先日のいかりのみずうみでの一件以来、ナマエはどこか心あらずの状態だった。ふとしたときにワタルとの出来事が脳裏をよぎるのだ。忘れようにも忘れられない恐怖。それがまざまざと記憶によみがえり、震えながら眠るときもある。ひどいときは悪夢となって彼女の脳内に出現する。肩に乗せられた武骨な手、その体温、力、そして感覚。それが見事に鮮明に思い出されて、ひとり涙を流すときまであるのだった。
 だが、それも数日前までの話である。ここ最近は、無意識のうちにその記憶を封印することができつつあった。あまりの恐怖に防衛反応が働いたのだろう。これ以上苦悶すると身体的にも危険が及んでしまう。彼女の本能が、自分自身を守るよう身体を適応させたに違いない。

「んー? お前さんも新入りか?」

 隣で発せられた声に、ナマエは現実に戻された。彼女は写真屋が使用するという衣類の収納された部屋から顔を出し、声が聞こえた方を覗いてみる。するとそこには仲間の団員と、もうひとり、少年が立っていた。彼の姿には見覚えはなかったのだが、このラジオ塔作戦のために急激に団員数を増やしたため、記憶にない顔のひとつふたつを目にすることは大した問題ではないと彼女は思っていた。ロケット団に入団するのは存外簡単なのである。その代わり、脱退するのは至難の業なのだが。

「サイズ、これで大丈夫かなあ」

 少年を見て制服のサイズを見繕ったナマエは、一着手に持って彼のもとへと歩み寄る。「え、いや、おれは」どこか戸惑いがちの様子。「あ、でもこうしたらなかに……」ぼそぼそと独り言を口にする少年を見たナマエと団員は顔を見合わせる。おそらく、初めての作戦に緊張しているのだろう。そう捉えたふたりは、初々しいと思わず微笑んだ。

「おう、ぴったりじゃん。よし、お前ここで着替えていけ」

 少年は着ている服を脱ぎ、制服に袖を通す。なかなか様になっているのを見て団員はほがらかに笑った。

「うん、なかなか似合ってるぜ〜!」
「おお〜ちょうどいいね。よかったあ」
「だが、そのカッコでウロチョロしてあんまり街の住民をビビらせんじゃねーぞ!」
「じゃあ失礼します」

 制服を着こなした少年は、気合を入れるわけでも心を躍らせるわけでもなく、早々に階段を登って地下通路から姿を消した。どうにも初めての任務に気負い立っているようには見えなかったのだが、想像以上に作戦が順調に進行していることによりどこか安堵しているのか、気持ちが緩んだ彼女らはなんら不審に思わなかった。
 それにしても、暇だ。作戦中とは思えないほどに。
 ラジオ塔のなかには、万が一に備えて戦闘を得意とする団員で固められている。つまり地下通路にいるナマエと団員は、そういうことである。

「ラジオ塔の占領、めっちゃ楽だったよなあ」
「そうですねえ」
「俺さあ、この作戦が無事に終わってひと段落ついたらゴーリキー進化させてえなって考えてんだ」
「ゴーリキー?」
「そうそう。……そういやナマエはケーシィ持ってたよな。そいつユンゲラーにして俺と交換しねえ?」
「すみません、わたしのケーシィ、進化したくないみたいで……」
「そうなの? 珍しいな」

 ナマエのケーシィは、どういうわけか進化することを拒んでいた。大抵のポケモンは進化してより力を得ることを待望している傾向にあるものの、それを拒絶する理由は彼女も知りえない。進化できるまでのレベルには到達しているのだが、その先にたどり着くことがいつになるのかはわからなかった。
 だが、ナマエはそれを受け入れていた。無理に進化せずともなんら問題はないのだ。ただ共に過ごし、隣にいて生活できればそれでいい。彼女はそう考えていた。

「でも、わたしでよかったら交換手伝います」
「まじ!? すっげえ助かる!……実は結構前から考えてたんだけどさ、機会がなくて」
「格闘タイプがすきなんですか?」
「おう! かっけーし強いしな! ナマエはエスパータイプが好きなの?」
「ん、ん〜……そういうこと、あんまり考えたことないです。でも、ゴーストタイプかわいいなあって思います」
「へえ、なんか意外だな。……あーあ、早いとこ昇進してえ〜!」
「お互い、がんばるしかないですね」
「だなあ」

