懐中電灯という心強い仲間を手に入れたわたしは、少しだけ浮かれていた。今ならなんでもできちゃうと思うくらいには。しかし明るくなったことにより、その気の緩みも一瞬で吹き飛ぶほどこの建物がおどろおどろしいことに気づく。床は錆や変色が目立ち、壁には茶色い───まるで酸化した血を彷彿とさせる───しぶきが広がっている。懐中電灯を手に入れたのはいいものの、これでは恐ろしくて進めそうにない。情けないことに膝が笑っている。だけどここにいても埒が明かないし、なによりあの三角頭が追いかけてきているのだ。わたしはそう自分を叱咤して先を目指すしかなかった。
恐怖を押しころして辺りをくまなく照らしながら進んでいく。そして長い廊下の先に懐中電灯を向けると、誰かの後ろ姿が見えた。

「人だ……!」

多分服装からして看護師さんだと思われる。こんな廃墟にどうして、なんて疑問も、とにかく人に会えた嬉しさで満たされたわたしには思い浮かばなかった。小走りにその背中に近づく。「あの、」そう声をかけるとその人は常人にはあるまじき動きで、ぐりんっ!と勢いよく振り返った。

「……ひッ!?」

人だと思っていたのは、人ではなかった。人型をした化け物、だったのだ。顔は包帯で覆われ、ところどころえぐれて腐った肉のようなものが見える。近くにいたらまずいと感じて後ずさりをすると、看護師さんはなにかを振りかざした。大きく腕を横に振って、頬をかすめる。ピリッと裂ける感触がしたと思ったら、生ぬるい液体が頬を伝った。くちびるの方に流れてきたので舐めてみると、鉄くさい。どうやら切られたようだ。そう気づいたら途端に痛くなってきた。目の前の看護師さんは殺る気満々のようだし、頬からはどくどくと血が流れ続けているしで、あれ、わたし、もしかして死んじゃうの?なにも考えられなくなって視界がにじむ。頬をとめどなく伝うのは、涙なのか血なのかもはやわからない。ふっと力がぬけて、わたしは後ろに倒れこんだ。手に力がはいらず懐中電灯が落ちる。足は震えて立てそうになく、腰もぬけてしまった。絶体絶命、逃げられない。不自然な動きをしながら一歩一歩近づいてきた看護師さんが、再びメスを持った腕を振りあげて、わたしは目を閉じた。

しかしいくら待っても痛みが襲いかかってこない。数秒、数十秒、流石におかしいと思って瞼をあげると、看護師さんはわたしの後ろを見ている。
───ギイイ、さっきまで恐怖しか感じなかった音が聞こえた。わたしのすぐ後方だ。今はなぜか、助かったと思える音色。

ぶうんっ、とてつもない速さであの大鉈が頭の上をかすめていき、それは看護師さんの腹を真横に切り裂いた。一瞬のできごとのはずであるのに、わたしにはそれがひどくスロウに見えた。ゆっくりと上半身と下半身が切り離されて倒れる。神経は切断されているのに、ピクピクと反応を示す下肢。吹き出す血液がわたしの身体にかかり、次第に床には赤黒い血が広がる。血液独特の臭いが鼻をかすめて、胃液がせりあがってきた。我慢しようとしたけれど、死体からはみ出る内臓を目にして、とうとうわたしは床に嘔吐した。一度吐いてしまうと中々止まらない。えずきながらまた泣いた。涙と吐瀉物で汚れた顔は、どんなに汚らしいことだろう。

ようやく吐き気が落ち着いてきたころには、胃の中は空っぽだった。少し冷静になった頭で考える。あの三角頭といい、この看護師さんといい、ここは異常だ。わたしは本当に脱出できるのだろうか。……いいや、悩む暇があったら足を動かさなければ。
ポケットからティッシュを取り出し、顔を拭く。ついでに奇跡的に入っていた絆創膏で傷をふさいだ。奥の廊下は行き止まりになっているようなので、看護師さんの死体が視界に入らないように立ちあがって後ろを振り向いた、ら、目の前に屈強な身体があった。

「えっ、あ……」

まだいたの。そこには三角頭が立っていた。

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