もはや指令など関係がなかった。彼は、バッターは、己の意思で思考し、行動し、攻撃している。主導権も所持しているのはなまえではない。バッターだった。
 気がついたらこの世界に堕ちていた。経緯はわからない。憶えていないのだ。まるで初めからこの世界で生きていたかのように、存在していたかのように、そう思うのだ。
 現世での記憶は失われていない。だが、バッター曰く、元の世界へ帰るには“この世界の浄化”をしなければならない、と。彼はそう言う。だからなまえは従った。言われるがままに。
 ゾーン1の浄化は着々と進められている。とんとん拍子で、そこにはなんの障壁もない。
 バッターは淡々とエルセンたちの恐るる亡霊を排除してゆく。それは彼らにとって朗報に違いないが、しかしその背景を鑑みれば、決して“善行”とは言えないのであった。当然ながらそれに気がつく者はいないが。

「バッターさん」
「どうした」
「あの、わたしって、なんのためにいるのでしょうか……」
「“なんのため”? この世界を浄化するためだろう」
「でも、それじゃあ」
「……俺の行動が不可解か?」
「……」

 なまえはぐっと言葉を飲み込んだ。確かに彼の行動は不可解であった。浄化をするのにはなまえの存在が必要であると銘打っていながらも、そこに彼女が加担するわけでもない。
 バッターは隣を歩くなまえの頭を撫ぜる。そして、髪の毛をすくい、そこに口付けた。

「なまえは俺のことを信頼してくれればそれでいい。俺から離れるな。共に行動してくれるだけでいいんだ」
 
 優しく諭すような口調で言われれば、どうしても首を左右に振れない。なまえはいつだっておとなしく付いてゆくしかなかった。
 ゾーン1の最後の砦。ふたりはとうとう到着してしまった。まるでオフィスのような景観の建物のなかは、赤と青の色味で統一されている。そしてバッターは、なんの躊躇もなく足を踏み入れ、奥を目指す。なまえは小走りで彼の後を追う。
 道中、ふたりはジャッジと出会った。

「人形師殿。久しいものだ。きみは彼の力量に関してなにかを感受したことはあるまいか」

 ジャッジは、ジイ、となまえを真っ直ぐに見つめる。なまえはその真意がわからず、首を傾げる。
 すると、バッターはなまえをうしろへ隠すようにして前に出て、口許を歪ませる。これ以上話すなと言っているようだった。

「お前にその先を口にする権限はない」
「そうか、そうか。もはや間に合わぬと」
「……力尽くで黙らせられたいのか」
「否、これ以上は関与しないことにしよう。どうやら時は遅すぎたようだ。もはや此れは喜劇となるしか運命はないのだろうね。生憎、彼にとってはだがね」

 ハ、ハ、ハ、と笑い声を上げるジャッジは、なにかを諦めたような様相だった。

「では、私はこの辺で去ることにしよう。人形師殿、次会う時はなにか小咄でも聞かせてくれたまえ。まあ、“次”があるかは保証できないがね」

 ジャッジは笑い声を上げながら部屋から出て行った。「ジャッジさん、どうしたんでしょう……」なまえが思わずそう口にすると、バッターは彼女の頭を撫でる。

「なまえはなにも気にしなくていいんだ」
「そう、なんですか……?」
「ああ。さあ、行くぞ」

 まるで迷路のような建物のなかを、バッターは迷わぬ足取りで奥へと歩む。なまえはどこかヒヤリとする感覚を得ていた。まるで、恐怖のような、計り知れない闇のような、そんな感覚を。
 やがて道が開けると、それが最後の部屋だったらしく、なかにはゾーン1のガーディアンがいた。

「……テメェ!!」
「……ば、バッターさん」
「お前を滅ぼしに来た」

 怒りを剥き出しにするガーディアン───デーダンは、バッターに淡々と最期の運命を告げられる。「狂人か、テメェは」バッターのうしろに隠れているなまえには、残念ながら彼の表情を窺うことはできない。

「覚悟はいいか」

 その言葉を皮切りに、バッターはデーダンに殴りかかった。なんの容赦もなく、躊躇もなく、バットを振り落とし打擲する。それによろけたデーダンは、しかしなんとか踏みとどまり態勢を整える。

「そのシャクにさわるニヤニヤ笑いを取っ払ってやるよ」

 どうやらバッターは笑んでいるようだった。この状況で、だ。なまえは信じられないような面持ちでバッターの背中を見つめることしかできない。
 デーダンは今一度腕を振りかざすが、バッターはそれを難なくするりと躱し、再びバッドで頭を殴打する。嫌な音がした。肉がひしゃげ、骨が砕ける音だ。なまえはごくりと固唾を飲み込む。
 間もなく、デーダンは動かなくなった。それでもバッターは殴るのを止めない。もはや呼吸をしていない肉塊を幾度も幾度も、狂ったように叩き潰しているのだ。ぐちぐちがりがりごりごりと潰れた肉を、粉々になった骨を、擦り潰している。なまえはあまりの恐ろしさに、今までのバッターの優しさとの差異に、腰が抜け地面に尻餅をついた。
 唐突に、バッターはぴたりと動きを止めた。それになまえは嫌な予感がする。バッターが、彼が、振り向くのが、やけにゆっくりと感ぜられた。
 照明の関係による逆光でバッターの表情はなんとなくしか目にすることしかできないのだが、その暗い顔のなかで、六つの赤い眼玉が自分のことを突き刺していることだけはわかった。わかってしまった。口角は愉しそうに吊り上げられている。

「なまえ」
「ひっ」
「さあ、次の目的地へ行こう」
「……や、やだ、いやです」
「……」

 拒絶反応を示すなまえに、バッターは静かに歩み寄る。なまえは足が震えて立てそうにない。
 眼前まで迫ってきたバッターは、なまえの目の前で屈むと、先ほどまで狂気を感じるほどの行動からは想像ができないほど穏やかな顔をしている。

「行くぞ」

 再度、諭すように言う。しかし、それになまえが泣きそうな顔で首を左右に振ると、閉ざされていた六つの眼玉が再び開眼した。赤い眼。まるで血のような赤色。その瞳で見つめられ、なまえは涙をこぼした。

「わ、わたし、帰りたいです、帰らせてください」

 さめざめと涙を流すなまえを見たバッターは、喜悦に染まった顔で堰を切ったように声を上げて笑うと、明朗な声で言ったのだ。

「このゲームを始めた時点で、なまえは俺のものだ。みすみす逃すがわけがないだろう!」

 愉しげに裂けた口から鋭く尖った歯牙を見せたバッターは、そのままなまえの顎を掴み上を向かせると、彼女の唇に無理やり唇を押しつけたのだった。

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