モブは帰路の道中に通りかかる公園の前で足を止めた。その視線の先には、寂しそうな表情を浮かべながらブランコに座っているニンゲンがいる。対象のニンゲン───モブよりは年上のように窺える少女は、キイキイと寂蒔な音を軋ませながら、ゆうらゆうらと揺れていた。
 少女は道行く人びとに縋るような眼を向けているようであったが、生憎ながらその行動に対する結果は伴わない。まるでそこに存在し得ないような、地に足をつけていないような、そんな反応が呈されているのだ。モブはそんな彼女のことを遠巻きにじいっと見つめる。眼前で繰り広げられている光景は、彼にとっては見慣れたものだった。
 モブはここ三か月の記憶に思いを巡らせる。彼には少女はある日突然姿を現したかのように思えた。いつ公園を訪れようとも彼女はそこにいた。身にまとっている制服は塩高等学校のものである。だが、少女は登校する様相も帰宅する様相も見せない。けれども彼はひとり納得していた。
───そう、少女は幽霊なのである。モブ以外に視認されることがないのもそれが原因だった。
 少女は静かに俯くと、涙を流した。それにモブはぎょっとする。彼女の涙を見たのは初めてだったからだ。そしておろおろと公園の周りを歩き回る。
 端的に言うなれば、モブは少女に興味を持っていた。
 少女は頬を伝う涙を手で拭っているようであったが、その雫はなかなか止まることを知らない。そしてそれを見かねたモブは、とうとう公園のなかへ足を踏み入れると、意を決したように少女に声をかけた。

「あ、あの」

 モブは緊張も相俟り声が上擦ってしまったことに顔を赤くする。すると、彼の声を耳にした少女は弾かれたように顔を上げた。涙に濡れた双眸に、モブの心臓がどきりと跳ねる。ぽかんと呆けた面持ちをしていた彼女は、ハッとして口を開く。

「きみ、わたしが見えるの?」

 少女は再び涙が零れそうになるのを必死に堪えるようにしてモブに問うた。彼は静かに頷く。すると、少女は顔を明るくした。どうやら涙は止まったようである。

「そうなの! うれしい。わたしね、ずっとひとりだったから、すごく寂しかったの。わたし、幽霊みたいで、みんなに見えてないみたいなの」

 少女はごしごしと両眼を擦ると、一転してきらきらと顔を輝かせてそう言った。
 話を聞くに、少女は幾日も幾度もニンゲンと接触を試みたようであったが、それが花を咲かせることはなかったらしい。それも当然だった。幽霊は霊感を持たぬニンゲンとは交流ができない。
 ときたまに反応を得られたのは、野良猫や散歩中の犬に唸られたり吠えられたりされたくらいであろうか。
 少女がいつから公園で過ごしているのかは不明である。少なくとも、モブが初めて視認した三か月以上居ることは明確だった。その間、誰にも相手にされず、無視され続ける日々が続いたのだろう。意思疎通を図るも通じない展開。彼女は心臓を抉られる思いをしていたのは想像に容易い。彼女はとうとう意気消沈し、ブランコに乗り昼夜を過ごしていたに違いなかった。それはあまりに虚しい孤独だった。
 心底喜んでいる少女と話しながら、モブはひとつ、察知したことがあった───それは、“少女は普通の幽霊ではない”ということだ。未だに、彼女のどこかに生命の糸が繋がっているのを感じるのだ。こんなことは初めてだったので、不思議に思う。

「よかったら、おはなししよう?」

 少女は自身の隣のブランコを指差すと、モブに座ってほしいと促した。彼は「はい」と言い再び頷くと、そこに腰かける。

「お名前はなんていうの?」
「影山茂夫です」
「わたしはね、みょうじなまえっていうの」
「なまえ、さん」
「うん! そっかあ、茂夫くんかあ。覚えた!」
「……あの」

