「求導師さま!」

 空気がひんやりとしてきた夕刻のことだ。人懐こい笑顔。夕陽に反射する細く白い四肢。きらきらと輝く黒髪。牧野はそんななまえを見て、思わず目を細める。彼女のその様子は、牧野にとってはあまりにも魅力的で、視線が突き刺さんばかりのものであった。思わず口角を上げざるを得なかった。だが、己の意思に反して吊り上がるのだからどうしようもない。

「なまえちゃん、あまり走っては転んでしまいますよ」
「えー!大丈夫なのに」

 牧野は努めて優しげにそう言うと、なまえは夕陽を背にくるりと華麗に回って見せ、楽しそうに牧野を見上げてくる。彼女のその満面な笑みに、日の光のみにならぬ眩しいその光景に、牧野は己の心が満たされてゆく気がした。形容するのならば胸がむず痒くなる、といったところであろう。
 牧野はその感情を知っていた。それは決して口にできるものではなかったけれど。
 ゆっくりと歩みを進める牧野に痺れを切らしたのか、なまえはいてもたってもいられず彼の元へと近寄り、両手で手を引っ張った。
 柔らかな手だ。己より一回りも小さな手。指は細く、爪は美しい桜色をしている。牧野はごくりと唾を飲み込み、なまえの手を握り返す。

「求導師さま、ねえ、わたし楽しいよ」
「……、それはよかったです」
「わたしね、同じクラスのひとと遊ぶより、求導師さまと一緒の方がすきなの」

 牧野は今度こそ心臓が跳ねた。そんなこと言われたら、自制が効かなくなるだろう。そうを思いながら無理やりにでも理性の糸を引き結ぶ。だが、吊り上がる口角には為す術もなかった。
 「求導師さまは、わたしと一緒にいて楽しい?つまらなく、ない……?」なまえはそう言うと、不安げな面持ちで上目使いになり牧野を見つめる。その様子に、牧野はじっとりと汗をかいた。黒い求導服の下で汗が表皮を伝うのを感じる。
 なまえは時折牧野の心臓に悪いことを言う。他意はないのだろう。それゆえ悪質だった。

「もちろん、私も───楽しい、ですよ」

 美しい一笑は誰もが慕う求導師の様相だ。なまえはなにも疑問を抱かない。そして「よかったあ」と、心底安堵した様子を見せる。彼のその言の葉にどのような真意が潜んでいるかも知らずに。
 心底嬉しそうに、楽しそうに振る舞うなまえを見て、妙諦はどろどろと濁った感情に支配されている。無意識のうちに牧野は口許を歪ませていた。それは表皮から滲み出てしまうかのように、牧野の謹解を侵略している。
 ふいに、繋がれた手に力が篭る。血の通った、小さくやわい手が、牧野の手を、心臓を掴むのだ。ばくばくと速まる鼓動は気持ちのいいものではない。根底に息を潜めているなにかを自覚しているから尚更だ。

「ね、求導師さま。教会行こ」
「……」
「……求導師さま?」

 牧野は慈愛にのみならぬ瞳でなまえのことを見つめる。決して言葉にできるものではない色を双眼に燃やし、口端を吊り上げる。清く健気な少女と、身勝手で己の欲望に満ちたふたりの視線が絡んだ。
 純粋な眼。なまえはまるで直視できぬほどに純情だった。正反対な様相を見せるふたりは、世界に自分たちしか存在していないかのような雰囲気すら纏っている。

「ええ、そうですね、教会に行きましょうか」
「うん!」

 牧野は再度小さな手を握り返し微笑む。そうすればなまえは楽しそうに笑うのだ。ある種単純と表せられるその様子は、牧野にとって大変に都合が良かった。
 
 「ねえ、なまえちゃん」牧野はゆっくりと言葉を紡ぐ。「なあに?」なまえはこてんと首を傾げて彼を見上げた。

「これからも、こうしてふたりで一緒に過ごしたいですね」
「……!わたしも!」

 なまえは心底嬉しそうに破顔する。それを見て牧野はじんわりと胸の奥が熱くなるのを感じ、それでいてどす黒い感情が顔を覗かせていることにも気がついた。彼は知っているのだ。すべてを理解したうえでの行動なのだから。
 そう、すべては牧野の望むままだった。なまえを使役し、いわゆる“好き”であると錯覚させる。否、事実なまえは牧野のことが好きだった。しかしそれは彼の手腕によるものだと知る者はあいにくながらいなかった。
 牧野はなまえのことを愛していた。彼女は年端もゆかぬ少女であることは周知されている。だが、彼にとってはこの際年齢など関係ないのだ。
 他の男どもになまえを取られるわけにはいかなかった。彼女は己のものであると印を刻むのも悪くないかも知れない。彼は浮かれた頭でぼんやりとそう考えた。

「……なまえちゃん」

 自然と名を呼んでいた。「どうしたの?」なまえが目を丸くするその様相に、牧野はつい舌舐めずりをしていた。

「……ああ、うふふ。なんでもないですよ」
「そうなの?変な求導師さま!」

 なまえはケラケラと声を上げて笑う。彼らは互いを見つめ合い、そして幸せそうに笑うのである。
 太陽が沈みかける時刻。道路には身を寄せ合ったふたりの影が伸びていた。

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