ランスは鬱蒼と生い茂っている木陰に息を潜めていた。面倒なことになったと内心で悪態を吐く。この展開はちょっとした失態から引き起こされたものだった。
 ジュンサーがウバメの森のなかを捜索している。想定よりも人数が多い。ご丁寧にパトカーまで馳せ参じていた。ランスは些細な過ちを悔いる。今となっては遅い後悔である。
 コガネシティの地下通路にて、通りかかったトレーナーのポケモンを強奪しようとしたのだ。バトルを挑んだのではない。刃物で恫喝し、無抵抗のまま奪い去る心積もりでいた。大抵の人間ならば恐怖のあまり言いなりになるのだが、此度の相手は脱兎のごとく逃走を図り、コガネシティに立地している警察署に駆け込んだのである。ランスはそのトレーナーを追いかけたが、今回は相手の方に軍配が上がった。
 よって、この現状である。
 ランスは舌を打った。ジュンサーたちは一刻も早くランスを見つけるために、四方八方から声が張り上げている。彼は今は動かない方が良さそうだと判断し、ひっそりと身を潜めることに徹する。
 実のところ、検挙されないという自信はなかった。単純に敵数が夥しい。コガネシティは大きな街であるがゆえに、頭数もそれに比例しているのだ。ランスはどのように姿を眩ますか、頭のなかでいくつもの選択肢を浮上させる。
 足音が近づいてきた。ランスは腰を屈めながら、さらに森の奥へと移動する。その先は行き止まりだ。万事休すか───そう考えた矢先、身体に大きな衝撃が走る。
 なにかが覆いかぶさってきた。もっと正確に言えば“降って”きた。ランスはその衝撃により地面に腰が落ちる。一体なにごとだと眼を見張ると、ひとりの人間を視界に捉えた。
 それはひとりの少女だった。
 少女は意識を失っているのか、ぐったりと力なくランスの腹の上に乗っている。ランスは手荒に少女を退けると、体勢を整え直し鋭い眼でジュンサーの姿を確認した。どうやら今の物音で気づかれはしなかったらしい。それに人知れず安堵する。
「う……」荒々しい挙動で地面に落とされた少女は、小さく呻き声を上げると、徐々に瞼を開き始めた。ランスはその様相を横目に確認しながら、今なお付近を探し回っているジュンサーを注視している。
 やがて完全に覚醒したらしい少女は、身体を起こすと周囲を見て眼を丸くした。「……ここ、どこ?」きょとんとしながら彼女はそう呟く。そして隣にいたランスに気がつき、口を開こうとしたが、それよりも先に彼が言った。

「声を出すな」

 鋭い声だった。少女はそれに委縮する。身を縮こめると、そのまま恐る恐るといった具合にきょろきょろと辺りに視線を巡らす。少女は自身に降りかかっている事態が理解できないようであった。
 ただ、眼前の男が口を引き結び、加えて木影で警察の制服を身に着けている者から影を潜めている点から、なにやら“悪事”から逃れているのであると、それだけは把握できたらしく、ランスの言葉通り大人しくする。
 やがて、ジュンサーの足音が遠ざかって行った。だが、未だ油断はできない。場所を移動しようにも、あの人数のことを考慮すれば危険性が高過ぎた。
 ランスはこれからどのように行動するべきか思考する。隣に座っている少女はそんなランスのことを不思議そうにじっと見つめている。恐怖しているようではなかった。ロケット団の制服を身に着けているというのに、だ。少女は自身の正体に気がついていないのだろうか。様々な憶測がランスの脳内を駆け巡る。
 彼は突き刺さる視線に、とうとう視線を少女の方へ移すと、不機嫌そうに言う。