 したっぱは作戦中に使用するポケモンが定められている。繰り出すポケモンで相手に舐めらないようにするためらしい。例えばロケット団たるものがピカチュウをモンスターボールから出した際のことを考えてみればわかりやすいかもしれない。委縮させてなんぼの世界なのだ。解散する前のロケット団も同様の方針であり、それが現在まで根強く引き継がれている。
「……そういやさ、俺ずっと不思議に思ってたんだけど」団員がぽつりと口を開く。ナマエは彼の方を振り返った。腕組みをしながら眉間にしわを寄せている様相は、これから話すであろうことに踏み込んでいいのか思い煩っているようにも見受けられる。

「ナマエってなんで他班への異動断ってんのかなって」

 ナマエはぱちくりと目をしばたかせた。彼の言ったことが理解できない。彼女はランスから異動のことに関して言い渡された記憶など皆無だったからだ。
 ナマエはしばしば任務を失敗に終わらせる。それゆえいつランスから見限られているのか気が気ではなかったのだが、彼がそう言った以上、もしかすると既に見限られており、異動若しくは退団まで求められているのかもしれない。彼女は心臓が早鐘を打つのを感じる。

「アテナさん、相当自分のとこにナマエほしいみたいだぜ」

「ランスさんのとこより階級も上がるみたいだし、そしたら給料も上がるし。良いことずくめだと思うんだけどな〜」ナマエは言葉を発することができない。

「ナマエ? 黙ってどうし───」
「気が緩みすぎてるんじゃないか」

 突然投下された言葉。団員は口を閉じた。
 どこか張りつめた空気に、だらけていた姿勢も正される。無駄話がすぎたと彼は冷や汗をかいた。大慌てでまじめに任務を遂行しているように振る舞うが、それが手遅れであることは一目瞭然だった。

「ああ、きみ」
「えっ、お、おれですか?」
「そう、きみだ。至急ラジオ塔に向かえとの言伝だ」
「了解です!……あ、あれ? でも、ポケギアに連絡は」
「至急」
「!……っすぐに向かいます!」

 団員は男の通告に焦りを滲ませると、足音を響かせながら階段を登り、地下通路から去って行った。
 一体なにが起こっているのか、ナマエは理解ができなかった。なぜなら、彼女らはランスから足りていない制服を管理し、不穏な動きをする者がいたら戦闘以外の方法で───先にも述べたように、ふたりは戦闘で貢献することができない───処分をしろと命じられていたからである。何か問題が発生したらポケギアで連絡がくるはずだった。そこで彼女は、それが不可能なほどの緊急事態なのではないかと考えた。だが、そう仮定すると自身が召集されないのはおかしい。
 それらの事象に鑑み、ナマエは彼がなにかを“やらかした”のだという結論を導き出した。彼は言葉数こそ多いものの、戦闘以外のことに関しては命令を要領よくこなし、その働きぶりの評価が高い。しかし、時たまに目に余る失敗をすることがあった。あとで励まそう。彼女はひとりそう思った。
 さて、ここでひとつの疑問が浮かぶ。この男は一体誰なのか。
 制帽を目深に被っているせいで顔を窺うことはできない。だが、彼の有している雰囲気、纏っている空気。それらが自身の先輩にあたる人物であるのは間違いないと彼女は思った。加えて体格が良いことがより厳格な人物であるという認識にたどり着く。彼は幹部ではない。だが実力者であることに違いはなかった。

「きみはエスパータイプが好きなんだと思っていたよ」

 気が緩んでいる。先にそう言ったのは彼である。にも関わらず、それを顧みずに私語を口にするのはいかがなものか。ナマエはどこがざわめく気持ちに見舞われていたが、無視をする勇気もないので返事をした。

「わたし、エスパータイプがすきなように見えるのですか?」
「二人の関係性を表すに相応しい言葉が、俺には分からなかった」
「……?」

 違和感。なにかが噛み合わない。なにも答えられずに困惑していると、当然ながら訪れるのは沈黙である。しかしそれはナマエにとって耐えがたいものだった。
 そして訊ねる。

