そよそよ、さわさわと、心地の良いやわらかな風がナマエたちの頬を撫でる。天気は快晴である。雲ひとつない青い空。煌煌とした日光は草原を明るく照らしている。
 季節はずいぶんと春めいて、草木が鮮やかに色づき始めていた。ナマエたちの暮らす森では冬に雪は降らないけれど、それでも気温が気温なだけあって、夏と比較すると食べ物が少なくなる。だからこそ、春の訪れは彼女たちの心を朗らかにするのだ。
 空腹感ほど悲しいものはない。ナマエは思わず笑みをこぼした。そしてうんと伸びをして、草原の上に寝転がる。

「おなかすいたなあ〜」
「今なら小さい動物が、そこら辺りを走り回っていると思うけど」
「ジョシュくん……わたし、お肉は食べられないって何回も言ってるのに!」
「ナマエさんの好き嫌いは本っ当に意味不明。第一、ぼくたちはオオカミだよ?ナマエさんみたいに果物だの木の実だの食べてたら、いざってときに───」
「やだ! 説教は聞きたくないの! ……そう、そうだ、アレックスさんはどこ?」
「話を逸らさないでよ……。アレックスなら狩りに行ってる。そろそろ帰ってくるんじゃないかな」
「ついでにフルーツ、なにか持ってきてくれたらなあ〜」

 ジョシュアの言うように、ナマエは肉が食べられない。味も食感も香りも、なにもかもが、身体が受け付けないのだ。肉を食すくらいならば餓死を選ぶ。それくらい大嫌いだった。
 それにしても、ジョシュアはナマエよりも年下であるというのに、どうにも彼女より聡いように窺える。事実、ナマエはちょっぴり頭がお花畑なオオカミなのである。命の危機に瀕していても鼻歌を歌い、他の動物の標的にされてもすやすやと眠るなど、考えてみれば枚挙にいとまがない。ジョシュアはそれを極度に心配しているのだ。目を離せたものじゃあないと、そう使命を抱いているかの如く。実のところ、そこにあるのはただ“守らなければ”という感情のみではないけれど。

「おなかすいたなあ〜」

 ナマエはそう繰り返す。腹からは悲しい空腹音が鳴り続けている。それはジョシュアも同様で、ふたりは寝っ転がって青空を仰いでいる。ちゅんちゅんと飛び立つ小さな鳥に視線を移しながら。

「もう帰ってきてもいい頃合いなんだけどな……」
「なにかあったのかな?」
「うーん……探しに行ってみようか」

 ジョシュアはそう言うと、ナマエと立ち上がり服をぱんぱんと払い、土ぼこりを落とす。そしてアレックスが向かったという方向に向かい足を動かそうとすると、その先から彼が現れた。それにふたりは安堵する。しかしながら彼の手にはなんの獲物も捕らえられていない。だが、表情だけは明るく、“なにか”があることを示唆している。

「遅かったね。それに時間ばっかりかけてなにも手に入れてないとか……」
「ああ、悪い、そうツンツンするなって。朗報があるんだ」
「朗報?」

 ナマエは首をこてんと傾げた。果たして“朗報”とは一体なんなのだろう、と。

「湖の近くの一軒家。わかるだろ?あそこにニンゲンの婆がいるんだが」
「湖?」
「そう、湖だ。ナマエ、お前の気に入ってる水辺だよ」
「わあ! そうなんだ!」

 コバルトブルーの色味で、湖の底が一望できる湖は、ナマエのお気に入りの場所だった。飲むにしろ泳ぐにしろ、とにかく身体中で味わい尽くせる湖なのである。

「そこに、赤ずきんが来るらしい」
「あかずきん?」

 ナマエは再び頭の中に疑問符を浮かべる。アレックスがなにを言いたいのか理解できないからだ。彼女ののんびりした脳内では憶測というものができないのである。

「ふうん。その赤ずきんが来るのを狙って侵入して、見舞い品を横取りするって魂胆?」
「さすがジョシュ。理解が早くて助かる」
「侵入? 横取り? 奪うの?」

 アレックスとジョシュアがトントン拍子で話を進めていくなかで、ナマエはひとりぽけっとしている。だがそんな彼女の手を引き、ジョシュアは歩き始めた。

「どうやら最近は果物以外に肉も持ってくるらしいし、狙い目だぞ」
「確かに試してみる価値はありそうだね」

 ナマエはもはやひとり置き去りにされていることにさえも興味が失われていた。あ、あのお花きれい、だとか、あの鳥かわいい、だとか、もはや彼女にとって彼らの成していることがどうでもよかった。

「……ナマエさん。ぼやっとしてるみたいだけど、果物も手に入れられるってことだからね?」

 ジョシュアがそう言うと、ナマエはそこでようやく瞳を輝かせた。「それならもっとはやくそう言ってくれたらよかったのに!」嬉しそうにそう言うと、途端に鼻歌交じりでるんるん気分で歩き始める。そんな彼女の様相に、ジョシュアは呆れたように溜め息をつく。しかし、彼はそんなナマエのことが好きだった。
 三人でのどかな丘を歩いていると、やがて赤い色の屋根をした一軒家が現れた。近くにはナマエの大好きな湖がある。コバルトブルーの美しい水質で、きれいな水底が見える。今すぐにでも駆け寄って水浴びをしたいところだったが、今はそれどころではない。
ここら辺はナマエの庭のようなものだった。

