を取るかだね」
「そんなの命の方に決まってんだろおお! ナマエ、ジョシュ、逃げるぞ!!」

 アレックスは切羽詰まった声でそう言うと、ジョシュアとともに丘を駆け上る。するとふたりはナマエが後を付いてきていないことに気が付く。振り向けば、彼女は赤ずきんと対峙していた。

「ナマエさん、なんだよ、どうして!」

 ジョシュアの悲痛な声が辺りに響く。このままでは襲われてしまう! ジョシュアは焦り、今すぐにでもナマエのもとへ駆け寄ろうとするが、アレックスに腕を捕まれ未遂に終わる。

「アレックス! なにをするんだ! 離してよ!」
「落ち着け! どうやら赤ずきんはナマエのことを襲うようには見えないんだが……」

 アレックスのその発言にジョシュアは狼狽する。確かに、対峙している割には攻撃的なようには見えないのだ。むしろ友好的なようにも感ぜられる。
 ふたりは様子を観察した。すると、おもむろに赤ずきんが動く。それにふたりはドキリとするが、赤ずきんはかごバッグから赤く熟れたリンゴを取り出した。ジョシュアはそれにハッとする。

「くそ、あいつ、ナマエさんに……」
「おいジョシュ、考えすぎだ」
「嘘だ! あいつはナマエさんを手なずけようとしてるんだ!」
「いや、さすがのナマエも、それは……」

 アレックスがジョシュアを宥めるように言うが、やはりと言うべきか、ナマエはリンゴを受け取ってしまった。「ナマエさんの馬鹿!」ジョシュアは急いで丘を駆け降りる。それを見たアレックスは、複雑な心境になる。
 そんなふたりの様子はつゆ知れず、ナマエは赤ずきんから受け取った赤く熟したリンゴを一口かぶりつく。すると、じゅわあっとした蜜が咥内に溶け出し、甘くとろけるような味覚を感じた。一瞬にして至福の表情に変わる。それはいかにも幸せそうな顔だった。

「このリンゴ、とってもおいしいね! どこで取ってきたの?」

 しまいにはコミュニケーションを図ろうとしているではないか! そんなナマエを目にしたジョシュアは滑り落ちるようにして丘を降り、彼女の手を取る。そしてそのままずるずると引きずっていく。返答を待っていたとはいえ、そもそも赤ずきんに口があるのかは不明である。
 ジョシュアはそのままナマエと手をつなぎ、丘を登りアレックスの元へと向かう。その間、ナマエは後ろを振り返ってみたが、赤ずきんは直立不動のまま立ち尽くしていた。振り返ったこともジョシュアに叱られしゅんとした。

「ナマエさんは馬鹿だ。大馬鹿者だ」
「そ、そんなに言わなくっても……」
「だって得体のしれないやつに話しかけるだなんて、挙句ものを受け取るだなんて!」
「まあまあ、ジョシュ、落ち着けよ」
「これが落ち着いていられると思う? 毒が入っていたらどうしていたんだ! それに殺される可能性だってあったんだ!」

 怒りをあらわにするジョシュアに、ナマエは落ち込んだ。確かに、彼の言い分は正しいからだ。軽率な行動を取ってしまったことを申し訳なく思った。

「うん、ごめんね、ジョシュくん」
「……」
「わたし、今度からもっと気をつけるね」
「……そう言って改善された試しはないけどね」

 ジョシュアの辛辣な物言いにナマエはほろり涙をこぼした。するとジョシュアはバツが悪そうな顔をして俯く。「さあ、腹を割って話したのならあとは仲直りの時間だぞ」見かねたアレックスがそう言うと、ふたりは気まずそうに顔を見合わせる。
 ジョシュアは硬い表情のまま動かない。先に動いたのはナマエだった。彼女は鼻をすすると、ジョシュアに抱き着く。

「ごめんね、ごめんね、ジョシュくん」

 まるでその言葉しか知らないかのように“ごめんね”と繰り返すナマエに、ジョシュアは静かに背に腕を回し、ぎゅうっと抱きしめ返す。
 だがジョシュアは知っていた。ナマエはまた同じような行動を起こしてしまうであろうと。それがナマエなのだ。ほにゃほにゃしているのがナマエなのだ。彼は今一度、彼女のことを厳重に注意して見守らなければならないと決心することになる。

