強い意思を秘めたような、そんなノック音がアレッサの耳に入った。彼女はロッキングチェアに座ったまま、指を玄関の方に向けて振るうと、扉が木が軋む音を立てながら開かれた。そこにはまっすぐな瞳を携えた少女が佇んでいる。
 訪ねてきた訪問者は、大方予想ができていた。それは自身のことを気にかけてくれる、そんな人物であると。
 アレッサは心配してくれる者がいることが嬉しかった。それだけで十分だった。糾弾され追放された自身のことを拒絶しないでくれる存在は、少なからず彼女にとっての蟠りを払拭してくれるような、そんなものだったからだ。ニンゲンであるにも関わらず、まともな思考回路をしている人物はいるのだと、そう感じるところができた───実のところ、ふたりは血が繋がっている者同士である。
 だが、そんな彼女の来訪をありがたくは思うものの、心底歓喜するには不安要素が多すぎた。

「……ヘザー。ここに来るのは控えてほしいとお願いしたはずなのだけれど」
「アレッサ。降りてきて私と暮らそう?」
「……」

 この発言も予測の範疇だった。
 ヘザーはアレッサの実の双子である。なぜふたりが隔絶されているのか、話は単純明快、アレッサがヒトならざる力を───それこそ、玄関の扉を摩訶不思議な力で開いた───所有しているからだ。ニンゲンらは彼女のその力に恐れを抱き、自分らの生活圏から追い出したのだ。
 だが実際に、ふたりを放逐する権利を所持しているのはいわゆる一定の層の過激派である。そして感情は伝播するものだった。彼らに背を押されるように、アレッサやオオカミを毛嫌いするニンゲンは少なくはない。
 彼らはアレッサが未知の力を駆使して悪事を働くことに憤懣していた。もちろん、アレッサはそのつもりは一切なく、ただ平穏な暮らしを求めているだけだったのだが、彼らはいわゆる“普通”のニンゲンであることに重きを置き、それ以外の存在は“悪”であると線引きし、“異常”なモノは総べて排除する、という穏便な暮らしを求めていた───事実、例えアレッサやオオカミたちがニンゲン界で暮らしても、それが穏便ではないと断言できるものではないのだが。
 それは安泰な生活を送るための行動に違いはなかったが、爪弾きにされた側は溜まったものではない。怨恨を持つモノもいるだろう。
 だが、少なくとも、アレッサはそうではない。森での暮らしは存外悪くなかった。定期的にレッドピラミッドシングが訪問しニンゲン界の情報を教えてくれているし、物珍しいものを───例を挙げるのならば、食べ物だったり書物だったり───持ってきてくれるのだ。それらは日常に刺激を与えるものに違いなかった。
 そしてアレッサはふと数日前に、“友達”となったぽやぽやしているオオカミのことを思い出し、小さく笑った。
そう、森での暮らしは存外悪くなかったのだ。

「無理よ。ごめんなさい」
「どうして? 私、いろんなヒトたちにアレッサは普通の女の子だって、教えて───」
「ヘザー。いいの。彼らは決して私のことを受け入れてなんてくれないわ」
「……」

 ヘザーはきゅっと唇を噛み締めた。
 アレッサは承知していた。いくら説明し誤解を解こうにも、彼らが変わらねばなにも前進しないのだ。そして、それがほとんど不可能なことでもあるとも理解していた。
 アレッサに限らず、この森での生き物は、みなニンゲンに撥ねられた身である。彼らは肩身の狭い思いをし、極力ニンゲンと関わりのない日々を送っている。ニンゲン界には決して降りてはいけないと、足を踏み入れれば五体満足で帰られないと、そのように言い伝えられているからだ。それは暗黙の了解だった。
 だが、少なくとも、ヘザーは物事の良し悪しが区別できるニンゲンであった。実際、彼女のようなニンゲンは数多いるのだ。しかし一部の過激派層が自身らの生活にオオカミが加わるのを許さないのである。そしてその過激派が、悲しいかな、ニンゲン界を牛耳っているようなものだった。
 ヘザーはアレッサの言葉に俯く。そしてそんな彼女を見かねたアレッサは、家の中に入るよう促した。

「アップルパイを作ったの。よかったら食べていって」
「……うん」

 とぼとぼと、見るからに落胆しているヘザーに、アレッサは小さく溜め息をついた。
 アレッサはヘザーの弛まぬ努力に感謝していないわけではない。ただ、それが実を結ぶには並々ならぬ努力と忍耐が必要になるだろう。そして、アレッサはヘザーにそんなことに時間を割くのではなく、もっと有益なことに精を注ぐべきであると考えていた。アレッサはヘザーの幸せを望んでいた。
 椅子の上に腰を下ろしたヘザーは、今一度部屋の中をぐるりと見渡した。
 なんの変哲もない、“普通”の部屋なのである。それがほかのニンゲンたちに伝わらないことに、もどかしい思いを持たずにはいられなかった。
 アレッサは一切れのアップルパイを皿に乗せ、ティーポットに入れた蒸らした茶葉をよせると、ティーカップに紅茶を淹れた。部屋のなかには甘くおいしそうな香りが充満している。

