宮田は陽光がさんさんと降り注ぐ道を歩いていた。常ならば感情の読み取れない無表情を張り付けているはずの顔が、今は不快感に歪められている。とは言っても、やはり普通の人間から比較したらそれは些細な変化である事に違いはなく、彼の表情が珍しく人間味を帯びている事に気がつく人物は片手で数えられるほどしか存在しないだろう。
太陽が最も高い位置に昇る時間帯のせいか、医師の象徴とも言える白衣は今日ばかりは片腕にかけられており、宮田は涼しげな水色のワイシャツを外気に触れさせている。額にはじんわりと汗が滲み、表皮を伝って垂れてきたらしい滴が荒々しい動作で拭われた。その所作は、誰が見ても苛立っているものであった。それによって普段より畏怖の念を向けられ近寄りがたいと思われがちな雰囲気が一層際立っている。羽生蛇村の夏は、あの宮田をも唸らせる厳しい暑さだった。
どこまでも追跡してくる日差しから逃げるように、冷房の効いた医院に向かった足は自然と早くなる。“誰も話しかけるな”と、言葉にせずとも背中で語られるのは彼の心中に他ならない。通常の状況判断能力の備わった人間ならば避けるであろうが、しかし悲しいまでにそういった事に疎い人物が、この村に存在していた。

「あっれえ〜宮田先生じゃないですか!」

名を呼ばれて思わず足を止める。能天気で悩みには一切無縁そうな、明るい声だった。宮田は聞き覚えがある声だな、と思考を巡らす。「なるほど、往診帰りですね?暑いのに大変ですねえ」ジリジリと灼熱の日光が頭皮を焼くのを感じながら記憶をあさっていると、第二声が投げかけられた。そこでようやく声の発生方向へと顔を向けたところ、数メートル離れた先に一人の男がいた。

「……ああ、駐在の」
「ん?ハハ、暑さでオレの名前まで忘れちゃいました?」
「……」
「……え」
「では」
「ちょ、ちょっと待って下さいって!」

容赦ない太陽光が照り付けるなか立ち往生する気など皆無であった宮田は、そのまま何も見なかった事にしてこの場を立ち去ろうとした。だが相手は食い下がる。そうして抗議の声を上げながら宮田のペースに合わせるようにして隣で歩き始めた。
冷たくあしらわれてもめげない、いい意味でも悪い意味でも健気な男の名を石田徹雄という。茹だるような暑さを物ともせず、元気溌剌という言葉に尽きる立ち振る舞いにドッと疲れが誘発された宮田は小さく溜息を吐いた。彼は石田のことが得意ではなかったのだ。
口数が多い方ではない宮田とは殆どの人間が会話を続ける事が難しい上に、家系の関係もあって村民の大部分は彼と深い関わりを持ちたいとは考えないものである。それなのに石田ときたら、避けるどころか積極的に挨拶もしてくるし、現在のようにどうにかして宮田と会話をする事を試みるのだ。他人との間に分厚過ぎる壁を作っているはずなのにずけずけと、人の心に侵入してこようとする姿勢が気に喰わなかった。楽しくもないのに四六時中ヘラヘラとした締りのない表情を浮かべているのも嫌悪の対象だった。今まで幾度となく拒絶の態度を取ってきたものの大した精神攻撃にすらならず、石田が傷心に陥った様子など目にした事がない。やがては宮田が折れ、ああコレはこういう奴なのだと諦めの境地に至り、現在のような言葉を交わす関係に収まる結果へと落ち着いた。

「医院に戻られるんですよね?途中までご一緒しても?」
「断っても同行する気満々でしょう」
「へへ、まあそうなんですけど」
「……仕事はどうしたんですか」
「今パトロールの最中です!一人でいるより二人の方が楽しいと思いません?」

業務に集中しろと宮田は思った。「いやあでも、宮田先生も変わりましたよねえ。前は話しかけても無視は当たり前、存在の認識すらしてもらえなかったもんなあ」特に話す内容が無く無言になる宮田に、飽きもせず話しかける石田の図は酷くアンバランスだ。だが、その不均衡な状態を大して気にも留めない石田はある意味で大物と言えるのかも知れない。

「オレ、こう見えて最初は怖気付いてたんですけど、知ってました?初めはほんとに、話しかけるの躊躇ったんですよ。ほら、宮田先生って取っつきにくい印象を受けるからさ」

つらつらと然程興味も抱かない話が始まり、宮田は相槌を打つ事なく足を動かす方へと徹する。これでも初期から比較したら、会話というものが生じた点では大分マシになった対応だった。石田もその事を理解しているのか、極端に反応の薄い話し相手でも特に気にしたような様子を見せない。一見成立していないやり取りは、実のところ一概にそうとは言い切れないものであった。
しかし相変わらずよく喋る男である。取分け面白くもない話にそこまで意識を傾ける必要はないと考えた宮田は、このまま足を止める事なく医院に到着する自身を思い浮かべていた。だがそれは石田のとある一言によって覆される事になる。

