「身体が、ですか」

 事務所に到着すると、間もなくモブも現れた。どうやら今日は部活が休みらしい。放課後、毎日のように鍛錬に励むモブのことを、なまえは心底応援していた。努力は必ず報われる。彼女はそう確信しているのだ。
 モブはなかへ入りソファに腰かける。そしてなまえが淹れた茶を飲みながら霊幻から今朝のことのあらましを聞き、モブは言った。

「よかったですね、なまえさん」

 なまえがまた一歩、現在の状態から解決に近づいたことは、モブにとっては喜ばしいことだった。少なくとも彼にとってはそうだった。霊幻やなまえがどのような心情を所持しているのか、彼には予想だにつかない。
 なまえは着実に状況が変化していることに対し、一抹の不安を覚えていた。ニンゲンに戻ることができるのならば、それは喜ばしいことに違いないが、そもそも自身はまだ“生きている”のだろうか? ともすれば成仏できていないだけなのかもしれないのではなかろうか?───そんな不安を。
 今のこの状況下が、なまえにとってとても大切なものになっていることは言うまでもない。そしてそれを失いたくない、というのが彼女の本心だ。だが、一見して現状を打破する方法を探っている霊幻とモブにとって、それを口にすることはなかなかの勇気が必要だった。
 なまえはぶんぶんと頭を左右に振ると、無理やり顔を明るくし、ヒトの好い笑顔を浮かべながら、当たり前のようにモブの隣に腰かけた。
 それを見た霊幻は、無意識の内にひくりと口角が吊った。どろどろとしたどす黒い感情が腹の奥底で燻る。相手はまだ中学生の少年だ。さすがに大人気ないなと心のうちで言い聞かせる。だがそれでも面白くないものは面白くないのだ。

「なまえ、こっちに来い」
「?」

 名を呼ばれたなまえは不思議そうな面持ちを浮かべると、ソファから立ち上がり霊幻の元へ歩み寄る。椅子に腰かけた己の隣に立てば、それだけで彼は満足だった。そこにはあまりにも格好のつかない優越感があった。

「霊幻さん、どうかしたんですか?」
「ああ、いや……あんまりくっつくなって言いたくてだな」

 首を傾げられれば、霊幻は己の稚拙さを恥じ、そして控えめにモブと接触───この場合身体的な接触だが───は控えろと伝えた。それになまえはやはり眼を丸くするのだった。
「でも、わたし、霊幻さんとは同じベッドで───」なまえが言わんとすることを迅速に察知した霊幻はわあわあと声を上げた。その事実がモブに伝わったらなんと言われるか分かったものではない。少なくとも、思春期真っただなかで感性が研ぎ澄まされた彼に軽蔑の視線を向けられるのは明らかだった。霊幻は弟子に幻滅されることを危惧したのだ。

「なまえさん、師匠、どうかしたんですか?」
「えっ? や、なんでもない。断じてな」
「?」

 ひとり慌てた様相を見せる霊幻に、やはりなまえとモブは疑問符を浮かべるのだった。
 霊幻は雲行きが怪しい現状を打破するように「……よし、出かけるか」と言った。彼は椅子から立ち上がり伸びをすると、扉の方へと向かう。なまえとモブが付いてくるのを横目で確認し、ドアノブに手をかけた。
 ここ数日の三人は、調査する場所を公園から塩高等学校へと変更していた。公園で得られる情報はほとんどないに等しかった。もしかするとそこから自宅への道のりを思い出せるかもしれないと踏んだのだが、なまえの記憶は一向に蘇る素振りがないのだ。このままでは時間だけが過ぎ、解決の一途をたどるのも夢のまた夢に違いなかった。
 霊幻にしてみれば、心の奥底では記憶が戻らなくとも構わないという思いがあったのだが、それを口にするわけにもいかない。
 やがて塩高等学校に到着すると、夕刻のわりには下校する者が多く、玄関から多数の生徒が出てきている最中だった。本を読みながら歩いている者、数人のグループで楽しそうに談笑しながら歩いている者、自転車に乗り猛スピードで校門を抜ける者、三者三様だった。
 実のところ、調査する場所を塩高等学校に変えたところで、大きな進捗があるかどうか訊ねられれば、首を縦に振ることは難しい。だが、通う内になまえの知り合いと遭遇できるのを期待していた。
 そして、その期待がようやく実を結ぶことになる。

「ね、なまえのところ行く?」
「そうだね〜私も行きたいなって思ってた」
「なにかお土産買ってこうよ」
「いいね」

 人波が途切れたさなかに出てきた二人組の少女。ショートカットヘアで切れ長の眼をした少女と、おさげ髪で眼鏡をかけた少女。それは一見して交流が疎遠になりそうな組み合わせだった。
 霊幻はどくりと鼓動を速めた。彼女らはなまえのことを知っている! 横を通り過ぎられるのを確認した。だが、口が開かない。真実を知るのが怖い、という思いもあった。そこには現状を変化させるに違いない要素があったからだ。
 彼女たちの言葉を耳にしたモブは慌てたように霊幻のことを見つめた。「あ、あの、師匠」モブがわたわたと彼女たちと霊幻の顔を見比べる。話しかけなくていいのかと、そう思ったのだ。
 なまえは感情の読めぬ瞳を携え、二人組を見つめていた。すると霊幻はモブの視線に耐え兼ね、とうとう口を開いた。