 なにかを言いかけるモブに、少女───なまえは首を傾げる。「あの、僕……よくモブって呼ばれてるので、そっちで呼んでもらって大丈夫ですよ」モブがそう言うと、彼女は眼を丸くした。そして真剣な眼差しを携えて言った。

「モブ? わたし、その呼び方あんまりすきじゃないなあ……。だって、茂夫くんの人生は茂夫くんが主役なのに。だから、わたしは茂夫くんって呼ぶね」

 まっすぐな瞳をしてそう言うなまえは、直視できないほどの強さを秘めていた。モブは思わず視線を逸らすと、疑問を素直に彼女にぶつけてみた。

「なまえさんは、いつからここにいるんですか?」
「……それがね、わからないの」

 モブのその質問に、なまえは眉尻を下げると、腕を組みうんうんと唸った。どうやら彼女には記憶がないようだった。なぜ自分が公園にいるのか、なぜ幽霊になってしまったのか、なにもかもが疑問だらけだったのだ。「高校生ってことは憶えてるんだけど……」それ以外はてんで不明である。
 モブは、仮になまえが除霊する対象であるならば、それは難なくことが運ばれると感じていたが、それには気が乗らなかった。その理由は理解していた。と同時に、彼女には“除霊は無効である”ことも理解していた。これはモブも首を傾げざるを得ない。
 もしかしたら、モブの師匠───霊幻新隆ならば、なにか知っているかもしれない。モブはそう考えた。なまえは危害を加えるような幽霊ではないし、霊幻も得策を思いつくかもしれないと踏んだからだった。

「あの、なまえさん」
「なあに?」
「よかったら、僕と一緒についてきてくれませんか」
「?」

 なまえはきょとんと瞬きをふたつした。

「あ、別に悪いことをしようって意味じゃなくて……もしかしたら僕の師匠───霊能力者なんですけど、なにか対方法がわかるかもしれなくて……」

 自信なさげにそう言うモブに対し、なまえはにこやかに「わかった」と言った。彼はそれに安堵すると、ブランコから腰を上げる。

「こっちです」

 そしてモブは同様に立ち上がったなまえを先導するように歩き出した。
 歩いている間、ふたりはモブの学生活について話をしていた。どうやら彼には意中のヒトがいるらしい。その彼女は塩中学校のマドンナ的存在であり、高嶺の花のような存在であると。
 彼らは幼い頃、よく遊んでいたようだったが、モブは彼女を楽しませる術を持っていなかったと、彼は元気なくそう言う。

「僕、超能力を使えるんです」

 モブは正直になまえに打ち明けた。彼女ならば幻滅しないと、距離を取らんとしないと、そう確信に似た思案があったからだ。

「超能力! すごいねえ」
「……僕は、この力を使えばツボミちゃんのことを楽しませることができるって思ってたんです。初めこそは楽しんでくれたんですけど、でもやがて飽きてしまった。そしてツボミちゃんは僕に興味をなくしてしまった」

 モブは押し黙る。自然と歩いていた足が止まり、その場に立ち尽くしながら俯いた。そんな彼を眼にしたなまえは口を開く。

「茂夫くんには超能力以外にも魅力があると思うよ。だって、現にこんなわたしのことを助けようとしてくれているもの。たとえわたしのことが視えたひとがいたとしても、ふつうは幽霊なんて気持ちが悪いだろうし、それなのに茂夫くんは話しかけてくれた」

 なまえは真正面からモブを見つめて続ける。「出会ったばかりなのにこんなこと言うのはおかしいのかもしれないけど……茂夫くんは魅力たっぷりだって、わたしが保証する。だって、あなたみたいに優しいひと、そういないんだから」そして胸を張りそう豪語すると、彼女はモブの頭を撫でた。すると彼は照れたように頬を赤く染め「そんなこと言ってくれるの、なまえさんくらいです」と笑んだ。

