「……疲れた、なあ」
なまえはとぼとぼと重い足取りで帰路についていた。道中の明るい自動販売機には虫が集り、ジッと音を上げている。それになんとなく立ち止まる。ぼんやりとした眼で捉えると、ハッと我に返りアパートの階段を登った。
玄関の前でポケットのなかを探ると、手が鍵に触れた。その金属を取り出し、解錠した。靴を脱ぎ、部屋の電気を点ける。
違和感。
なまえは一人暮らしである。ここ最近は、多忙に身を削られ、友人を招くことは叶っていない。しかし時間の合間を縫い掃除はしているので、部屋は清潔に保たれている。
違和感。
なまえは周囲を見渡した。“なにか”がいる───自分以外の誰かが。
なまえは身を低くして台所へ行き、フライパンを震えた手に取る。さすがに包丁は危険であると判断したためである。
息を潜めてリビングに足を踏み入れた。そして左右を確認したとき───
「随分と遅かったな」
びくり。なまえは大袈裟に肩を跳ねさせ、悲鳴を上げるとそのまま地に崩れ落ちた。
「き、きりしま、さん」
「ああ」
どうやら違和感の正体は知人の斬島だったらしい。しかし知人、と言えど彼はニンゲンではない。なまえは静かに立ち上がる。
「びっくりしました……」
「なにかあったのか」
そう言われたなまえはぽろりと涙を一雫頬に伝わせた。斬島は特段狼狽するもなく、彼女のことを真正面から見つめている。
「ちょっと、仕事でうまくいかなくって……」
涙声でそう話すなまえは垂れてくるしょっぱい水を指で拭うが、なかなかどうして止まることを知らない。
「ごめんなさい。斬島さんに言うことじゃないですよね」
「いや、構わない」
なまえは両頬を強くはたくと、やがてにっこりと痛々しい笑みを斬島に向けた。だが彼はそれが面白くなかったらしい。途端に室内の気温が下がった気がした。なまえはなにか気に障ることでもしてしまったのではないかと気が気でなかった。
ごくりと唾液を飲み込む。沈黙が痛い。
やがて、斬島は腰に下げていた刀───“カナキリ”というらしい───を抜刀してみせた。
「なまえのことを傷つけている奴のことは把握している」
「え」
「ここでオレが手を下せば、万事解決ということになるだろう」
なまえはぽかんと呆けた。まさかではあるが、彼は原因を排除しようとしているのではないかと!
斬島はすらりと刀を構える。カーテンの隙間から入ってくる月の光に刀身が反射し、彼は息ができないほど不穏な空気を醸し出していた。
「ま、まってください! わたし、そんなことを望んでは───」
「……」
斬島は首を傾げた。
「そこまで未練があるのか」
「みれん? た、たぶんあると思いますよ。とんでもない野心家かもしれないですし……」
斬島はここでまた首を傾げた。
「もしかすると、なまえは勘違いをしているのかも知れない」
「かんちが、い……?」
斬島は目を奪われるような滑らかな動作でカナキリを構えた。そして目にも止まらぬ速さでなまえの背後に回る。首に、冷たくて硬質なものが触れた。
「なまえが俺と共に来れば、万事解決に帰結する、ということだ」
「え」
なまえの首筋にあてがわれた鋭利な刃物が、赤い線を表皮に刻む。彼女は足が震えるのを感じた。
「毎晩この部屋でなまえの帰りを待つ俺の身にもなってくれ。憎くて堪らなかった。だとしたら残された手段はひとつだけしかない。俺と共に来い。そうすれば───」