開け放たれた扉から溢れる外の光を、懐かしく思った。この病院内での出来事が、自分の身に起こった出来事が、まるで嘘のようで。無我夢中で走り回って逃げてきた体は悲鳴を上げている。途中で何度も自分は死ぬのだと思った。自分はこの狂気に染まった病院で、訳の分からない奴らに殺されてしまうのだと、絶望した。それも終わりだ!
体の節々が痛んで仕方がない。それでも無理矢理に足を動かし、一歩ずつ外へと近づいて行く。
すると、開かれた木製の扉にスーツ姿の男が寄りかかり地面に座り込んでいた。腹からは血が出ている。辺りを見渡せば転がっている、数えきれない血まみれの死体。凄惨な光景に、生存者がいるだなんて奇跡に近いだろう。もっとも、俺もその奇跡に助けられたような一人のようなものだが。
……助けるべき、なのだろうか?この病院がいかにいかれた場所であるかは、自分の身をもって十分に把握しているつもりだ。生き残るためならば藁にもすがり、ただひたすらに執着するのは己の生。そしてそれはきっと、彼も同じ、のはずだ。

「助けてくれ、お願いだ……」

虚ろな目で男は言った。彼の元へと近づき、自然と手を差しのべていたのは、俺自身、意思疎通を図れる人間に会えたのが久しかったという、ある種の安心を覚えていたからかもしれない。
しかし突然、扉に背を預けていた男が立ち上がった。失血が多いのかフラフラと足取りがおぼつかない。まさか立ち上がるとは思いもしなかったが、目を見張った次の瞬間、何やら腹がアツく、額にはじわじわと脂汗がにじみ、ツウッとこめかみに垂れてきた。「死んでしまえ」男が憎しみの揺らめかせた声色でそう言うと、グッと内臓の奥にめり込む冷たくかたい感触がした。頭の中で状況を整理するのが追いつかない。やけにゆっくりとした動作で視線を下ろすと、その先には、外の光でキラリと反射した刃物が腹に刺さっていた。気づいてしまえば最後、途端に激痛が走り、服に徐々に広がる赤黒い染み。
───もうだめだ、と思った。必死に逃げ回ってきたせいで体力も限界に近い。その上出血が重なり、失われた体力がさらに望みのないものへと変わってしまった。そうだ、むしろこんなところまで逃げ切れたことに喜ぶべきだったのだ。

ぼやける視界に、刃物を持った男が距離を縮めてくる。逃げられない。身体も動かない。独り言をぶつぶつと言いながら襲いかかってくる男が、再度刃物を振り上げた。殺気にまみれた視線は自分に注がれている、だがそれがふと上にあげられ、そこからは目まぐるしい変化が起こる。
男は宙に浮かび、天井や壁に叩きつけられたと思いきや、身体が弾けて肉塊となったのだ。血が降り注ぐ、気持ち悪い、訳がわからない……。
しばらく床の上で激しく鼓動する心臓を落ち着ける。赤く染まった全身に眩暈がした。這いつくばり、震える両手で身体を起こし、今度こそ玄関から外へ出る。傷口を手で押さえれば、指の間から血が漏れてきた。ここまで来たんだ、今更死ぬわけにはいかない。

正面に広がる道を進むと、幸運にも、門の近くには車が止めてあった。これで逃げられる。運転席に乗り込んで、鍵を回してエンジンをかけた。ハンドルを握ったとき、ふと気ががりな出来事が脳裏を過ぎる。……そういえば、一人地下へと向かった彼女はどうなってしまったのだろう、と。無理矢理にでも連れてきた方がよかったのだろうか。いいや、しかし、自分のこのギリギリな様子を見るに、行動を共にしたところで安全は保障できなかった。それに俺のことを拒絶した、あの強い意志を秘めた瞳。きっと何を言っても、彼女は首を縦には振ることはなかっただろう。
考えを巡らすのもほどほどに、そのままバックをして方向転換をしようとペダルを踏もうとすると、視界の端に動く人影が映った。……誰だ?思わずカメラを構えてズームにすると、体格からして男だ。それから肩に、小柄な何かが担がれているような───

「!」

目を凝らして確認する時間はないようだ。男の背後を黒い影が包み込む。そうか、アイツは。


▽▲


それからのことはよく憶えていない。ただ必死に、あの病院から一刻でも早く、遠いところへと逃げることしか考えていなかった。アクセルを全開にして、ブレーキもかけないで。……今思い出せば、警察に世話になることを否めない荒さだった。
家に戻って来られて、腹の治療もした。だが、まだ思考を止める訳にはいかない。
忘れてはいけないんだ、この惨劇を。そのためには伝えなければならない。あの病院で行われていたこと。元凶の全てを。

「アップロードをクリックすると、君の人生は終わりだ。君が愛する全ての人はやられるだろう」

その言葉に意志が揺らぐ。目の前に広げたパソコンの画面には、俺があの病院で撮影したビデオの記録が映っている。これをアップロードすれば、あの忌々しい企業に大打撃を与えることができるらしい。それも当然だ、法に反することをしていたということが、公になるのだから。「しかし、それが正しい行動なんだ」言い聞かせるような声色で男が言う。この記録を公表するのは間違ったことではない。俺は間違ったことなどしていない。目の前の人物もそう言っている。……俺は間違ったことなど、していない、はずなんだ。

震える指でエンターキーを深く押し込むと、目の前の男の口元が歪んだ気がした。

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