「……なんですか。人の顔をじろじろと」

 そう口にすれば、少女はわあわあと慌てた。「っ大きい声を出すな!」慌てふためく少女に焦燥を覚えたランスは、思わず声を張り上げる。それを見た少女はハッとした面持ちになると両手で口を覆った。
 周囲は静まり返っている。どうやら少女の声はパトカーの音にかき消されたらしく、ジュンサーが近づいてくる気配はない。ランスは幸運が過ぎると思いつつ、少女に眼を遣る。
 どこか平和ボケしてるような顔つきだった。それこそ自身とは───ロケット団のようなマフィア団体とは一線を画しているような、そんな少女。
 少女は声を小さく抑え言った。

「お兄さん、わたしを守ってくれてるんですか……?」
「は?」

 ランスは少女の言っていることの意味が分からなかった。なにがどうしてそうなったと、そう思ったのだ。しかし、よくよく状況を整理してみれば、ふたりは木の陰に隠れ、更にはランスは少女のことを庇うような身構えをしている。そのように考えが及ぶのもわからなくはなかったが、それは何者かに“追われて”いるという前提がなければ至らない結論なのだ。少女はなにかから逃奔しているというのだろうか。こんな平凡な、どこにでもいるような少女が。
 少女はそう発言すると、口をつぐむ。ランスは次に紡がれる言葉を待機していたが、こちら側から質問を投げかけなければ一生返答はないような態度だったので、思わず訊ねていた。

「貴女は何者です。何故私の上に落ちてきた」

 少女はちらりとランスのことを見遣ると、恐々口を開き「あ、あの……わからなくって」と言った。ランスは眉を顰める。わからないとはどういう意味だと。何者かに追われていることなのか、突然どこからともなく落ちてきたことなのか。
「わたし、だれ……?」そう呟く少女に、ランスは再度面倒なことになったと思った。ただでさえ切羽詰まった状況であるというのに、どうやら記憶喪失らしい少女のために割く時間などないのだ。
 ランスは一刻も早くこの場から去りたかったが、ジュンサーたちがうろうろしている当面は下手に動かない方がいいことを知っているので、嫌でも少女との時間を過ごさねばならないことに苦痛を覚えていた。自身とは異なる世界で生きているであろう少女。裏社会を幾度も掻い潜ってきた者にとっては、反吐が出る質の人間だ。

「……お兄さんは」
「ふざけたことを抜かすな」

「私が何者かわからないのですか」ランスがそう問うも、少女は首を傾げる。やはり彼女はロケット団のことを知らないのだ。世界的に見ても有名なマフィア軍団だというのに。一般的な知識にも影響を及ぼす記憶喪失なのか。ランスは冷静にそう考える。
 ランスが突き放すようにそう言えば、少女は眉尻を下げ黙ってしまった。訪れた沈黙は、どういうわけかランスには居心地が悪く感ぜられる。
 だが、ランスはふと考えた。世界のことをなにもかも忘れてしまったのならば、それは人間兵器として使えるようにもなれるのではないかと。一からロケット団色に染め上げ、ロケット団として生涯を終えさせることも可能ではないかと。
 近日中に、ロケット団はコガネシティのラジオ塔を占拠するという大々的なイベントを起こす予定である。その際も使えるかもしれない。周りに危険因子であると察知されることもなく、容易く作戦を決行できる。ランスはそう考えた。

「……前言撤回しましょう」

 唐突にそう言うランスに、少女は眼を丸くする。「これは大きな貸しですよ」口角を吊り上げるランスを、少女はどこか縋るような眼差しで見つめる。彼のなかにどのような感情が生まれているのか、彼女には推し量ることができなかった。
「かし……」少女は生きる理由を見つけたかのような、そんな明るい表情を浮かべると、にこにこと人の好い笑顔をランスに向ける。それはあまりにも純真無垢で、いい意味でも悪い意味でも“染まり易い”様相を呈していた。そんな性質を、喰いつくす。彼はその快感を十分すぎるほど知っていた。
 ランスは並外れに無抵抗で総べてを許容する姿を見せる少女に刹那拍子抜けするが、すぐさま我を取り戻し続ける。

