そこはごった返していた。
 水の濁った大きな川。そしてその流れに沿って広がる河原がある。そこでは石を積んでは倒され、また積み始める子どもたちが数多いた。
 辺りには激しい水音が轟いている。なまえは心苦しい子どもたちを見て眉尻を下げ、眼の前に広がる川と橋を見つめた。
 なまえが目下突破するべき壁は、この川の渡渉だろう。
 視線を巡らせてみると、どうやら橋を渡らず荒波に揉まれながら川を渡るモノもいるようであった。だが、それはあまりに望み薄な行動である。濁流に呑み込まれ、恐らくは数度溺死し、また向こう岸を目指すという繰り返しは、そのモノらの為出かしてきたことの罪を贖っているかのように窺える。
 どういうわけか、なまえは自身がこの橋を“渡らなければならない”ことを確信していた。“当該の橋を渡らなければならず、それ以外の手段は無し”であるという、そんな確信を。泳いで対岸へ辿り着かんとするモノらも、そうするしか手立てがないと承知しているのであろう。
 周りのモノ共が“何か”を目指して歩いていることは確かである。だが、なまえはその“何か”が“何”であるかは理解していない。ただ何となく、流れに身を任せていれば、いずれは迎えるべくものを迎えられるのだと、そう思っていた。
 なまえは意を決したように橋に足を踏み入れ、ヒト波に呑みこまれた。
 なまえは波に揺られている道中に、ふと橋を渡るニンゲンの波が、ある一点を避けるようにして流れていることに気がついた。触れるのは御法度であるかのような、関わってはいけないような、そんな回避であった。
 ヒト波に巻き込まれ、望まずとも背を後押しされていたなまえは、突然足を止めた。眼の前にいる“彼”の前に投げ捨てられたのだ。それはまるで波が拒絶したかのような流れで───なまえただひとりだけが異分子であるかのような、そんな流れだ───彼女の不安を煽るものだった。
 男は突如として自身の前に“現れるべくして現れた”なまえのことをジィ、と凝視する。彼女は突然のことに思わず視線の焦点を“彼”に合わせる。だが、感情の読めぬ双眸、そして無機質な青い瞳。そのふたつの恐ろしさに、なまえは逃げるように目線を地面に移動させた。果たしてニンゲンはこうまでも達観し、冷淡でいられるのか。そう思い煩いながら。

「随分と時間を要したな」

 “彼”は淡々とそう言った。なまえはその声を耳にして、ぶわりと肌を粟立たせる。ぐらぐらと、立っているのも精一杯で、今にも倒れそうな身体をすんでのところで持ち堪えた。
 眼前の“彼”が、恐ろしい。何故かは分からない。ただ、“彼”が自身にとって、外敵のように感ぜられたのだ。
 周りのヒト波は、なまえのことを置き去りにして流れてゆく。彼女はそれが不穏に思えて仕方がなかった。自身を此処から救い上げてくれる存在を、無意識のうちに探していた。それは余りにも意味を成さなかったけれど。

「行くぞ」

 突然、“彼”はそう言った。そしてヒト波を掻き分けるように歩み出す───不思議と、その波は“彼”を避けているかのように、周りが関わり合いを拒絶しているかのように蠢いている!
 なまえは驚愕した。“彼”は世界から隔絶されているように見受けられるからだ。だからこそ、“彼”と接触すべきではないと第六感が叫んでいるのだ。
 だが、“彼”は己の言葉に従わず後に続かない方なまえを見て、溜め息を吐いた。再び彼女の元へ行き、腕を掴む。「……行くぞ」その手は体温の一切がなかった。なまえはゾッとした。どうやら怒っているわけではないようだが、その声音はなまえを震え上がらせるには十分だった。
 ヒト波から抜け出したなまえは、足を踏ん張り“彼”に抵抗した。つんのめった“彼”は彼女に視線を寄越す。

「どうした」
「……っ、あ、あなたは、だれですか、どうしてこんな……!」
「“あなた”? 俺は斬島だ。知っているだろう」

 彼───斬島は、足を止めてなまえの方へと向き直ると、静かにそう言った。彼女はまだ視線を上げられそうにない。
「……わ、わたし、行きたくないです……」戦慄に身を震わせているなまえは、それでも言葉として表出した。斬島は何も言わずに腕を解放する。彼女は冷たい手から逃れられたことに安堵し、ぎゅっと拳を作り、服を握り締めた。
 この場から走り去り、再びヒト波へ戻ることも考えついたが、生憎それが実現できるとは思えなかった。そしてそれは正しい選択でもある。
 斬島は何も言わない。ふたり間に沈黙が訪れる。
 たっぷりの時間を以って、なまえは恐々、視線を上げてみることにした。今なら斬島の人情に訴えかけることができ、またヒト波に揉まれ、迎うべき流れに身を任せることができると。そんな一縷の望みを抱いたからだった。
 かち合った瞳は何を思案し何を感じているのか、全くもって読めなかった。読みたくもなかった。なまえはぶわりと鳥肌が立った。背中に冷たい汗が伝うのを感じる。
 冷たいはずの青い瞳には、どこか既視感を覚えずにはいられない。感情の読めぬ双眸。しかしそれには、明確に欲望に塗れた炎が燃え上がっている! 眼の前の男はニンゲンではない! 彼はヒトならざるモノの瞳をしている! 情など皆無に違いなかった! まるで鬼であるかのように、一見落ち着いた様相は見せてはいるものの、内情はふつふつと煮えたぎる思いに満ちているのかもしれない。そう考えを巡らせたなまえは、固唾を飲み込んだ。
 なまえは己の道標に斬島が立ち塞がっていることが末恐ろしかった。彼を無くして今後生きていくことは不可避であると、否が応でも感ぜられた。彼の佇まいはそれだけ鬼気迫っていた。彼の手から逃れる術はないのかも知れない。

「俺にはなまえが必要だ。今までも、これからも。ずっと語り続けてきた筈だ」
「……」
「何故逃げる。何故否定する」

 斬島は、ただただ静かに諭す。まるでなまえが誤った判断をしているかのように。己の立場が正義であるかのように。なまえは困惑すると同時に、眼にはじわりと涙が浮かぶ。
「……っ知らないです、知らない……!」眼前の男とは、初めて会ったはずだ。少なくともなまえの記憶に彼の姿はない。けれども、先ほどから斬島の様子を見るに、彼は昔からなまえのことを知っているかのような態度を取る。彼女はそのことにも理解が及ばなかった。
 なまえは斬島が恐ろしかった。再度腕を掴み歩き始めようとする彼を見て後退し泣きじゃくる。訳がわからなかった、のだ。
 頬を伝い落ちる涙は、斬島に充足感を与えた。反面、なまえは虞を抱く。しかし、その感情こそ斬島が欲していたもののひとつであった。
 斬島は距離を取らんとするなまえの元へ数歩近づき頭を撫ぜ、そのまま頬へと手を滑らすと、涙を拭ってやる。その冷たい手に、奇妙なまでに優しい所作に、やはり彼女は震えてしまう。

「なまえの生きるべく道は、俺と共に有る。二度とそれを忘れるな」

 無表情ながら、狂気を感じる面持ち。まるで𠮟咤されたかのような彼のその言葉は、なまえの首を締めるほかなかった。

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