「なまえさんがね、言ってたんですよ」
「……」
「皆宮田先生のこと怖いとか気味悪いとか言ってるけど、根はいい人だって…って、あれ、どうしたんです?」

突然宮田の足が止まり、石田は不思議そうな声を上げた。
なまえとは、数週間ほど前に求導師と村中の話題となった人物である。彼女の姿を、どういう訳かその時から今日までの間見かける事がなかった。「……いや、大方予想はつくな」なまえの姿が見えない理由、そして原因。それは宮田にとっては単純明快なものだった。どうせアレが関係しているのだ。ある事ないことを吹き込んで、人目に晒すのを避けているのだろう。腹立たしい事極まりないが、けれども自分が向こう側の立場だったら同じ行動を取ると思い至り、そこに付き纏う双子という事実に自嘲の笑みを浮かべる。お互い考える事は一緒であると知った宮田の胸中は最悪だった。

「お〜い宮田先生、大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
「ならよかった!いきなり立ち止まるから気分悪いのかと思いましたよ」

気分が悪いのは確かだったが、宮田はそれが石田の口にした言葉の意味合いとは異なるものであると承知していたので無反応を決め込んだ。
我に返り再び足を動かし始めた宮田を石田は追いかける。そして「それで、さっきの話の続きなんですけど」と、一旦中断させられた話題が戻ってきた。なまえの話なら宮田にも興味はあったし、聞いていて不快ではない。実際、先ほどまでぐるぐると負の感情が渦巻いていた胸の内が、やや払拭された気がしていた。

「なまえさんからその話を聞いたのは随分前ですけど、オレ、そのことを知れてよかったと思いますよ」
「そうですか」
「そうです、そうです。はあ…なまえさん、いい人だよなあ〜…。実はオレ、結構仲良いんですよね。昨日とか、あとさっきもちょっと話したりなんかして」
「……、なまえさんは外出を控えている筈では」
「えっそうなんですか?オレは普通に会うけどなあ…」
「……」
「だからさっき…宮田先生に会う直前にもバッタリ出くわしたので、かる〜く世間話とかしてきました」

道理でいつもに増してだらしない顔をしていた訳だ。合点がいった宮田は再度足を止めた。それから間髪入れず辿り着きたくもなかった結論に終着した───アレはなまえを人目に晒したくないのではなく、自分自身と対面させたくないが為に動いているのだと!
気がついたら最後、行き場のない憤りや嫌厭、憎悪が腹の底から湧き上がり、不快度指数は最高値どころか限界域を易々と突き破っていった。腸が煮えくり返る思いだった。少し考えれば分かる事だったというのに。アレは宮田の事を快く思っていないのである。宮田自身が向こうを嫌忌するのと同様に、アレもそれと同等の否定的な感情を抱いていた。あの時教会に呼ばれたのも宮田を牽制させるため、今後の見せしめとするためだった。アレは手段を選ばぬような男なのだ。面白くない。ああ、これは非常に面白くないな。ザワザワと騒ぎ立てる心を鎮められない宮田は口を開いていた。

「なまえさんとはどこで会ったんですか」

問えば、石田は何てことない顔で「オレが歩いてきた道を逆走したらいると思いますけど」と言った。その言葉を聞いた直後、宮田は方向転換をして医院に続く道とは異なる方面に向かい歩き始める。流石の石田も宮田が異様な雰囲気を纏っている事に気がついたのか、慌てて言葉を発した。

「ええっなんか怒ってます?もしかして喧嘩中だったり?」
「……喧嘩?ふざけるな。これはそんな一言で片づけられるものじゃない」
「……」

石田は目的地を変えた宮田に初めこそ同伴しようと思ったものの、あまりに禍々しい不穏な空気が醸し出されたので断念した。そして靴底を荒く地面にぶつけながら速足で離れていく背中を見送り、ポツリと溢したのだ。