「え、えっと……あの、あなたはなにタイプがお好きなのですか?」
「ドラゴンタイプだ。……聖なる伝説のポケモン。その神秘さに、俺は惹かれてね」
「たしかに強いですね。……でもつかまえるの難しそうだと思います」
「簡単に手に入っては面白みがないだろ?」
「抵抗されるほど燃える……ということですか?」
「ああ!! その通りだ!!!」
「ひっ!?!?」

 どういうわけか唐突に過熱した男は、信じられないことにナマエの両肩を力強く掴んだ! どこにそのような起爆スイッチがあったのか理解に苦しむ彼女は、ふと或る既視感に身を包まれる。
 混乱とともに襲いかかるのは、恐怖。寿命が縮む危機である。
「なあ、」ばちりと視線が絡む。封印したはずの記憶がゆっくりと蘇り始める。「俺も、訊いてもいいかな」しかし、しかしだ。恐ろしさのあまりかも知れないが、あのときのことはどうも曖昧で、彼があの男と同一人物と決まったわけでは───……。

「きみはケーシィのサイコキネシスで吹っ飛ばした男のことを覚えているかい」

 否、同一人物だった。
 そして彼は“訊いて”などいない。明らかに確信している。
 ナマエは本能的に腕を振り払い、衣類収納部屋に駆け込んで扉を閉め、鍵をかけた。
 がちゃん。ドアノブが回された。当然、開きはしない。

「逃げるなんてひどいな。それに鍵まで」

 厚い扉越しに聞こえた声は、戦慄ものだった。どこか楽し気で、ある種の無邪気さを感じる声音。
 なぜ彼がここにいて、ナマエの前に姿を現したのか。身に覚えはある。大ありだった。あのとき───いかりのみずうみで出会ったとき、ケーシィのサイコキネシスが直撃したことに憤慨しているのだろう。ポケモンの技を人間に当てるのは倫理的観点から禁忌なのだ。咄嗟の判断とはいえ、悪いことをしてしまったという自覚はあった。

「でも、名前を知ることができてよかった」

 ナマエは震える手でポケギアを取り出した。そしてとりあえず共に任務を遂行していた団員に緊急連絡をしようと思いアドレス欄を開き、困惑した。そういえば数日前、どういうわけか登録されていた電話番号がランスのものしかなくなっていたのだ。つまるところ、選択肢はひとつしかない。だが、作戦に関わるか否かが定かではない件で連絡をするのは気が引けた。
 なにか策はないものか。ナマエは混乱し考えのまとまらない頭を死に物狂いで回転させるが、結局どうにもできずに泣いた。
 すると、着信音が鳴った。それに驚きポケギアを床に落とすものの、画面にランスという名が表示されており、慌てて拾い上げて電話に出る。

「は、はい! ナマエです! ら、ランスさま」
「展望台に向かうエレベーターの前。場所分かりますね」
「は、はい。覚えています」
「即刻テレポートしてきなさい」
「テレポート……?」
「一刻も早く」

 作戦実行中、テレポートで持ち場である地下通路を移動するということはできないが、これがランスの命令であれば話は別だ。
 これであの男から逃れられる。そう安堵したとき、背後でめりめりという聞きなれない音がした。恐々振り返ると、視線の先には扉に穴をあけ、ドアノブを内側から回してなかに入ろうとしている彼の姿が目に入った。「ぎょわあああ」思わず叫ぶと、「まさかジュンサーから逃げている最中ですか?」と聞こえた。

「い、いいえ! あ、赤いのに追いつめられてて……」
「は? 赤……」
「ロケット団は解散したよ」
「……、え」

 かいさん。解散?「……なるほど。そういうことですか」ランスはひとり納得した声色で呟くと、ナマエに指示する。

「ナマエ。つべこべ言わず従いなさい」
「は、はい。……ケーシィ」
「解散したのにまだその上司に従うつもりなのかい?……ああ、元上司だと言うべきだったね」
「え、あ……ケーシィ……え、っと」
「その男の言葉に耳を傾けるな」
「自分の生きる道くらい、自分で決めるべきだと思わないか。ナマエちゃん、きみは自由になったんだ。あとは───」
「ナマエ!!」
「! て、テレポート!!」

 ナマエはケーシィを強く抱きしめ、上擦った声で叫べば、浮遊した空間に身を投げ出され、次の瞬間にはエレベーター前に到着していた。
 そこには怒りのあまり表情をなくしたランスのほかに、幹部が揃っていた。

