初めは、ほんの些細な違和感だったのだ。

脳の細胞を活性化させ、精神状態の安定を可能にすると聞かされていたモーフォジェニック・エンジン療法。マウントマッシブ精神病院の患者には、その療法が施されていた。だが効果が強すぎるらしく、著しい倦怠感を覚える副作用が起こるらしい。わたしは自力で動くことができないほどに疲弊しきった患者のサポートを任されていた。

放送で呼び出され向かった先の部屋、そこには何重にも拘束具をつけられた患者とリチャード医師がいた。患者に対する扱いではなかったので、わたしは驚きを隠せず目を見開いてその様子を凝視すると、それに気づいたリチャード医師が笑う。

「ああ、驚かせてすまない。彼は暴力を働くからね」

三日月に目を歪ませた彼は、わたしにとってあまり得意な人間ではない。当たり障りのないことを応え、軽く会釈して患者を預かると、足早に車いすを押して病室を目指した。

「ナマエ君、ついでに彼の皮膚も診ておいてやってくれ」

背中にかけられた声色は、どこか楽し気で、そしてひっそりとした狂気がちらついていたのを今でもよく憶えている。
そこで、気づくべきだったのだ。

治療を任された患者の皮膚は、それはひどいもので、やけどをしたのともまた違う独特な爛れ方をしていた。患者間での争いごとは日常茶飯事であったから、喧嘩での怪我の手当ては慣れっこではあったが、しかしどうもこの傷を見るに、他意を感じざるをえない。
塗り薬をぬろうと指に取り、皮膚に押し当てるとドロリとはがれ落ちる。触れたところからべりべりとはがれる様子は、今までに見たこともない症例だった。どうしたものかと困惑していたら患者が暴れだす。頑丈な拘束をされていたから安全ではあったが、彼の目は人間のそれをしていなかった。フーッと荒く乱れた息遣いはまるで獣のようである。歯が欠けるほどの強い歯ぎしりに、わたしには彼が人間とは別の生き物に見えてきてしまったのだ。
ここにいては危ない気がして、わたしは患者をベッドに横にすると早々に病室を去った。

その後向かった医療班のメンバーがいる部屋では、すでにモーフォジェニック・エンジン療法の話で持ち切りだった。「流石におかしいだろう。人格まで変わった患者がいるんだ」「いきなり襲いかかられた。見ろよこの腕、肉を噛み千切られたんだよ」「筋力が上がっていた気がするわ」口々に嘆く仲間は、みんな顔を歪ませていた。部屋は焦燥と恐怖に満ち溢れている。

「ねぇナマエ……一体何が起こっているのかしら」
「……わたしもよく分かっていないの。でも異常事態だとは思う」

その次の日病院に出勤すると、リチャード医師から昨日の患者が亡くなったという知らせを受けた。

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