「…もしかしてオレ、なまえさんに悪いことしちゃった…?」




一心に歩いていると、やがて久しく見かけていなかった後ろ姿が視界に入った。ゆったりと歩むなまえを見た宮田は自然と歯を食いしばる。彼は酷く苛立ちを覚えていた。人の気も知らないでなんて呑気な奴なのだと、その事ばかりに脳内が支配されていた。彼の心持ちは恐ろしいほどに殺伐としている。こうまでも理性で抑えつけられそうにない事態は珍しかったが、しかし思考が物騒な方向に流れつつも、どこか冷徹に状況を判断し捉えている自身もいた。彼は不安定な己の姿を客観的に分析しながらなまえとの距離を縮めていった。
足早に近づき細い肩に手を置く。「お久しぶりですね。最近はいかがお過ごしですか」振り向くのを待たずにそう言うと、なまえはピシリと身体を硬直させその場に立ち止まった。時間が静止すること約数秒、ギ、ギ、と錆び付いた動きでなまえが宮田の方へと顔を向けた。その顔面は哀れなほどに青ざめている。
宮田自身なまえが悪くないという事は重々承知しているが、彼女を支配している存在への怒気がどうにも収まらない。肩に置いた手には無意識下に力が込められ、なまえは苦痛に顔を歪めた。逃げるように身を捩るが怒りに満ちた宮田がそれを許すはずがなく、反対側の手首を掴み動きを制する。怯えたような表情で見上げてくるなまえを目にして込み上げてくるのは物騒な感情でしかない。宮田は今なら少しだけ牧野の気持ちが分かる気がした。なまえの弱弱しい表情は、彼の瞳には格段魅力的に映ったのだ。

「み、…宮田先生、いたい、です」
「痛くしてるので当然です」
「ご、めんなさい、っごめんなさい…離して…!」
「それは聞けません」

冷たい声だった。風の吹く音、鳥の鳴き声、その他の周囲の音が一切遮断され、なまえはこの場に宮田と自分しか存在していないかのような感覚に襲われた。懇願するように目の前の男を見つめてみるも、感情の読み取れない双眸にジッと見つめ返されるだけ。その様子が牧野と被り、小さく震える。似ているのは双子なのだから当たり前だとなまえは自分に必死に言い聞かせるが、彼女の脳には宮田がこんな顔をする人物であるとは記憶されていなかった。今の宮田の表情は、牧野がなまえに垣間見せるそれと等しいものに見える。そんな、だって、うそ。普段の宮田は誤解を招きそうな言動を取る人物ではあったが、実際は優しい人であるとなまえは考えていたというのに。現下の彼はまるで別人のようだ。

「ま、牧野さんに、見つかったら」
「教会はここから遠いので問題ありませんよ」
「でも、誰かに見られたら、…牧野さんに知られてしまったら、わたし」
「一つだけアレに知られずに済む方法がありますが。……聞きたいですか」

抑揚のない言葉を耳にした途端、なまえの身体中にぶわりと鳥肌が立った。「い、いいえ…っいいです、聞きたくない、です」喉奥から絞り出された声は震えていた。この状況下で己の意見を口にする事ができたなまえを見て、宮田の目が微かに見開かれる。彼女にも抵抗をするという選択肢があったのかと、そう思った。抵抗をするなど平生の姿勢からは考えられなかったのだ。あのなまえにそこまでさせるだなんて、今の自分は余程恐ろしく見えるらしい。宮田は思わず笑い声を上げそうになった。

「宮田先生のことを避けていたのは、ほんとうに申し訳ないなって…思ってて」
「……」
「で、でも、そうしないと…牧野さん、が、こわくて」
「……」

今にも泣き出しそうななまえを映す目玉は、やはりどこか冷たい。
なまえは口を結んだ宮田の視線から逃れるように俯き、謝罪を述べた。続いて「…気分悪い、ですよね」と細い声で呟かれたが、それは的を射ているようで射ていない。その言葉に特に返答もないまま二人の間が沈黙に包まれる。重苦しい空気になまえがとうとう気まずさを感じ始めた時、手首を掴んでいた力が緩んだ。ハッとして顔を上げると何を考えているのか分からない暗い瞳と視線が交わり、固唾を飲む。

「俺にとって教会は絶対です」
「……」
「だからなまえさんが交際しているのがあの牧野さんである以上、こっちも“表立って”は何も出来やしないんですよ」
「…え、と」
「……気に喰わないな」
「っあの!わ、わたしも宮田先生のことを避けるのはつらいので…やっぱり、牧野さんに言ってみようと思います」
「俺が言いたいのはそういう事じゃない。なまえさんは何も分かってない」
「う。すみません…」
「それに牧野さんに申し出た所で何も変わらない。変わる筈がない。……だったら、残された手段は一つしかないんだ。俺はこうするしか、この方法しか残されてないんです」

ぶつぶつと呟く宮田になまえは完全に置いてきぼりを食らっている。虚ろな眼は気味が悪いが、手首は依然握られたままなので距離を取る事もできない。成す術もなく、自分は一体どうすればいいのか考えあぐねていると、宮田は再びなまえの手首を握る手に力を込め言い放った。

「なまえさん。……ついて来て下さい」

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