ジョシュアは、それはそれは不機嫌だった。眼前の、気に喰わない光景は、焦燥が誘起されて仕方がなかった。
 幸せそうに尾を振りリンゴを頬張るナマエは、見ていてこっち側まで幸せになれる。自然と笑みが浮かぶのである。此度のリンゴは、かわいらしくウサギのように切られている。
 それはいいのだ。しかし問題はそこではない。
 ナマエはテーブルの椅子に座っている。そしてその隣に陣取っているのが、紛うことなくあの三角頭なのだ。ジョシュアはもう片側に自分のスペースを確保しているが、奴が視界に入るのはひどく不愉快である。
 どうやらナマエは三角頭に気を許しているようだった。数日前は痛い目に遭ったというのに。自分がいないときに、一体なにが起こったのか、当然ながらジョシュアは見当もつかなかった。
 ナマエのことだから、ほんの少し優しく接してもらえるだけで、相手は自分に敵対心はなく、仲良くなれると判断したのだろう。そしてそれは非常に危険な思考回路に違いなかった。
 不意に、三角頭が───ナマエを撫でようとしたのだろう───手を伸ばすものだから、ジョシュアはその腕を思い切り叩いた。「は? なにしてくれるんだよ」苛立ちを隠そうともしない声音である。三角頭は払われた手をおとなしく引っ込めた。まるで余裕綽綽だった。ジョシュアはそれにさらに苛立ちを募らせる。

「ジョシュくんも三角さんも、食べないの?」

 それなら、全部わたしが食べちゃうよ。目の前の攻防戦を知ってか知らずか、ナマエはにこにこと満面の笑みを浮かべてふたりを交互に見る。
「……いらないよ。ぼくの分まで食べていいよ」怒りのあまり声が震えた。ナマエはその変化には気がついた。耳がぴんと立ち、首を傾げる。

「ジョシュくん、どうしたの?」
「……」

 なにも答えないジョシュアに、ナマエはしゅんと耳を下げた。どうやらなにかに対して不満を抱いているようなのだ。そんなときにはリンゴである! ナマエはそう信じてやまなかった。なぜなら自分がそうなのだから。
「ジョシュくん。あーん!」そしてフォークで刺したウサギのリンゴをジョシュアの前に差し出した。彼はそれに驚いたが、否、不機嫌な様相を見せているのならば想定の範疇だったが、ニヤリと口角を上げる。そして視界に入る三角頭に向かって意地の悪い笑顔を作ると、そのままリンゴに齧りついた。
「……うん、おいしい」じゅわあっと広がる甘い蜜の味、かぐわしい芳香が咥内から鼻腔へと繋がり、まさしく幸せになれる味覚だった。ジョシュアにとっては、恐らくはナマエの手から食べられた、というだけで加点対象なのであろう。
 三角頭はわなわなと震えている。したり顔のジョシュアは満足げにリンゴを咀嚼する。
 そんな密かなバトルが繰り広げられているなか、ナマエは再びリンゴを食すことに意識が持っていかれる。隣で震えている三角頭には気づかずに。
 すると、三角頭はおもむろにナマエのフォークを取り上げた。「……!?」彼女は目を白黒とさせ、三角頭の方を振り返る。彼は握り締めたフォークを、まるで自由を全力で享受している女神のように、高々と掲げている。「……?」ナマエはぱちぱちとまばたきし、ぽかんと口を開けて呆けた。

「……なにしてるんだよ。今ナマエさんは食べてただろ」
「……三角さん?」

 今にも舌打ちしそうなジョシュアは苛々とそう言う。ナマエが不安そうに名を呼ぶと、彼はハッと我に返ったのか、フォークを下ろしリンゴに突き刺した。勢い余ってフォークの先が皿に当たり、カチャン!という金属音が放たれる。
 ナマエはそれでも三角頭の行動がなにを示しているのかわからずじまいで、彼の顔とフォークを交互に見比べている。三角頭といえば、フォークにリンゴを突き刺した状態で、ぴたりと動かなくなってしまった。
 三人が硬直していると、やがて、彼は行動に移した。フォークの先をナマエの口許へ持ってきたのだ。「……!」彼女は気がついた───三角頭は自分にリンゴを食べさせようと、“あーん”をしているのであると! 先ほどの自身の行動を見て、やってみよう、と思ったのだろう。ナマエはなんだか微笑ましくなり、へにゃりと微笑む。

「わあ、ありがとう!」

 そしてナマエは差し出されたフォークに齧りついた。しゃくしゃくと食べ始め、しかしなんだか不穏な様子にびくりと震える。
「……っん、んん、んゃ、三角さ」食べさせてくれるのはありがたいのだが、その腕がぶるぶるとけいれんしていれば、食べづらいに決まっている。
 そう、どういうわけか、三角頭は震えていた。それこそ全身が。
 ナマエはどうにかして食べようとするが、あまりにもぐいぐいと口にリンゴを押しつけられているおかげで唇がふにゅりと形を変え、果汁が顎を伝う。「んっ、んー!」顔を背けようにもフォークがどこまでも後を追ってくるものだから、ナマエの頭のなかはパニックに陥っている。
 ふと、彼女はパッとなにかを思いついたかのように顔を明るくすると、三角頭の手に自身のそれを重ねた。それに彼はまたけいれんを強くする。
 ナマエは三角頭の手を押さえながら、リンゴを食べ始める。満面の笑みを浮かべて「おいしいねえ」と言うのだ。