「……おいしそう」
「出来立てよ。……あと、そろそろ───」

 アレッサが扉の方を振り向くと、丁度そのタイミングでノックされた。ヘザーはパイを頬張りながら、誰が訪れたのか思考する。
 大方、レッドピラミッドシングかロビーだろう。だが、彼らにしてはノックの仕方が控えめだなと、そう思ったところで扉が開かれた。

「アレッサちゃん! 遊びにきたよ!」

 そしてヘザーは、思わずあんぐりと口を開けた。
 そこに立っていたのは、なにを隠そうオオカミだったからだ。
 どんな音も聞き逃さないようにぴんとたった耳。芳香が嗅覚をくすぐるのか、尾はぱたぱたと揺れている。
「オ、オオカミ……」思わず声をだすと、そのオオカミは眼を丸くしてヘザーのことを見つめた。視線は逸らせそうにない。

「? アレッサちゃんがふたり?」
「……し、しゃべった……!?」
「ヘザー。生きているんだもの、当然しゃべるわ」

 オオカミを初めて眼にしたヘザーは、多少の恐怖を感じた。ニンゲン界では、オオカミは接触を避けるべき生き物であるとされ、散々言い聞かせられているからだ───もっとも、これも過激派による言葉であるのだが。

「ナマエ。この子はヘザー。私の双子の片割れよ」
「ふたご」
「そう。一卵性双生児」
「そうなんだ。ヘザーちゃん! よろしくね」

 握手をしたいのか、ナマエは部屋のなかに足を踏み入れヘザーの元へ駆け寄ると、ヘザーはびくりと身体を震わせた。
 アレッサはジィ、とヘザーの様子を観察している。ナマエを目の前にして、初めてオオカミを目の前にして、どのような反応を示すか興味があった。

「……」
「? ヘザーちゃん、どうしたの?」
「……え、でも、あの……」

 ナマエは不思議そうに小首を傾げ、ヘザーのことを見つめる。差し出された手は、ヘザーのそれより小さかった。
 一応、オオカミにもニンゲンは接触を避けるべきであると言い伝えられている。なぜ“一応”であるのかと言えば、ナマエに関してはどうにも手に負えない、心配になるほど警戒心がなく、そして平和ボケしている頭を所持しているからだった。
 さらに言及すると、一応ナマエもアレックスやジョシュア───常に口を酸っぱくしているのはジョシュアである───から、ニンゲン界に降りるのは勿論、ニンゲンと関わり合うなど言語道断であると言われてはいるのだった。
 今ヘザーの前に佇んでいるオオカミは、あまりにも純粋で、敵対心など皆無も皆無、そしてどうしようもなく“仲良くなりたい”と、そう思わせることに長けていた。
 未だ手を伸ばさないヘザーを見たナマエは、ぱちぱちとまばたきする。「ヘザーちゃん?」そしてふにゃふにゃと破顔されるのを見て、ぱっとナマエの手を握っていた。

「わあ、あったかい」
「……あなたは、ナマエ……ナマエね」
「うん!」

 ただ握手をしただけだというのに、眼前のオオカミは随分と喜んでくれるな、とヘザーは思った。そしてそれはナマエの長所に違いない。
 ぱたぱたと尾を振る姿は見ていて微笑ましくなってくる。気がつけば口角を上げていたヘザーは、そんな自分にハッとした。それは気がつけばじわじわと侵食される───つまるところ、ナマエの魅力のひとつだった。
 ヘザーはナマエと微笑みながら見つめ合っている。なんの邪念もない、色素の薄い瞳は、吸い込まれそうなほどの力を持っていた。その眼球に写る自身の顔は、それはそれは幸せそうな顔をしていたものだから、ヘザーは頬を赤らめる。

「さ、ナマエ、ヘザー。食べましょう」
「! う、うん。ナマエも!」
「わたしも!」

 そんなヘザーの意識を戻すかのように、アレッサの声が凛と響く。その声音にヘザーは我に返った。
 ナマエは空いている椅子に腰かけると、ヘザーの前の白い皿に乗せられているアップルパイに視線が釘づけになる。「おいしそう」そしてフォークを握りながら蕩けるような笑みを浮かべるものだから、アレッサとヘザーは顔を見合わせて笑ったのだ。

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