「ナマエ。よく耐えてくれました」
「あ、アポロさま……でもすごくギリギリでした……あの赤いの、扉に穴をあけたんです」
「ポンコツだと聞いていましたが、使えるじゃないですか」
「……ぽ、ポンコツ……」

 ナマエはその言葉にしゅんと肩を落とす。それを見かねたアテナが彼女の頭を撫で、どこか勝ち誇ったような表情を浮かべてランスを見遣った。

「事実です」
「そう言うなら、あたくしに頂戴なって何度も言ってるじゃない」
「私も、その申し出を何度も断っているはずですが」
「……?……??」
「おいおい……ナマエが取り残されてるからよ、その辺にしとけって。……ところで赤いのって何?」
「わたしもよくわからないです……」
「えっナマエが言ったことだろ?」
「……ここ最近飽きもせずにポンコ……いえ、我々の動向に探りを入れていた忌々しい奴ですよ」

 ランスの面持ちがみるみると険しくなっていく。「己を正義だと信じてやまない態度が癪に障る」だれが見ても機嫌が悪いと理解できる。だが、ロケット団が正義なわけもなかった。
 今にも激昂しそうなランスの様相を見て合点がいったのか、ラムダは「あ、チョウジのアジトで暴れてたやつか!」と納得したような声音で言った。

「さて。我々も無駄話はこれくらいにして、いい加減この場から去らねばなりません」

 アポロが近くにあった窓から外の様子を窺う。そこには団員たちが次々とジュンサーに捕縛されたり、ガーディに追いかけられたりしている無残な光景が広いがっていた。みながアポロの横から窓を覗き、悲惨な状況に口をつぐむ。

「アポロ。簡単に言うけどどこに身を隠すのよ? 外はもうジュンサーだらけ。それにあたくしたちの顔もきっと割れてる。……安全なところなんて」

 アテナが切羽つまってアポロを見つめる。彼はあごの下に手を添え思慮していた。「ナマエ。お前に命じます」何者かが階段を登ってくる音が聞こえた。「アポロ!」アテナが慌てて声を張り上げる。緊張の走る空気に、ナマエも内心焦った。それでも一切取り乱していないアポロが口を開く。彼女はその言葉に頷くと、ケーシィに再びテレポートを指示した。




 アサギシティから出航した船に揺られること数時間。ナマエはジョウト地方から離れることに、未だに実感を抱けずにいる。そこまで思い入れがあるわけではないからかもしれない。
 乗船するには、当然ながらチケットが必要だった。ナマエはそれを持っていなかったから困り果てたのだが、アポロが人数分確保していたため、杞憂に終わったのだ。もちろん、正規ルートで手に入れたのではない。つまるところ、窃盗である。
 制服は道中で廃棄してきた。彼女らが身に着けているのは無難な洋服だ。指名手配されていることを考慮して、眼鏡やサングラスを着用している。だが、彼女は自身の服装に困惑していた。

「ラムダさま……わたしは、なぜ変装していないのでしょうか?」
「ん? 服変えただろ?」
「でも……」

 ラムダは自身の身体を不安げに確認するナマエの頭を撫でた。
「大丈夫だって。ナマエはしたっぱのしたっぱだったし、顔バレてねえよ。……俺としちゃあもうちょい階級上でもよかったと思うんだけど」ラムダははちらり張本人に視線を移すと、彼は感情の汲み取れない顔をして立っていた。
 いまいち不安が拭えなさげのナマエに、ラムダは続ける。

「えーっとえーっと……あ! ほら、ナマエって気の抜けた顔してるし、悪っぽさ微塵もねえし、その格好だと誰が見たって普通の女の子だって」
「あたくしのところにきたらもっと可愛がってあげるのに」
「……何が言いたいんです」
「さあね?」
「……」
「ま、まあまあ! まあまあお二人さん! 折角の船旅なんだ、楽しくいこうぜ? なっ?」

 アポロが「賑やかですね」と呟いた。彼の目線は窓の外だ。それを追うようにしてナマエも大海原に視線を移す。夕暮れ時、太陽が海に飲み込まれてゆく光景に目を奪われ、逃亡劇は思っていたよりも快活なものなのだと呑気に考えた。これから上陸するカントー地方に対して、密かに胸を高鳴らせながら。

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