「ところで、超能力って、具体的にはどんなかんじなの?」
「……ああ、そうですね。見せたほうが早いです」

 モブはそう言うと、道端に落ちていた空き缶に人差し指を指す。すると空き缶は空中に浮き、そのままゴミ箱のなかに飛んで行った。当然ながらなまえは驚いた。
 だが、そこでひとつの不安要素がなまえの胸中を占める。もし、もしこの能力を向ける相手が人間だったら、どうなるのだろうか、と。もちろんモブの優しさ、温厚な性格に鑑みれば、そんなことは起こりえないと思うが、それでも───……。
 なまえは頭を振った。「どうしたんですか?」モブが心配そうにそう問いかけるが、彼女は「ううん。なんでもないよ。超能力ってすごいんだねえ」と返答した。
 やがて、ふたりはとある建物の前に到着した。二階を見上げれば、「霊とか相談所」という看板が立てられている。

「ここです」

 モブは階段を登るとなまえを手招きし室内へ入るよう促した。彼女はおとなしくそれに従う。

「あ? モブか。今日は今のところ仕事はないぞ」

 ふたりが建物のなかに入ると、机の前の椅子に腰かけていた事務所の経営者───霊幻新隆が、そう口を開いた。彼は伸びをしながらモブの方へ視線を移すと、その後方にいる人物を眼にしてぎょっとした。

「お、おい、モブ……おまえ」
「師匠。相談があるんですけど……」
「モブが女の子を連れてくるのは初めてじゃないか? いやそもそもモブは女の子と交流を持つタイプじゃないよな。どういう風の吹き回しだ?」

 だが、霊幻にモブの声は届いていないようだった。「よし、祝宴でも開くか! うまいラーメン屋を知ってるんだ。奮発するぞ」彼は興奮したように椅子から立ち上がると、ふたりの近くへ歩み寄る。「いえ、だから、師匠」モブはただ冷静に口を開く。「そういえば、名前はなんていうんだ?」霊幻はなまえに話しかける。

「あ、あの、みょうじなまえです」
「そうかそうか、かわいらしい名前じゃないか」

 そしてなまえの肩に手を乗せようとしたら、感触がなかった。すり抜けたのだ。霊幻はそれにおや? と思う。まさか、まさか彼女は───

「師匠。なまえさんは幽霊です」

 霊幻は愕然とした。なぜなら幽霊ならば自身には見えないはずなのである。霊幻は霊能力者を名乗っている詐欺師。だからこそ、今眼前に佇むなまえに大層驚いているのだ。
 一応、ニンゲンに多大なる危害を加えるほど力の強い霊であれば目視することは可能であるが、しかしなまえはどう見たってひ弱で脆弱で貧弱だった。

「師匠。幽霊は食事を摂らないですよ」
「えっ? あ、ああ、知ってるよ。今のはジョークだよ、ジョーク」
「本当ですか?」
「なんだよモブ、俺を疑ってるのか?」

 カラカラと笑う霊幻は、なまえの眼にはいたく胡散臭く映った。「茂夫くん、あの、ほんとうに大丈夫なのかな」こっそりと不安そうにそう問うてくるなまえにモブは微笑むと、「大丈夫だよ。師匠はたまに変なことを言うけど、すごいひとなんだ」と言った。
 そう口にするモブを見て、霊幻は目を見張った。モブが笑うなんて滅多にないことなのである。それをこの少女が───今日であったばかりであると予測している───なまえが、容易に彼のその笑顔を引き出したことに衝撃を受けたのだ。
 そもそも、なぜ自身がなまえを目視できるというのか。詳細は不明だが、彼女はニンゲンに害を成す幽霊でないことは明白である。ただ単に霊幻と相性がいい霊なのかもしれない。彼はそう考えた。