「……ちょっと、もういいでしょ」
「んっ? ん、んぅ、っぷわ」
「だから止めろって言ってるんだ!」

 フォークを握っている三角頭の手の上に小さな手が重ねられ、ナマエは彼に“食べさせてもらう”ということも、“自身の手で食べる”ことも、そのふたつを叶えていた。だが、それを見ているジョシュアは当然面白くない。
 三角頭はなにも言わない(元より、彼は話すことはできない)。しかしジョシュアはなにかを察知していた。彼は疑似的行為に耽っているのではないか、と。現に、彼はなんだかドキマギしてナマエの様相を見ていた。そして邪心を振り解くようにして頭を振り、三角頭の手を思い切りつねった。すると、彼はおとなしく手を下げナマエを解放する。存外呆気ないな、と思ったジョシュアが訝しげに三角頭のことを見てみると、顔こそは窺えないが、どこか満足げに雰囲気纏っていた。ジョシュアはぴくぴくと頬を引きつらせる。今回の軍配が上がったのは三角頭に違いない。
 だが、その光景が面白くないのはもちろんのことであるが、ジョシュアは三角頭を含めたこの家に集結するモノたちは、決して害なす人物ではないことを理解した───三角頭のナマエに対する隠そうともしない好意は受け入られないが。
 アレックスとジョシュアはナマエに誘われ疑心暗鬼でアレッサの家へ訪れたのだが、ここは彼女の言っていた通り、忌避する必要性はないのだ。しかし、だからと言って三角頭がナマエに手を出すのは許されたものではない。

「お前も手、出したらいいじゃん」

 ジョシュアはナマエに伸ばされる三角頭の手を、速やかにひとつひとつ払い除けている。それを見た向側の椅子に座っているロビーが、ふとそんなことを言った。その言葉を聞いたジョシュアは、ぎくりと身体を硬直させる。
「……言うだけなら簡単だ」彼は声を低くして吐き捨てるようにしてそう返答した。「……フーン」その様相を見たロビーは、にやりと口角を上げた(一見して“ぬいぐるみ”である彼の口許は、実のところどんな表情を浮かべているのか理解の範疇を超越している)。
 ロビーは立ち上がるとジョシュアの隣へ行き肩に腕を回した。ジョシュアは驚いたように声を上げる。

「っなにするんだよ」
「別にいーじゃん。僕が何か手助けできるかもしれないだろ?」

───手助け。ジョシュアはその単語に耳がぴくりと反応を示す。それを眼にしたロビーは、さぞ楽しそうに、鼻唄混じりに彼のことを見下ろす。ジョシュアは思い悩んでいるようだ。
「……いい。いらない。ぼくはぼくのやり方でりやる」しかしながら、ジョシュアはロビーの提案を断った。ロビーはフとジョシュアの面持ちが決心したかのような、なにかを再確認したかのような、そんなものに変わる。ロビーはそれを見てまた口角を上げた。このふたりの水面下での競り合いは───水面下であるのは少なからずナマエに関してのみであるが───暇つぶしにはなりそうだと、そう思ったのだ。
「……ま、なにかあったら頼ってくれよ。悪いようにはしないからさ」ロビーはそう言うと、ぐるりと三角頭の方へ首を回し声をかけた。

「おい。そろそろ帰るよ」

 ロビーのその言葉に、三角頭はハッとして彼を見上げる。どうやら時間という概念が彼のなかで失われているようだった。
 随分ゾッコンだな。そしてそれはロビーを興じさせる様相だった。三角頭は見るからに重い腰を上げた。そう、“重い腰”を上げたのだ。
 ナマエは立ち上がった三角頭に気がついた。「帰るの?」その発言に三角頭はゆっくり頷く。

「そっかあ。また明日ね」

 おいしいリンゴを食していることも相まり、ナマエはとろんととろけた微笑みを浮かべ彼のことを見上げた。それに彼はぐらりとふらついたが、これではいかんと立て直す。
 ところで、“また明日”とは。それもそのはず、ここ最近三角頭とロビーは毎日アレッサの家へ訪れていたのだ。だから明日もまた来るだろうと、そう思いナマエはそのように言ったのである。
 三角頭はゆっくりと頷くと、ナマエの頭を撫で、血管の浮き出た無骨な手を滑らせ、耳許をくすぐった。彼女はそれにびくりとし、少しだけ頬を赤らめる。ジョシュアは爆発しそうだった。こいつはなんということをしやがるのだと!
「さっさと帰ってよ」ジョシュアは三角頭の手を素早く払い除け、不機嫌にそう言う。すると、彼らはようやく玄関の方へ向かった。
 ナマエは椅子から降りると、彼らの元へ歩み寄り、ふたりのことを見上げながら手を振る。「またね」三角頭は手を振り返した。ロビーはふんと鼻を鳴らした。そして彼らは玄関の扉を開け、住まいのあるニンゲン界へと帰って行ったのだった。

「……ジョシュ、お前はもう少し余裕を持った方がいいな」
「……うるさい」

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