なまえの手が実体化した。意識せずとも、ニンゲン側から触れることができるようになった。だが、触れられるようになったからと言って、誰しもがその手を視られるようになったわけではないようだった。彼女はやはり、どこをどう見たって幽霊であることに違いはなかった。

「今日も収穫はない、か……」

 なまえとモブ、霊幻は、今日も今日とて街を歩き回っていた。なまえの手が触れられるようになった以降は、再びなにかが起こるわけでもなく、また平凡な生活に逆戻りだった。
 夕刻になり、三人は解散する。モブは自宅へ、そしてなまえは霊幻宅へと。彼女は手が実体化してから、ひとつ週間化したことがある。
 それは料理だった。
 食材は霊幻と共にスーパーへ行き、食べたいものを相談しつつ購入する。今日は霊幻がハンバーグが食べたいとのことだったので、彼は材料をかごに入れた。そしてデザートとしてスモモもかごのなかへ。会計を済ませると霊幻は何も言わずにレジ袋を持つものだから、なまえはふにゃりと笑いながら「ありがとうございます」と言う。ふたりは知らず知らずのうちに、いつだって互いを支えあっていた。
 帰宅して手洗いうがいを済ませると、なまえは台所に立つ。そして手袋を装着して材料を混ぜ合わせたタネをこね始めた。それを霊幻はソファーに座りながら眺める。それは彼の習慣のようなものだった。なまえは集中しており気がついていないのだろうが。

「わたし、生きていたときって、きっと料理するのがすきだったんだと思います」

 なまえは微笑みながらしばしばそう言う。霊幻もそう思っていた。料理の腕は確かだったからだ。記憶はないはずなのに、まるで手が憶えているかのように動くのだ。この調子で自分のことをもう少し思い出してほしいと、霊幻はそう思っていた。
 否。正直なところ、思い出してほしくない、という思いも心の奥底であった。今のまま、この生活を送っていきたいと。そう考えてしまう自分がいることにも気がついていた。
 あの容貌のことだから、万が一の可能性で恋人がいるということもある。花の高校生なのだからよくある話だ。ただ、仮にそのような存在がいたとして、自分は諦めることができるのだろうか? その答えは霊幻だけが知っている。
 そして食事を終え、風呂に入り、歯を磨き、就寝時間が訪れた。ふたりは今もシングルベッドで寝ている。なまえはいつも自分に背を向けて寝るのだが、それに関しては少々不満がある霊幻であった。言葉にはしないが。
 明日目が覚めたときには、なまえの実体化する部位が増えていたらいいなあと、毎日そんなことを考えながら眠るのである。矛盾していることは彼が一番理解していた。



 翌日。目が覚めた霊幻は、珍しくもまだ寝ているなまえの背中が眼前にあることに気がついた。そのまま寝ぼけたまま身体を自身の方へ抱き寄せようとする。すると、やわらかな身体の感触が腕のなかに閉じ込められた。

「……?」

 霊幻はカッと開眼した。これは、もしや、いや、もしかしなくても。

「お、おい、なまえ! おまえ、身体が」
「ん、んん?」
「おい、起きろって」
「ん〜」

 身体をゆすっても珍しくなかなか起きないなまえに痺れを切らした霊幻は、ふといたずら心が湧いて彼女の服のなかに手を入れた。そしてやさしくなめらかな腹を撫でると、なまえはびくりと身体を反応させる。

「や! な、なにするの」

 そこでようやくなまえは覚醒した。己の手より大きなそれを制し、二度、まばたきをする。すると自身が霊幻に抱きしめられていることに気がついた。久しぶりに感じるヒトの体温である。心地いい感覚ではあるのだが、いかんせん体勢が体勢なだけに、緊張を覚えずにはいられない。
 なまえはしつこく絡みつく腕をどうにかして避け、緩慢な動作で起き上がる。霊幻もそれに倣い身体を起こした。

「触れられるところが増えたらしいな」
「そ、そうみたいですね」
「具体的にはどこなんだ?」
「それ、は……触ってみないと」

 そうは言われるものの、無遠慮に触るのは紳士としてのプライドが───先ほどの愚行は彼にとってはノーカウントだった───許さない。そもそも、先ほどなまえを抱き寄せたところで彼女の上体に触れるのは確認済みだった。
 まず、脚に触れてみた。指が当たる。そしてももの付け根から指先まで、丁寧に撫で上げると、なまえはびくりと反応を示す。足を擦り合わせる様子は艶めかしく、霊幻の視線が釘づけになる。思わず舌なめずりをしていた。

「あ、あの、あんまりへんな触り方はしないで、ください……」

 眉尻を下げそう言われ、霊幻はおっとこれはいかんと思い直す。丁度よからぬ思いが脳裏を駆け巡ったところなのだ。身体を奥底でむくむくと膨らむ感情は決して純情なものではない。
 次いで、頬。残念ながらこちらには触れられなかった。つまり、頭は未だ撫でられないということになる。
 だが、それでも大きな一歩だ。

「なにを基準に触れられるところが増えるんだろうな」
「それは、わたしにも……」
「なにはともあれ、あとは頭だけってことか」
「でも、頭が触れるようになったら、わたし、どうなっちゃうんでしょう……」

 ふと、なまえのその言葉に、霊幻は考える。なまえは幽霊であるが、触れられるということは“実のところ”は幽霊ではない、ということなのだろう。そこまでは理解できる。霊幻は伝承や逸話などは信じる質ではないが、もしかしたら人ならざるものである可能性もあるのだろうか? こればっかりはいくら考えても理解できるものではない。
 しかし、たとえなまえが人間ではなかったとしても、霊幻は彼女を手放すつもりは毛頭なかった。仮に恐れられるような存在だったら庇護するし、反対に悪の組織に狙われるような存在だったら喜んで身をささげるだろう。悪の組織、だなんて、考えただけでも笑えるが。

「ま、考えても仕方がない。飯食って事務所行くぞ」

 霊幻がそう言うと、なまえは食パンを焼きに台所へ向かったのだった。

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