「まあ、とりあえず一旦座るか」

 霊幻はそう言うと、再び机の前にある椅子に腰を下ろし、ふたりをソファに座るよう促した。

「で、相談ってなんだ?」
「なまえさんのことなんですけど……記憶がないらしくて」
「記憶が?」

 霊幻はふむ、と腕を組んだ。
 幽霊は、基本生前の記憶を所持している。記憶があるからこそ絶命した場所に留まりニンゲンに危害を加えるし、はたまたそうでなくとも、除霊しなければなにかと厄介な存在なのである。だが、なまえはそのどちらにも該当しない。
 事務所内に静かな空気が訪れた。カチカチと時計の秒針が時を刻む音を響かせている。すると、その静寂を破るようにモブが口を開いた。

「師匠は、なまえさんのことを除霊しようとしないんですね」

 その言葉を耳にした霊幻は、どきりと心臓を跳ねさせた。そしてなんと返答したらよいのか、考えあぐむ。
 実情、幽霊を可視できない霊幻にとって、なまえとは謂わば異質な存在である。霊感がないがゆえに、一般常識で判断するならば普通は“除霊するべき”モノであると決断するはずであるのだ。だが彼はそうしなかった。

「いや、あれだろ、なまえには除霊は効果がないしな」

 霊幻は当たり障りのない言葉を選択しそう言った。「……僕もそう思ってたんです」モブが安堵したようにそう返事をすると、霊幻は霊幻でまた安堵していた。どうやら自身の憶測は誤ってはいなかったと理解することができたからだ。
 霊幻は話を戻す。

「なまえ。生きていたときのことはひとつも憶えてないのか?」
「あの、高校生ってことだけは憶えていて……」
「その制服は塩高校のだもんな」

 霊幻は悩む。高校生、という情報だけでは、現状なにもできることはないだろう。

「モブ。なまえとはどこで出会ったんだ?」
「公園です」
「だとすると、そこになにかヒントがあるかもしれないな」

 霊幻は立ち上がった。「よし、公園に行ってみるか」その発言に、モブとなまえは顔を見合わせる。

「でも、僕の記憶では、なまえさんは相当な日数公園で過ごしてるんです」

 そう言うモブに、霊幻は言う。「だから今日は、その公園から出て周囲を歩いてみるんだ」と。なるほど、それは試したことはなかった。ふたりはその発言に、霊幻に倣って立ち上がった。



「どうだ? なにか感じることはないか? 些細なことでもいい」
「う、ううん……すみません、なにも……」

 三人は数時間公園周囲を歩き回ってみたが、これといった収穫はなかった。なまえはしゅんと落ち込む。「あんま気にすんな。長いこと此処にいたってんなら、そう簡単に解決しやしねえよ」霊幻はそう言うと、なまえの頭を撫でようと思わず手を伸ばした。すり抜けて叶うことはなかったが。
 数羽のカラスの鳴き声が聴こえる。上を見上げてみれば、空はオレンジ色に染まっていた。夕刻が迫ってきている証だった。それを見かねた霊幻はモブに言う。

「モブ、親が心配するだろうからお前はそろそろ帰れ」
「はい。……でも、なまえさんは」
「あー……そうだな。どうすっか」

 ふたりの視線がなまえの方を向く。「僕の家にはエクボがいますし、ふたりを会わせたら面倒なことになりそうなんですが……」モブがおずおずとそう言う。確かにエクボがいるだけでいろいろ厄介なことが起き得るのだ。だが、かといって公園にいろ、というのは気が引ける。
 霊幻は熟考している。どう思案しようにも、選択肢は彼にとってひとつしかなかった。だが、それを言葉として表出するのにはなかなか勇気が必要だった。そして、うんともすんとも言わない霊幻に縋るような視線を向けるふたりを見かね、とうとう口を開いた。

「……しかたない。俺の家に来い」
「あ、ありがとうございます……!」

 その言葉にぱっと顔を明るくしたなまえを見て、霊幻はもやもやした気分になった。未成年の少女が家にいると、それだけでなんだか犯罪臭がするからだった。だが決して疾しい気持ちがあるわけではない。おそらく。きっと。