「まずは窓からなかを見てみるか」

 アレックスが息を潜めて言う。三人は誰にも見つからないように屈みながら移動する。

「窓ってどこにあるのさ?」

 ジョシュアがそう口にすると、ナマエは「わたし、わかるよ。こっち!」と手招きし、ふたりを誘導する。初めて役にたったナマエにジョシュアがそのことを伝えると、彼女はぷんすこと怒った。

「ジョシュくんはわたしをなんだと思っているの!」
「肉も食べられないちょっとだけ───いや、違うか。かなりぼんやりしたオオカミ」
「もー!」
「おい! 静かにしろ。ここから見えるぞ」

 レンガ造りの家に、白い縁の窓。窓ガラスには指紋ひとつすらないところから、この家は細かなところまで手が行き届いているのだろう。
 彼らはアレックスのその発言に、こっそりと窓を覗いた。するとそこには、老婆というよりは幼い少女がロッキングチェアに腰かけ、本を読んでいる。ゆらゆらと揺れるその様相をナマエは目をぱちぱちとさせて見つめる。

「あのひとがおばあさんなの? まだ幼いよ?」
「まあ、この世にはロリババアという者が存在するからな……」
「ろりばばあ?」

 ナマエが首を傾げると、アレックスは「見た目は幼いが実は老婆だっていう意味さ」と答えた。彼女はふうん、と言うと、再び部屋のなかに視線を戻す。すると、少女は厚い本から視線を上げた。
 ふと、ナマエの意識が家から逸れる。家の玄関先になにかの存在を感知したからだ。オオカミは聴覚が発達している。だが、アレックスとジョシュアは少女に視線が釘づけで、その状況に気が付いていない。

「うわっこっち見た!」

 するとジョシュアが慌てたようにそう言うものだから、三人は急いで屈んで頭を引っ込める。もしかしたら、気づかれてしまったのかもしれない。
 オオカミはニンゲンからよく思われていない。ヒトを喰らい、縄張り意識が強く、共存できる存在ではないと、そう考えられているからだった。
 ナマエたちが森で生活をしているのも、ニンゲン界から追い出されたからだ。遠い昔の祖先から、ずっと森で生活しているのだ。ジョシュアからも、耳に胼胝ができるくらいにはニンゲン界へ降りるなと再三言われている(それがアレックスではないあたり、なにかを察することができるだろう)。降りた先になにが待ち受けているかなど、想像に容易い。それにナマエはその約束を律儀に守っており、ニンゲン界に興味はありつつも、森から降りたことはなかった。
 ただ、ニンゲンのなかにはオオカミに興味を持ち、わざわざ森のなかへ足を運ぶ輩もいる。彼らはオオカミを狩り、食事として摂ると言われている。あるいは権力の誇示であろうか。ナマエたちはまだそのようなニンゲンには遭遇してはいないものの、森のなかも絶対安全とは言い難いのも確かだった。ナマエはどこか夢見心地で把握しているのだが。
 たっぷりの沈黙ののち、ジョシュアがこっそり窓から顔を覗かせる。すると、少女は再び本に没頭しているようだった。

「どうやら見つかってないみたいだな」
「……」
「……ジョシュ?どうした?」
「なんだか、嫌な予感がするんだ……」
「あのロリババアか?」
「いや、違う……これは、もっと別の───」
「あ! ふたりとも、足音が聞こえるよ!」

 ナマエのその言葉に、ふたりは押し黙る。やがて、ぎい、と扉が開かれる音がした。赤ずきんとは一体どのような人物なのか。三人は興味津々で様子を窺う。
 ───しかし。しかし、だ。少なくとも三人は予想だにしていなかっただろう。赤ずきんという呼称のかわいらしさから、その相手は華聯な人物であると、勝手にそう思っていたのだ。
 赤ずきんの風貌は見るからに怪しい。“赤ずきん”という名にそぐわぬ容貌をしている。そもそも顔が見えていないのである。赤い三角の被り物をしているせいで、顔が窺えないのである。ナマエは想像と異なる風貌に、しょんもりと耳を倒した。

「なんだあれ」
「赤ずきん……なのか……?」

 赤ずきんが何者なのかはさておき、彼───彼女と表するにはあまりにもたくましい恰幅をしている───は、腕にかごバッグを下げている。上にはナプキンがかけられているが、三人は確信していた。あのなかに、目当ての食糧があるということを。
 ナマエはまじまじと赤ずきんを見つめてみる。よくよく見てみれば、赤いリボンが服に縫いつけられていた。しかしながら、そのかわいらしさでは筋骨隆々の体躯を相殺されるわけもなく。ナマエは恐ろしさにぶるりと震えた。

「うーん」
「ジョシュ? どうした?」
「どうやらぼくの予想は当たっていたみたいだ」
「は?」
「だって、見てみなよ。あのロリおばあさんと赤ずきんを。ぼくらを見て指差してるじゃないか」
「ふむ、確かに。それならジョシュ、俺たちはどうすれば?」
「そりゃ当然、逃げる」

 ジョシュアがそう言ったと同時に、三人に影がかぶさる。何事かと目線を窓に移すと、振り上げられた大層大きな刃物が視界に入る。やっとの思いで距離を取れば、それは窓ガラスを突き破り、ガラスの破片をあたりに飛び散らした。家のなかから奇襲を仕掛けてきたのは、なにを隠そうあの三角頭の赤ずきんだった。

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