「忠誠を誓いなさい」
「ちゅうせい?」
「私の元で働き、生涯を全うすると」

 ランスは少女のことを真っ向から見つめる。視線が交わる。少女の透き通った瞳は、人を魅了する力を持っているようだった。頷かれ、ランスは満足そうに鼻を鳴らす。
 少女も少女とて、右も左もわからぬ世界に放り出されて一抹の不安を覚えていたのだろう。道筋を示してくれたランスに、ある種感謝の意を抱いたのかも知れない。結果、少女は喜んでランスの言い分を受け入れてしまった。
「名はなんと言うのです」そう訊ねるランスに、少女はやはり微笑んで言うのだ。「……ナマエ。ナマエです」と。
 自身の名までをも忘却してしまっている可能性もあった。その際は自身が名を与える必要があるかと考えたが、どうやらそれは杞憂で済んだらしい。ナマエは「お兄さんの名前はなんていうんですか?」と質問すると、ランスは暫し黙り込んだのち、名乗った。

「ランスさま」

 嬉しそうに自身の名を呼ぶナマエに、ランスはざわざわと感情が波打つ感覚を覚えた。眼の前の少女が、毒牙を持っている気がした。それは謂わば善人にも悪人にも通用するような、酷く効能の高い毒だ。
 ランスはナマエの方に向き直ると、質問した。「どのような記憶なら有るのですか」彼女の記憶していることは、今後任務を遂げるのに影響を及ぼすかもしれない。そう危惧したからだ。
 だが、ナマエはその真意がわからぬといった顔になり、首を傾げた。ランスは続ける。

「例えば、ナマエがどのような脅威から逃れてきたのか。その記憶は」

 ランスはナマエがなにから逃避しようとしていたのか、興味があった。こんな清純そうな───悪しく言い換えるとすれば極めて単純で無害そうな───少女が、記憶を失くしてまで逃れようとしたものは一体なんだったのか。それこそ、記憶がないというのに“なにかから逃れている”という思考に陥るくらいの状況下ならば。
 だがやはりと言うべきか、ナマエは当該の記憶は失っているようだった。首を左右に振ったのだ。しかしランスは訊ねておきながら想定の範疇だったと言わんばかりに納得したような面持ちになる。
 ナマエに関しては不詳な点が多すぎるが、それは今後、活動をしていくうちに明確になるかもしれない。それに、記憶がないからと言って使役できないわけでもない。ランスはそう結論づける。
 すると、足音に伴い話し声が近づいてきた。ランスはそれに素早く反応し、木陰から向こう側を覗き見る。案の定、ジュンサーが懐中電灯を片手に歩んできていた。日が暮れ始め身を隠すには好都合だが、ずっとこのまま、膠着状態であるわけにもいかない。無線でのやり取りを聞くあたり、ジュンサーは粘り強くウバメの森を捜索する意欲があるようだった。
 ランスは考える。ひとりでの逃走なら場合によっては成功を収めることができるであろうが、今はナマエもいる。それになにより、ナマエは鈍臭そうだった。さてどうするかと頭を働かせていると、ナマエがモンスターボールを取り出した。彼はその様に眼を見張る。

「ランスさま」
「なんです」
「この子、たぶん力になれます」

 ナマエがそう言いモンスターボールから出したのは、ケーシィだった。ランスは呟く。「テレポートですか」その発言にナマエは首を縦に振った。

「ランスさまがこの子に触って、行きたいところを思いうかべたらそこにテレポートできます」

 ナマエは悪党と逃走を手助けするということがなにを意味するのか、わかっていないようだった。そもそも彼女はランスがマフィアであるという認識をしていないのだから、当然と言えば当然だ。
 場違いに笑顔を浮かべているナマエを眼にしたランスは、彼女の言う通り目的地───根城のあるチョウジタウンを思い浮かべ、ケーシィに触れた。
 その直後、ふたりはウバメの森から脱出することに成功を収め、無事ジュンサーの魔の手から逃れることができたのだった。

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