ナマエは現在、私服を着用しコガネシティのラジオ塔前に佇んでいる。未だに慣れることのない緊張感に、その表情はこわばっていた。ごくりと唾液を飲み込み、そうっと顔を上げれば、ぐんと背の高い建物を視界に捉えた。
 ナマエがラジオ塔を訪れているのは、身に余るほどの重要な任務を与えられたからである。
 近日中に、ロケット団は大々的な作戦を実行する。つまるところ、ラジオ塔を占領するのだ。ロケット団の頂点に君臨する、団員らに尊敬され崇拝されたアポロがそう宣言していた。その所以は、三年前にロケット団を去ったサカキにロケット団の復活を伝えるためである。一度は解散してしまったロケット団ではあるが、アポロを含めた幹部の尽力のかいがあり、見事に返り咲いたのだ。初めはナマエ込みで彼ら五人しかいなかったのだが、今は数百人に到達するほどの規模に膨れ上がっていた。
 三年前の騒動で退団した者は少なくない。そんななかで、なぜナマエがロケット団を去らなかったのか。その理由は単純明快、ロケット団として仕事をこなすことでしか人生計画が立てられなかったためだ。彼女はロケット団の一員として生きることしか想像できなかった。加えてアポロは、彼女自身の人生を捧げてもよいと思えるほどのカリスマ性を有していた。彼らの間にある主従関係に、彼女は居心地の良さすら覚えていた。
 ロケット団が現在の規模になるには、相当な下準備が必要だった。人員を募集することを始めに、活動資金を調達すること、アジトの建設、ポケモンバトルの腕を磨くことなど様々だ。ナマエは支給されたズバットと、なにかと役に立つ、いつ出会ったのかという記憶すらない、まるで生まれたときから隣にいたような、そんな大切なパートナーであるケーシィを基本的な手持ちとしている。二匹にはこれ以上ないというほどの最上級の愛情を以って、手塩にかけて育ててきた。ズバットに関しては特訓に特訓を重ねた結果、なんとゴルバットに進化したのだ! 次なる目標はクロバットへの進化である。懐き具合により進化するポケモンであるため、いつその姿を変えてくれるのか、彼女はそれを心待ちにしていた。
 ところで、ナマエはランスの配下にあるチームに所属している。彼はひたむきな人物である。彼女はしばしば任務を失敗したり、ほんの気のゆるみで負傷したりするなど、到底“悪人”とは思えない質の人間なので、しばしば叱責されていた。周囲からはよく飽きもせず腹を立てていられるなと感心されていたほどだ。
 ナマエはハッと我に返った。今はもの思いに耽っている場合ではない。集中しなければ。彼女は両頬を軽くはたき、ラジオ塔の自動ドアを通り抜けた。にぎやかな内部を横目に、階段を昇降しフロアを下見する。そして撤退するためのルートを辿り、ラジオ放送をする場所も確認した。一見すると、警備は手薄そうだという印象を受けた。恐らく、占領するのに時間はかからないだろう。
 ナマエは踵を返してラジオ塔から出た。重要な役割を終え、緊張がほどけた溜め息を吐くと、ケーシィをポケモンボールから出してテレポートをお願いする。直後独特の浮遊感に身を包まれたのちに、眼を開ければチョウジタウンにあるアジトのランスの部屋に到着した。

「ランスさま! ラジオ塔の下見、おわりました!」

 ナマエはケーシィを抱きしめながら戦果を報告した。するとランスは少々拍子抜けした面持ちをし、彼女は眼を丸くする。「ら、ランスさま……?」思わず尻すぼみにランスの名を呼ぶと、彼は「珍しいですね」と言った。

「なにかしら救助を求める電話がかかってくるとばかり踏んでいました」
「えへへ……わたし、力になれましたか?」
「……。では、報告を」

 ランスは頬をほんのりと赤く染めながら照れたように微笑むナマエを視認すると、彼女の集積した情報を求めた。
 たどたどしくも成果を伝えるナマエに、ランスは頷く。

「話を聞く限りは、占領するのに苦労はしなさそうですね」

 その発言にナマエも首を縦に振る。「警備が手薄であるほど容易ですから」もっともな発言だった。
 ナマエは次はなにをするべきなのか、ランスの言葉を待った。

「では、もう一つ任務を命じます」
「は、はい」
「いかりのみずうみへ行きギャラドスの数を確認しなさい」
「……ギャラドス、ですか?」

 真意を汲み取れないナマエに対し、ランスは「怪電波の及ぼす影響を知る必要があるのです」と口にすると、彼女は再びケーシィにテレポートをお願いしてアジトを出発した。




 ナマエはいかりのみずうみに到着すると、指示された通りにギャラドスの数を把握しようとみずうみの方へと視線を移した。すると、真ん中あたりに赤色のギャラドスがいた。普通は水色をしているはずなので、色違いということになる。
 彼女はいたく感動した。色違いのポケモンを見たことがなかったからだ。
 しかし、表面的にはギャラドスは赤色の一匹しか確認できない。普通であれば背びれが水面から突出して見えるはずなのだが、それがないのだ。もしかすると、深く潜っている可能性もあったが、一匹を残してその他多くのギャラドスがみな水底にいると考えるのは無理がある。
 だが、あくまでもそれは予測だ。確率的にはゼロではないので、彼女はどのようにしてみずうみのなかを調べようか、悩んだ。
 思案している間、赤いギャラドスは雄々しく鳴き声を上げている。それはどこか苦しんでいるような、そんな声音だった。
 やはり赤い色をしているのは、ロケット団が発信している怪電波が原因なのだろう。彼女はそう確信するが、そのように考えたところで彼女にできることはなにもなかった。すべてはサカキを呼び戻すため。それが終わればきっと解放されるであろうと自身に言い聞かせ、ケーシィを強く抱きしめる。
 だが、いくら方法を模索しても、これといった良案は思い浮かばなかった。自身が潜り込んで確認しようにも、それはあまりにも現実的ではない。
「……ほんとう、赤いなあ」任務内容に頭を悩ませてながらぽつりとそう呟く。独り言のつもりだった。ゆえに「確かにな」と隣から声が聞こえ、飛び上がった。
 思わず声の発信源の方を向くと、そこには真っ赤な髪色をした、正義感の強そうな青年が立っていた。彼女は危機感を覚えずに、“怪電波は人間にも影響を及ぼすのだろうか”と考えた。

