つま先で手加減なしに、目の前の男を何度も何度も蹴る。しかし彼は痛みに顔を歪めるどころか、ニタニタと下品な笑みを浮かべるだけで。きもちわるい、きもちわるいきもちわるいきもちわるい!ゆっくりと腕が上に持ち上げられて、床に足がつかなくなる。襟が首に食い込んで上手く息ができない。こいつ……!

「……ナマエ君には失望したよ。君をこちら側に引き込めば、よりスムーズにことが運べると思ったのだが。しかし、そうだ。デキのいい人間を失うのは惜しい。後々役に立つかもしれないだろう。私も研究を続けていきたい身だ───ならば、どうすればいいのだろうか」
「かはっ……こ、の……!」
「おっと、逃げようなんて考えるなよ。情報が外部に漏れれば、当然研究などできなくなってしまうからねぇ。……君も知っているはずだ、多くの人間が犠牲になったことを。それをゼロにする気か?今までの努力もろとも」
「………っ!」
「ほう、まだ暴れるのか。解らない娘だよ、煩わしい。……アア、成る程、成る程。ならばこうしようか」

バタバタと足をばたつかせていたら、背中が壁に強く叩きつけられた。後頭部もそこに直撃し、ぐわんと揺れる視界。一瞬目の前が真っ暗になって、肺に酸素が入っていかない。必死に呼吸をしようと胸を上下させていたら、今度は前に引き寄せられてどこかへと連れて行かれる。定まらない焦点に何が起こっているのか、わからない。だがやがて感じた殿部への冷たい感触に、椅子に座らせられたことは把握できた。

グッタリと力が抜けた手を取られ、手首にヒヤリとしたものを巻かれ固定される。逃げなければいけない、のに、身体が言うことを聞いてくれないのだ。脳があまりにも強い衝撃を受けすぎた。
……これからなにを、されるのだろう。

「ナマエ君の瞳の色は、なかなかの私好みだったのだが……この際そんなことは言っていられないな」

目元をゆっくりとなぞられ、吐き気がする。リチャード医師はこちらに背を向け、近くのテーブルに置かれていた注射器を取った。それから注射剤に針を刺し、薬を入れていく。……ラベルが遠くて何と書いてあるのか、ここからは見えない。
注射器に混入した空気を出し、針の先から数滴こぼれた液体が地面に落ちた。満足そうに笑ったリチャード医師はこちらを振り返り、その針をわたしの頬にあてる。ああそうだ、やはりそうなのだ。うすうす勘づいてはいた。
ぷつっと頬に鋭利な針先が刺さる。小さな痛みが走るが、それでもわたしの身体は反応を示さない。異物が体内に侵入して、突っ張るような違和感。これでわたしも、あの患者たちと同じようになってしまうのだろうか……。

ご丁寧に最後の一滴まで注入してくれたリチャード医師は、そこら辺に空になった注射器を投げ捨て踏みつぶした。パキンッと小さな音を立てた残骸をぼんやりと眺めながら、わたしはただひたすら、解放されるのを待つ。よくわからない薬物を入れられたのだ、彼もきっと、これで。はやく離せ、離せ、離してくれ。ビリーと同僚が気になる。この際自分はどうなってもいい。

だがおもむろに顎をつかまれて上を向かされた。憎いその顔面に唾でも吐き出してやろうかと思ったが、ヒタリ、ペタペタと、物騒な金属で頬をかるく叩かれて、脳内で警報が鳴り響く。
───こいつは異常者だ!

「大丈夫、痛いのは一瞬、痛いのは一瞬だ」

その言葉が鼓膜を震わせたと同時に、鋭利な刃物が、左目に振り下ろされた。素早い動きであったはずのそれは、やけに遅い動きに見えて、幻でも観ているかのような光景ではあったが、ブツッと皮膚が裂けた感覚がいやに現実的で、刹那視界の半分が真っ赤になる。……ア、い、痛い、いたいイタイいたい!痛い?痛い!!声帯がひしゃげるほど声を張り上げて叫んだ。潰された左目はもう開かない、右目で見えるのは、顔の左半分からおびただしい量の血が勢いよく噴き出している様子だ。ボタ、ボタ、と止めどなく伝う血液は服に沁み渡り、白衣が赤く染まる。一瞬だって?ふざけるな、憎い、目の前で楽しそうに声をあげるこいつが、憎い……!激痛が刺激となったのか、身体が動く。しかし手足を暴れさせても、強く固定されすぎて逃げ出せそうにない。

「出血が酷いな、輸血をしてあげよう」

輸血のパックをもってきたリチャード医師は、次はわたしの腕に針を刺した。管を赤色の液体が通って、わたしの血液と混ざって、

ああもう、いいや、どうにでもなれ……。

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