「じゃあな、モブ。気ぃつけて帰れよ」
「はい」
「茂夫くん」

 なまえが踵を返そうとしたモブの名を呼ぶ。すると彼女は彼の両手を握った。「茂夫くん。わたしを見つけてくれて、ほんとうにありがとう。わたし、きっといい方に、どうにかなるよね」泣きそうになりながらそう言うなまえに、モブはしどろもどろになる。

「だ、大丈夫。僕と師匠がなんとかします」

 “大丈夫”だなんて無責任な言葉だった。だが、モブは確信を得ていた。現状が“解決に帰結する”という確信を。
 なまえは微笑む。「うん。ありがとう」そして再度ぎゅっと手を握った。すると、その光景を眼にしていた霊幻は眼を見張った。

「自分からはニンゲンに触れられるんだな」
「……あ。ほんとうだ」

 霊幻にそう言われ、初めて自覚したようになまえは眼を丸くした。「でも、たしかにブランコとかソファには座れたし……」なまえは自身の手を不思議そうに眺めながら呟く。
 幽霊は磁気を纏った存在である。ゆえに、当人が“触れたい”と思えばその四肢の磁気が強まり、対象に触れることが叶う。霊幻はその様相を目の当たりにしたのだ。
 だが、自分からは触れられないというのに、相手側からは一方的に触れられるという事実は、霊幻にとってどうにももどかしく思うのだった。

「じゃあ、師匠、なまえさん、また明日」
「おー」
「またね」

 霊幻となまえは去ってゆくモブの背中を見送った。そして姿が見えなくなってから、彼は気まずそうに口を開いた。「あー……よし。行くか」ぽりぽりと頭を掻きながらそう言うと、なまえはやはり笑むのである。

「あの、ほんとうにありがとうございます」
「……なんだ、まあ、気にすんな。うん」

 先を歩く霊幻になまえはついてゆく。そしてアパートにたどり着いた。1Kの、謂わゆる普通の部屋である。ひとりで暮らすには十分な広さであるが、ふたりとなると、心持ち狭いように感ぜられる。
 霊幻が台所の戸棚のなかからインスタントラーメンを取り出した。

「ごはんはインスタントラーメンが多いんですか?」
「まあ、楽だからな」
「……もしわたしが生きていたら、料理ってしていたのかなあ」

 ぼんやりとそう言うなまえに、霊幻は複雑な心境になる。彼は彼女のことを“幽霊”として接することができないような感覚に陥っていた。まさか欲求不満なのだろうか。だが、考えてみれば彼には恋人と言える存在はいないし、そういった欲求を満たす店にも最近は顔を出していない。霊幻は邪念を振り払うようにカップラーメンに湯を淹れた。

「なに味ですか?」
「カレーだよ。新作なんだ」
「へえ〜! おいしそうですね」

 いいかおり。なまえは楽しそうに言う。こんな単純なことで喜ぶ彼女に、霊幻はどこか寂しいような、悲しいような思いを抱いた。
 なまえは長期にわたり公園でひとりで過ごしてきた。朝も、昼も、夜も、ずっとずっとひとりで。もしかするとモブが気がついていないだけで、年単位でかもしれない。未だ高校生であるにも関わらず、誰とも口を利けず、存在を無視され、ただただ空虚な毎日を送っていたと考えると、静かに抱きしめたくなるような感覚に襲われるのだ。それが実現することはないが。
 食事を終え、歯を磨くと、霊幻は風呂に入った。シャワーを浴び、身体を洗う。わけもなく緊張しながら。
 否、わけはある。

