少し目を離したその時間内に、一体何が起こったのか。わたしが地下に言っている間に、病棟は見るも無残な様子に一転していた。病室に患者の影はなく、それどころか人ひとり見当たらない。扉は無理に開けられたのか外れ、地面に倒れている。壁も綺麗に塗られていたはずの塗装がボロボロに剥がれて、誰かに引っかかれて削られたようである。

スタッフルームへ急ぐと、そこには扉が存在しているあたり、この部屋は安全だと思った。ホッと一息ついてドアノブを握り、時計回りに回そうと手に力を込める。「うあっ」だがキラリと光が反射するほど綺麗に磨かれた、鋭利な何かが眼前に迫り、のけ反る。扉を突き破ってきたそれは上半身を反ったわたしに引っ張られるように、追ってくるのだ。足をもつれさせながらも必死に扉から後退し、向かいの壁に背をつける。さすがにそこまでは届かなかったのか、それは扉から引き抜かれ、部屋の中へと吸い込まれていったが。……心臓が、痛い。脊髄反射で回避できたようなものだった。頭は半分真っ白で、でも息だけは自分でも驚くほど乱れているのが分かる。

「まさか避けられるとは。もっとも、殺すつもりはなかったのだが……こうした方がスリルがあるだろう?」

刃物であけられた穴から、濁った瞳が覗く。こいつ……リチャード医師だ。

「は、……何を、どういうつもりで」
「いやはや、まあ兎に角、中に入りたまえよ」
「……わたしの同僚はどこですか」
「二度は言わん。従いなさい」

彼はそう言うと、穴の前から姿を消した。……これは従うべきなのだろうか。この状況で怪しい誘いにのこのこと乗るほど、わたしは鈍い人間じゃない。「そうだねぇ、君の同僚がどうなってもいいのなら、強制はしないでおこう」ジャキン、ジャキンと金属の音を鳴らしながらそう脅される。……最悪だ。やはりこの男は、好きになれない。やることなすことが一々卑怯なのだ。
舌打ちを隠すことなく、わたしは今度こそ扉を開いた。

「ほら入りましたよ。あなたのご希望通りにね。これで満足?」
「ナマエ君、君はどう考える?」
「………」

わたしの言葉には一切の反応を見せないリチャード医師は、ウットリと恍惚の表情を浮かべ、こちらを見た。

「……言葉が足りません。何のことでしょう」
「恍けるなよ、君が地下に行ったのは知っているんだ。当然ワールライダーのことについて調べ、ここで行われている実験の真実を得てしまったのだろう?」
「……逆にお訊ねしますが、あなたはなぜこの実験に荷担したのですか」
「ふむ。聡いナマエ君にしては随分な愚門だ。解らないか?この楽しみが!人間の脳味噌を弄り回し、徐々に暴力へと溺れていく様を眺めるこの快感を……!」

ハアハアと興奮しながら力説するリチャード医師は、医師にあるまじき人格を露呈した。いや、彼は元々どこかずれている人間ではあったが、それに拍車がかかっているように思える。
正気の沙汰ではない、そう思った。

「わたしには理解しかねます。ところで、同僚はどこへ……はっ!?」

突如グインッと伸ばされてきた腕は、何の戸惑いもなくわたしの襟元をつかみ、身体が持ち上げられる。襟が首に食い込んで苦しい。憎しみを込めて睨み付けるが気色悪い笑みが返ってくるだけ。話したところで解放などしてくれないだろう。それがリチャード医師なのだ。ムカつく、イライラする。両手で首元の手に爪を立ててみたが、案の定耳障りな笑い声を聞かされただけ。目玉をギラギラに輝かせた彼は、もはや狂人であると言えるだろう。リチャード医師の年齢にしては力がありすぎる。もしかしたらこの人も、何か薬に侵されているのかもしれない。

「そうか、解らないか……それはとても遺憾だよ」
「ッ言動が一致してない……!離せ!!」
「離したところで君はどうする?……アアそうか、仲間を助けに行くと。残念ながら彼女は地下に置いてきてしまった。助からないだろうなぁ。それは一体なぜか?……徘徊しているからだよ。ワールライダーが、この建物内を!」
「そ、んなの……行ってみなきゃわからない!」

やはり彼女はここにはいなかったのだ。わたしは目の前の男を思い切り蹴った。
はやく、…はやく彼女の元へ行かなければ。

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