「ちょっといいか」
「え?」

 霊幻が意を決し声をかけると、二人組は足を止め、彼のことを見つめる。「……誰ですか?」不審の眼が突き刺さるのは当然だった。生徒にとって霊幻は不審者に違いないのだ。

「君たちはみょうじなまえのことを知ってるのか?」
「はあ、知ってますけど……おじさん誰ですか」

 おじさん、という言葉に霊幻は言葉が詰まった。俺はまだ、おじさんと呼ばれる年齢ではない───という言葉はとりあえず飲み込み、続けた。「俺たちはみょうじなまえのことを探してるんだが」その発言に、二人組はさらに霊幻に疑いの目を向ける。傍にいるなまえのことは、当然ながら見えていない。

「なんで探してるんですか」
「……、それは……」
「ね、行こ」
「うん」

 霊幻は何も言えない。本来ならばあることないこと並べ立てることができる質であるというのに、今はどういうわけか言葉が出てこなかった。
 二人組は彼らから逃げるように走り去っていった。霊幻は引き止めることができなかった。
 事務所に戻ってきた三人は、どこか意気消沈した雰囲気に纏われていた。せっかくのチャンスを物にできなかった。少なくとも、モブはそう感受していた。霊幻はひとり腹の底で葛藤している。なまえの正体を明かすことは絶対条件。だがそうすれば己の元から離れていってしまう可能性がある。彼はそれを恐れているのだ。
 あの二人組はなまえの元を訪ねようとしていた。“お土産”とはどういうことなのだろうか。直ぐには会えない状況にいるのか、或いは───。
 考えても仕方がない。霊幻が時計を確認すると、それは十八時を刻んでいた。

「モブ、今日はもう帰れ」

 霊幻にそう言われ、モブは立ち上がった。「はい。……なまえさん」モブはぼんやりしているなまえのことを見つめる。

「僕たちは、なまえさんの味方です」

 出来得る限りの微笑みを浮かべそう口にしたモブに、なまえはハッとした面持ちになると、ようやく笑顔を見せ「うん。ありがとう」と言った。
 モブはそんな彼女の反応を確認すると、扉を開け事務所から出て行った。彼は明日は部活動がある。つまるところ、霊幻となまえはふたりで行動をすることになる。今日のできごとが彼らにとって真実の明暗を示すことは明瞭である。だが、なまえの様子がおかしい。先にモブに見せていた笑みは今や消え失せていた。

「なまえ」
「……霊幻さん」

 ぽつりと口を開いたなまえに、霊幻は言葉を飲み込んだ。

「わたし、こわいんです」

 俯き己の足を見つめながらなまえは話し始める。「もしこのまま頭も触れるようになって、あるべきところに行きつくのが、こわくてたまらないんです」今の関係性が変わってしまうのが、堪らなく怖いのだと、彼女はそう言う。その思考回路は自身も同じであると霊幻は感じていた。だが、それを口にすることは叶わない。口にするとなにかが崩壊していまいそうな、そんな気さえしたからだ。

「わたし、家の場所も、自分のこともわからなくて、ずっとひとりだったんです。すごくさびしかった。だから、茂夫くんがわたしのことを見つけてくれたとき、すごくうれしかった。だから───」

 言葉が続かない。項垂れるなまえを見かねた霊幻は、自然と彼女の頭を撫でようと手を伸ばすが、それが叶うはずがない。彼はすり抜けた手を握りしめると、絞り出すようにして言う。「……帰るか」それが彼にとっての、精一杯の返答だった。
 自宅へ帰るまでの道中のことは、あまりよく覚えていない。ただ、機械的に夕食を済ませ、風呂に入り、床に就いて初めて、霊幻はひとりで考えを巡らせていた。
 己はなにを望んでいるのか? それは現状の維持だ。現在のこの関わり合いを、保持する。それが霊幻の望みであり願いである。
 なまえの発言からも、彼女も彼と同様の心情を抱いていることが把握できた。だが、そこに彼と同様の想いがあるかどうかは悩ましいところである。霊幻が彼女にとって特別な感情を持っていることは自覚済みだ。しかし、それを強制するようなことにはなってほしくない。
 霊幻は眼前の華奢な背中を見つめてから、瞼を閉じた。



 夜が明けた。カーテンから漏れる日光が瞼に当たり、霊幻は覚醒した。そしていつもの癖で眼の前の身体を抱き寄せる。抱き寄せたはずだった。
 だが、なににも触れない。腕は虚空を掴むのみである。彼はそれに驚き起き上がる。

