少女の言葉が鼓膜に張りついて離れない。霊幻とモブは、半ば意識が混濁した状態で事務所へ戻った。各々が椅子に腰かけ、気まずい沈黙に包まれる。
 初めは信じることができなかった。だが、幾度確認しても少女は発言を撤回せず、それどころか泣かれる始末。そんな彼女の様相にふたりは口をつぐみ、撤退した次第なのである。
 さて、問題は次の行動をどうするか、である。なまえの居場所はわかった。だが、その一歩を踏み出すのが、どこか恐ろしい。霊幻とモブは、現実を目の当たりにすることが怖かった。それこそ、今まで構築してきた関係が崩壊してしまうことが。

「……すみません、師匠。僕、今日はそろそろ帰ります」
「あ、ああ。気をつけてな」

 モブはおずおずとそう口を開いたので、霊幻は頷いた。モブにも、事態を整理する必要があるだろう。それは霊幻も同様だったが。
 モブが事務所から出てゆくと、途端に事務所は静寂が落ちた。本来ならば、なまえがいるはずの場所。それが遥か過去のようなことのようにも感ぜられ、霊幻は首を振った。
 今日は自身も自宅へ帰ろう。まだ営業時間内ではあったが、さすがの霊幻も、精神的に傷を負っていた。椅子から立ち上がり、扉を開いて外に出て施錠する。物寂しい帰路に、霊幻は随分と絆されていると、そう実感したのだった。
 


 それから霊幻とモブは、極力なまえのことを考えないようにしていた。現状を受け止める決断ができないからだった。ふたりは臆病になっていたのだ。
 もし少女の言っている状態のなまえを眼にして、果たして冷静でいられるだろうか。答えは未だ出そうにない。
 だが、幾ら考えまいとしていても、要所要所でなまえの存在が纏わりつく。忘れたくても忘れられない。ふたりはそんな苦悩に悩まされる羽目となっている。
 彼らの前では、もはやなまえという単語は禁句になっていた。霊幻もモブも、共に現実から眼を逸らしている。
 或る日、モブは事務所で己が淹れた茶を飲んでいた。なまえが淹れたそれよりも、心なしか味が劣る気がした。

「なまえ、この件なんだが───」

 ふと、霊幻がそう口にする。そして頭を殴られた感覚に見舞われた。
 例え存在を忘却しようとしても、記憶から消し去ることができない、そんな存在。それを眼前に突きつけられたのだ。
「……」霊幻は口を引き結ぶ。彼はいつだってなまえのことを忘れたことはなかった。ひとりでは広すぎるという錯覚を覚える自宅。そして毎日食しているインスタントラーメン。多少は自炊をするようになったと言えど、私生活のなかで、なまえの姿はあまりにも馴染んでいた。
 霊幻は机に肘をつき、思い悩む。次に取るべき行動は、ひとつだけだ。だが、実行するには覚悟が必要だった。
 やがて、そんな様相を眼にしていたモブが言った。「師匠。なまえさんに会いに行きませんか」シンとした空気。モブがなまえの名を口にした途端、室温が数度降下した気がした。
 霊幻も、理解はしているのだ。寧ろその言葉を待っていたのかもしれぬい。彼はようやく決断したのか、瞳に熱をちらつかせた。

「モブは、怖くないのか」
「……なまえさんがどんな状態であっても、なまえさんはなまえさんです」
「……そうか。そうだよな」

 真っ直ぐな瞳を携えたモブに、霊幻の決意は膨らむばかりである。
 そうだ。なまえがなまえであることに変わりはない。それを判断できずにいてどうする。例え一から───或いは零から始めたとしても、そんなものは大した障壁にはならないはずだ。霊幻はそう考え、力強く立ち上がった。
「よし。行くぞ」霊幻はそう言いながら扉の方へと向かい、ドアノブを回した。



「ここか」

 霊幻とモブは病院の前に立ち尽くしている。眼前に佇むのは大きな総合病院だった。
 なまえの元を訪れるのに道中店に寄り、見舞いの花を購入した。せめてもの心遣いである。
 彼らは決心した険しい面持ちで、自動扉を通る。エレベーターで少女から教えてもらって階に降り、目的の病室へと向かう。
 目当ての病室の前に到着するまで、やけに時間の経過が遅い気がした。
 ネームプレートを確認した。みょうじなまえ。何度も見直し、なまえの病室であることを再三確認する。そしてふたりは扉をノックした。「はあい」聞き覚えのある声。懐かしい声だ。それはふたりにとって、あまりにも刺激の強い声だった。
 扉をスライドし、部屋のなかに足を踏み入れる。広いガラス窓、温かな日の光。その眩しさに、霊幻は思わず眼を細めた。

「今日も来てくれたんですね。わたし、すごくうれし───」

 満面の笑みを浮かべたなまえはベッドにすわりながら彼らの方へと視線を移す。すると視線の先には予想だにしなかった人物が立っていたのか、丸い眼玉がさらに丸くなる。
 実に数週間ぶりの再会だった。まるで幾年も顔を合わせなかったかのような錯覚。霊幻は泣きたくなった。
 だが、問題はこれからだ。なぜなら、なまえは───