「……」
「ああ、俺はワタル。この近辺を調査しているんだ」

 男は、どういうわけか勝手に自己紹介をした。彼女はそれに腰が引ける。なんだか、嫌な予感がすると。そう直感したのだ。
 ナマエは一度アジトに撤退するべきか悩んだ。こんなのは予測していなかったし、へたにこの男───ワタルと関わって個人情報、延いてはロケット団の内情を漏洩させるわけにはいかない。彼女は嘘を吐くのが大の苦手だった。

「あそこにいる赤いギャラドス。あのような姿になってしまったのには理由がある」

 ナマエはワタルの声に飛び上がる。どうしよう! ただそんな恐怖を抱き、震えた。「り、りゆう……?」頭のなかがぐちゃぐちゃで、半泣きになりながら思わずそう訊ねてしまい、その失態に怯えあがった。

「ああ。……ロケット団がラジオから流している怪電波。それが原因だろう」

 ワタルは顔をしかめて悔しそうにそう言った。当たり前だが、ロケット団に嫌悪を抱いているようだった。
 ナマエは場違いにも安堵していた。今身に着けているのが制服だったら、殺されていたかも知れないからだ。しかし、まだ油断するには早い。
 そこで、彼女は今一度理解した。やはり、ギャラドスが赤く色違いとなってしまったのは、怪電波のせいであると。サカキを呼び戻すためには必要なことだが、どうしようもなく悲しくなった。その現実はあまりにも無常で重かった。
 ワタルは続ける。

「俺はロケット団のアジトに乗り込んで、内部から破壊しようと考えている」

 ナマエはひたすらにわなないた。今、眼の前にいる男が、おそろしい。その考えに脳内が支配され、とうとう身体が震え始める。
 これ以上この場にいるのは危険だ。そう判断したナマエは、ケーシィを今一度抱きしめなおすと、テレポートと口にしようとして、絶句した。
 なんとワタルはケーシィの腕を掴み、遠くへと投げやってしまったのだ!
 ナマエは戦慄に支配される。たすけてランスさま。その懇願は儚いものだった。成す術もなくワタルに食い尽くされる。そんな恐怖に彼女は泣きわめきたかった。

「名前を訊いてもいいかい?」

 ナマエはとうとう涙をこぼした。眼の前の男が、おそろしい。ただただそれだけだった。

「きみの名前だ」

 急いてくるワタルに、ナマエは知らず知らずのうちに後退りしていた。それに気がついたワタルは、彼女の前に佇み、肩に手を乗せる。ひっという悲鳴が聞こえたはずなのに強行突破でもしようとしているのだろうか。無理がある。
「なあ、」俯くナマエの顔を覗き込むのがわかったナマエは、ついに口にしてしまった。「け、ケーシィ、サイコキネシス!」と。
 あまりにも怖かったのだ。人間にポケモンの技を当てるなど、そんなことあってはならないというのに。
 ワタルは数十メートルほど投げ飛ばされた。その横で、ケーシィが静かにナマエの元へと戻ってきた。彼女はがたがたと震えながら抱きしめる。

「抵抗するつもりか。面白い」

 ワタルはなぜか舌なめずりをすると、腰にあるモンスターボールを手にしてポケモンを出した。赤い光に包まれた大きなポケモンを眼にした瞬間、ナマエはテレポートしていた。
 本当は謝罪するつりだったというのに、そんな考えを一蹴するほどの雰囲気を纏っていたのだ。これ以上この場にいると、どうにかなってしまいそうだ。恐怖である。




「ランスさま……」

 ナマエはランスの部屋のなかにテレポートすると、そのまま地面にへたり込んで泣いた。「……なにかあったのですか」彼はどこか苛立ったようにそう訊ねると、それでも彼女はしどろもどろになりながらも調査報告をした。

「ご、ごめんなさい……赤いギャラドスは、一匹しか確認できませんでした……」
「そうですか」
「はい……あと、赤いおとこがアジトに乗り込んでくるって……」
「それで」

 ナマエは顔を上げる。どうやらランスはそれ以上に聞きたいことがあるようである。

「あ、あの……」
「まだ何か言うことがあるでしょう」
「……」

 ナマエは考えた。ギャラドスとワタルのことは報告したのだ。それ以上にランスが求めている情報はなんなのだろうかと。
 もしかすると、ランスはみずうみで彼女が見舞われた不測の事態について予測できていたのだろうか。それを知っているから訊ねているのだろうか。
 ランスは実際に目にしていたわけではないのに、彼女に起こった恐怖体験の報告を待っているようにも思えた。

「……あ、赤いおとこに、名前をきかれました……そ、それで、肩をこうやって」

 ナマエが半泣きになり体の動きで該当の動きを再現しながらそう言えば、ランスはなにかを思案する面持ちで腕を組み「そうですか。油断していました」と言った。

「ナマエ。貴女に与える任務は限られてきますね」

 ランスはそう呟くと、ナマエを下がらせた。彼女は彼の言わんとしていることが、任務を失敗してしまったことと紐づけ、しょんぼりしながらランスの部屋をあとにしたのだった。

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