「なまえ?」

 名を呼んだ。返事はない。ベッドから降り、台所へ向かう。常ならばそこに立っているはずだ。しかし姿は見えない。そしてきっと、外に出ているわけでもないのだろう。
「……」霊幻は分かっていた。分からないふりをしているだけだった。なまえは消えてしまったのだと。
 霊幻はやけに広く感じる部屋のなかで、カップラーメンに湯を淹れ、三分待ったのちに麺を啜った。そして身支度を整えスーツに着替え家を出ると、事務所に向かった。
 事務所での霊幻は、存外冷静だった。仕事は仕事と切り替えることができているのだろう。それはまさしく社会人の鑑である。
 訪ねてくる客の要望に応えているうちに十五時になった。具合よく客の足が途切れたので、モブに電話をかける。

「おーモブ。ちょっといいか」
「なんですか」
「なまえのことなんだが」

 霊幻が電話でなまえがいなくなったことを伝えれば、モブは電話越しでもわかるくらい狼狽していた。事情を説明すると、モブは部活を休むと言い出した。そして霊幻と共になまえを探すと、そう言った。霊幻はふたつ返事で頷いた。
 ふたりは事務所の前で合流すると、別段話し合うことなく或る場所へと向かった。それは言わずもがな塩高等学校である。彼らは以前遭遇した、なまえの友人と思しき少女たちとの接触を試みようとしていた。
 前回出会ったときは夕刻だった。今日はそれよりも早い時間帯なので、先に帰宅してしまった、ということはないだろう。
 ふたりは門の前で学校を眺める。ぞろぞろと足並みをそろえて出てくる生徒ひとりひとりに、視線を巡らす。なかなか目的の少女らは現れない。
 もしかすると、部活動。その可能性は捨てきれなかった。だとすると、その点は盲点だった。
 また後日出直すか。そう諦めようとしたとき、見覚えのあるおさげ髪、そして眼鏡をかけた少女が出てきた。霊幻は幾年も顔を合せなかったかのような錯覚を感じた。そして、なまえの元へたどり着く手段となる少女に、心底喜悦した。
 どうやらモブもその少女の姿を視界にとらえたようで、彼らは目配せする。俯きながらどんどん歩き進める少女は、ふと顔を上げ門の前にふたりの男がいることに気がついた。そして顔を青くする。
 少女は小走りに駆け抜けようとした。だが、それを素早く察知した霊幻が少女の腕を掴む方が早かった。
 少女は叫び声を上げようと口を開く。だが叫ばれると面倒になる。霊幻は慌てて言葉を紡いだ。

「悪い、大きな声はださないでくれ」
「え、え、」
「ただ質問に答えてほしいんだ」

 霊幻がじっと少女のことを見つめれば、彼女は気まずそうに視線を地に落とした。とりあえず、話は聞いてもらえそうである様子に彼は胸を撫でおろす。
「あ、あの、……聞きたいことって」なまえちゃんのことですよね。少女は消え入りそうな声でそう言った。霊幻とモブは勢いよく頷く。理解しているのならば話し早い。彼らはそう思った。
 少女はなかなか切り出さない。だが促したところでまた逃げられるかもしれない。そう思った霊幻は、静かに彼女の言葉を待った。
 もじもじとしていた少女は、やがて顔を上げた。その視線は未だ迷っているようである。

「教えてくれるか」
「……でも、あなたたちはなまえちゃんのなんなのですか」

 少女は霊幻らの素性を気にしているようだった。年齢の離れている男性と、見るからに行動を共にすることを強制的されていると思しき中学生の少年。一見して、その少年はバイトをするような年頃ではないし、男は金髪で教師には見えない。彼らの接点が見えないのは明確だった。少女はそのことを気にしているのだ。
 霊幻は悩む。なんと説明するべきか考えあぐんでいた。彼はなまえを雇っている身ではなかったが、バイト先の上司、とでも言っておこうか。この際脚色のことなど気にするに値しないだろう。
 霊幻がそう説明すれば、少女は不安げな面持ちになり、彼のことを見つめる。彼女のことを納得させることはまだできていないようだったが、それでも質問に答える素振りを見せた。

「なまえは、今どこにいるんだ?」
「……」

 霊幻が訊ねると、少女は悩む様相を見せる。また無言を貫かれると苦しい。彼はそう思いつつ少女の言葉を待った。
 モブはどこか緊張した表情を浮かべている。少女の後方をちらちらと気にしながら、彼もまた静かに彼女の言葉を待っている。
「……病院です」ともすれば聞き逃しそうな声だった。だが、霊幻は聞き逃さなかった。格好の餌食に喰いつくようにして少女に畳みかける。

「病院? どこのだ。病気を患ってるのか?」

 矢継ぎ早に、相手の返答を待たずして次から次へと問いただす霊幻に、少女はとうとう委縮した。「師匠」そしてモブのその声で、我に返る。
 霊幻は舌打ちした。少女に対してではない。なまえのことに関すると我を失ってしまう自分が情けなかったからだ。
「なまえさんは、病院にいるんですね」モブが確認するようにそう問うと、少女は小さく頷いた。
 その後、少女はまた黙り込んだが、粘り強く次の発言を待っている霊幻とモブは、とうとうなまえがいるらしい病院の名前を聞き出していた。今すぐにでも向かいたいところだったが、そういうわけにもいかなかった。
 少女の言葉が彼らを硬直させた。

「でも、……でも、なまえちゃんは───」

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