「……なまえ。久しぶり、だな」
「……」

 なまえは思い悩むような様相を見せ、戦々恐々、疑問を口にした。

「……ごめんなさい。だれ、ですか……?」

 わかっていた。十分わかっていたはずだった。だが、実際に直面すると、それは見事に研ぎ澄まされた、鋭利な刃物となり彼らの鳩尾に深く突き刺さる。

「───でも、なまえちゃんは、記憶喪失になってるみたいなんです」

 少女のその言葉が、ふたりの脳内でぐるぐると渦巻いていた。
 そもそも、幽霊になっていたからと言って、ニンゲンに戻れたところで本来の記憶が継承されるとは限らない。
 しかしながら、そこには期待があった。自分本位な期待が。
 霊幻は無理に笑顔を作ると、部屋の奥に進んだ。どうやら己以外の誰かも見舞いに来たらしく、消灯台には千羽鶴が置かれている。以前渡されたのであろう花を生けていた空の花瓶もあった。霊幻はそこに購入してきた花を立てた。

「元気にしてたか?」
「……」
「いや、入院してるんだ。元気なわけないよな」

 霊幻は懐かしそうに言う。なまえの反応は得られない。
「俺、あれから少しばかり料理するようになったんだよ。相変わらずインスタントラーメンで済ませることも多いけどな。けど立派になったもんだろ?」悲哀の感情を読み取られないように、自然と饒舌になった。
 なまえは依然としてなにも言わない。

「なまえさ、よくハンバーグ作ってくれたよな。俺好みの」

 そこまで言うと、霊幻は発言を止めた。なまえがぼろぼろと大粒の涙を両眼から流し始めたからだ。彼は、この話題を提供したのは失敗だったかと思った。だが、なまえは拒絶するわけではないことを眼にし、彼女の反応を待つ。

「あ、あれ、おかしいなあ」
「……」
「わたし、どうして泣いてるんだろ」

 今自身の身になにが起こっているのか理解できていないなまえは、酷く混乱しているようだった。霊幻は抱擁したくなる感覚に襲われた。だが、記憶のない彼女にそんなことをしようものなら、どんな顛末になるかは想像に容易い。結果、彼は近づきそうになる足を止め、適度な距離を保ちつつじっと見守る。
 なまえはさめざめと泣いている。両手で頬を伝い落ちる涙を拭うが、それは止まることを知らない。
「ごめんなさい、わたし、あなたたちのこと、しってる……?」次第にしゃくりあげながら、それでもなんとか話そうとするなまえを、霊幻は宥めた。

「いいんだ。焦らなくていい」
「ご、ごめんなさい」

 数十分ほど経過しただろうか。少しずつ落ち着きを取り戻してきたなまえは、赤く腫らした眼を霊幻とモブの方へと向ける。痛々しい両眼に、ふたりは少なからず傷心した。
 なまえは俯いた。長い睫毛が影を落とす。「わたし、あなたたちにとって、どんな存在だったんでしょうか」震えた声で訊ねる彼女に、霊幻は思い悩む。ただのバイト先の上司、という説明は正確には的を射ていないからだった。そうであれば同じベッドで睡眠を貪らない。それがなまえにとって深い意味はないと考えていようが、彼にとっては重要な意味合いを持っている。したがって、霊幻は答えることができなかった。
 沈黙を貫く霊幻を見て、なまえは意外にも深く追求してこなかった。真実を知るのが恐ろしかったからか、はたまた訊ねておきながらそこまで興味がなかったのか。彼には判断がつかない。
 訪室してから三十分が経過しようとしていた。霊幻はこれ以上長いしてもなまえに負担をかけるだけだと思い、モブの方を振り向く。そして「そろそろ帰るか」と言った。モブはそれに頷く。

「……帰るんですね」
「ああ。また来るよ」
「ごめんなさい、あの、思い出せなくて……」

 申し訳なさそうに視線を下げるなまえに、霊幻はとんでもないと手を振った。「初日で思い出せるのなら苦労はしないだろ。だからあんま気にすんな」彼のその言葉に、彼女は安堵した面持ちになる。
「また明日来るよ」霊幻はそう言うと、モブと病室を後にした。部屋から出る際、今一度なまえの顔を窺うと、彼女は悲しそうな表情を浮かべていた。
 事務所へ帰る道中、ふたりは知らず知らずのうちに溜め息を吐いていた。記憶がない、というのは覚悟はしていたものの想像以上にダメージを負うものだった。
 霊幻は酷く疲弊していた。今日はもう休んでしまおうか。そう思い立ち、モブにその旨を伝える。すると彼もまた同様だったのか、素直に頷いた。
 ふたりは事務所の前で解散した。霊幻はそのままスーパーへ向かい、籠を手に持つ。足は自然と精肉コーナーへと向かっていた。自炊をする気分だった。そうして気を紛らわしたかった。
 霊幻は帰宅すると、洗面所で手洗いうがいを済ませてから台所に立つ。ソファに座りながら様子を眺めていたなまえの姿を思い浮かべながら。
 食事を作っている間も、もともと期待はしていなかったが、やはりなまえのことを考えていた。

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