「ところで、あの赤ずきん、何者なんだろうな」
 
 おもむろに、アレックスが言う。

「そもそも頭巾なんて被ってなかったしね。赤いだけでさ」
「赤い三角さんだったね」
「三角野郎って呼ぶことにするか」

 三人はそう決めたところで、空腹音が鳴る。対象はアレックスとジョシュアだ。ナマエは三角頭からリンゴを受け取り食したが、彼らはなにも摂っていない。そこで、ふたりは食糧を探しに行くことにした。

「ナマエさんはここで待ってて」
「うん」
「絶対動いちゃ駄目だからね」
「う、うん」
「特にあの三角野郎のところには行くなよ」
「うん……」

 じろりと鋭い眼力で睨めつけられたナマエはぎこちなく笑う。そして草木の奥に姿を消したのを確認すると、おとなしく草原の上に横たわった。
 空が青い。ナマエは流れていく雲を観察する。リンゴのような形をした雲を見つけてにっこりした。
 だが、ふいに不穏な風が吹く。清々しい陽気とは裏腹に、どこか怪しげで、重たい風だ。木々がざわざわと揺れる。空気が変わる。風の抜けるような音はまるで誰かの悲鳴のようにも聞こえた。それはこれからなにかが起こるかのような前兆のようにも思える。
 しかしナマエは気がつかなかった。「風が吹いてきたなあ」と、それくらいしか感じなかった。
 そして心地いい気温にうとうとと船を漕ぎ始める。気がつけば、意識は夢のなかだった。



 やたらと大きななにかが、ナマエの目の前をうろうろしている。それがなんなのかはわからない。真っ黒なものだから知りようがないのだ。
 ナマエは今自分が目の当たりにしているのは夢であると確信を得ていた。こういうの、なんて言うんだっけ。以前ジョシュアに教えてもらったような気がしたが、残念ながら忘れてしまった。ともかくも、黒い物体はなにか要件があるかのようにナマエの周囲をくるくると回っている。
 すると、その物体から一本の線が伸びる。まるで腕のようだった。その腕は握りこぶしを作っており、なにかが握られているように窺える。一瞬殴られるのかと思い構えたものの、それはただ単に差し伸ばされただけのようで、ひとしれず安堵する。

「どうしたの?」

 理解不能な展開に、ナマエは思わず訊ねていた。夢のなかであるというのにやたらと現実味のある体感だ。
 返答があるわけではなかったので、手持無沙汰にぼんやりとしていると、やがて差し出されていた黒いこぶしの指が一本ずつ開かれていく。ナマエは注視した。
 すべての指が開かれたとき、ナマエは衝撃を受けた。雷に打たれたようだった。実際に打たれたことはないけれど、それくらいの衝撃だった。
 黒い手のなかには、リンゴが握られていたのだ。

「わあ! おいしそう」

 ナマエは途端に上機嫌になる。そして本能のままにリンゴを手にしようとしたところで、はたと悩む。ジョシュアとの約束があるからだ。軽率な行動は避けなければならない。それこそ、さきほど三角頭からリンゴを受け取ったことをこっぴどく叱られたばかりなのだから。
 だが、これは夢である。そう、夢なのだ。

「あの、ありがとう」

 ナマエはリンゴを受け取った。そしてなんの躊躇もなく頬張る。それは期待していた通りのおいしさだった。蜜がはじけ、じんわりと後を引く甘さ。ナマエはこのリンゴをどこかで食したような気がした。
 そう、これは三角頭からもらったリンゴと同じものなのだ! 間違えるはずがない。あの激烈な感覚は忘れようにも忘れることができないだろう。
 ただ、もぐもぐと咀嚼している際に、思い切り舌を噛んでしまった。あまりの勢いにナマエは覚醒する。すると目の前は真っ赤だった。夕方まで寝てしまったのだろうか。寝起き特有のぼんやりとした眼が、少しずつ焦点が合ってくる。そして、その赤色が空ではないことに気がついた。さらにはゆらりと動きを見せる赤色に、ナマエは意味をなさない言葉で叫び声をあげたのである。

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