「わあ。髪が濡れてると印象かわりますね」

 風呂上がり、髪も乾かさずにリビングへ戻ると、なまえはにこにこと笑いながら側に駆け寄ってくる。頼むからあんまり近づいてこないでほしい。心臓に悪いから。それは霊幻の心の奥底の感情である。
 寝るまでのあいだ、ふたりはテレビを観ていた。お笑い番組である。テレビで見ない日はない芸人がコントをしている。それをくすくす笑いながら観ているなまえを、霊幻は横目で観察する。やはり彼女は普通の女子高生なのだ。そんな彼女が今まで味わってきた孤独の苦しさは、想像しただけで心が痛くなる。今笑うことができるのならば、それだけで彼は幸せだった。今日初めて会ったというにも関わらずそんな気持ちになる自分に、霊幻は「俺もまだ若いな」と思うのだった。
 時間は深夜零時である。

「そろそろ寝るか」

 どこか緊張した声音で霊幻がそう言うと、なまえは頷いた。そんな彼の心境はつゆ知れず、彼女は「わたしは床で寝るので、霊幻さんはベッドで寝てください」と言った。

「それは俺の言葉だ。女に床で寝ろだなんて言う男は腐ってるぞ」
「でも、わたし、幽霊ですから。どこで寝てもかわらないんです」

 微笑みながらそう発言するなまえに、やはり霊幻は悲しくなるのである。そしてぼんやりした頭で「じゃあ一緒に寝るか」と口にした。
 沈黙。
 たっぷりの時間ののち、霊幻はハッとした。今、自身は、なんということを言ったのだ!
 霊幻が恐々なまえの様相を窺うと、彼女は顔を赤くするも青くするもなく、ただぱちぱちと瞬きをしている。「いいんですか?」霊幻は鈍器で頭を殴られたかのような衝撃を受けた。

「わたし、だれかと寝るのってひさしぶりです」
「えっ? お、おお、そうか」
「でも、ベッド、せまくないですか?」
「いや、まあ、詰めれば入らんことはないだろ」
「そうですね。じゃあ、おじゃまします」

 霊感は衝撃を受けていた。まさかとは思うが、いやまさかでもないのだが、なまえは自身のことを男であると思っていないのだと、そう感ぜられたからだ。
 いそいそと隣に横になるなまえに、霊幻はひとり鼓動を速めている。残念なことに、彼女は背を向けてしまったが。
 霊幻は今一度、なまえに触れられないかひっそり試してみた。だが、やはり空気を掴むだけで、触れることは叶わなかったのだった。



 明朝。カーテンの隙間から覗く太陽光が顔に当たり、霊幻は眼を覚ました。寝起き特有のぼうっとした頭で周囲を見渡す。そして気がついた。“そういえば俺はなまえと寝たのだ”と。“寝た”というのは本当にそれだけの意味合いで、疾しいことはなにもない。
 だが、隣を見てみると、なまえの姿はなかった。シーツの暖かさも、マットレスの凹みも、なにもかも。そもそも幽霊なのだから、痕跡が残るはずはないのだが、混乱していた霊幻はそこまで気が回らなかった。
 霊幻は焦り飛び起きた。「なまえ?」名を呼ぶが、返事はない。立ち上がり部屋のなかを探すが、それでも彼女の姿は見当たらない。
 霊幻は頭が真っ白になった。“もしや自然淘汰の流れで成仏してしまったのではないか?”と。それはあまりにも突然のことで、到底受容できたことではない。
 霊幻は慌てて着替え、外に出ようとした。例の公園へ行くか、それともとりあえずモブに連絡するか、考えがまとまらないまま行動に移す。
 そして玄関へ走り扉を開こうとしたら、開くより先に開かれた。そこにはなまえが立っている。
 霊幻は硬直した。眼の前にはなまえがいる。消えてしまったと思っていたなまえが。

「霊幻さん! 見てください、わたし、手が触れられるようになったみたいです!」

 なまえは嬉々としてそう言う。霊幻はそれに相反して、呆然とした面持ちで立ち尽くす。そして彼女のその言葉に、無意識のうちに手に触れていた。温かい。体温を感じる。

「は、はは……本当だ、触れる」

 霊幻は無性に泣きたくなった。なまえはただただ嬉しそうに微笑んでいた。

- ナノ -