道行く村民らから共通して向けられる生温かな視線に、当のなまえは困ったように微笑むことしかできない。
牧野と仲直り───もっとも、そのように形容するのが正しいかはなまえには判断できそうにないが───を終えて別れたその翌日のことである。どういう訳か、村全体が求導師となまえの交際がめでたく開始したという話で持ち切りだった。

「おめでとうねぇ、なまえちゃん」
「まさか、あの求導師様がね。幸せになるんだよ」

数えきれないほどの祝福の言葉がかけられ、彼女の内心をせめぎ合うのは困惑と疑念。しかしその胸中を吐露するには、あまりに不利な状況であった。
求導師と言えば、羽生蛇村に暮らす者にとって尊ばれし存在である。その職にあたる牧野との交際を拒否、ともすれば訂正を求めたというだけで村全体を敵に回すこともあり得る話だ。下手に否定の言葉を吐き出す失態は避けるべき、それはなまえも痛いほど承知している。
こうまでもなまえが当惑している理由としては、つまるところ彼女は、どういった経緯で己が牧野と交際を開始することになったのかを理解していなかったからである。これは前日の牧野の言葉に硬直した後、とんとん拍子で話が進んでしまったゆえの現状であった。というのも、前日のなまえと牧野の互いに腹を割った話し合いは、牧野にペースを掌握されていたと言っても過言ではなく、彼女はただ彼の綿密に作り上げられた道筋を辿ってしまった結果であるからだ。だがなまえがその事実に気がつくことはない。
兎に角、と、なまえの足は教会へと向かって進められていた。それは牧野本人にこれは一体どういうことなのか訊ねようという魂胆のためであったが、しかしながら直に顔を合わせたところで逆転劇が起こるはずがなく、それ以前にまた良いように丸め込まれることになるのは想像に容易い。それでも、やはりなまえは哀れにもその事実に気がつくことはないのだ。

「朝から愚兄の名を耳にすることになるとは」
「ひっ!あ…み、宮田先生…」
「おはようございます、なまえさん」
「…おはよう、ございます」

俯き加減に道端を歩いていると、いつの間にか隣に歩幅を合わせて歩く宮田の姿があり、声をかけられたなまえは驚いたように振り返った。相変わらずの仏頂面は、いつもに増してどこか硬いようにも見受けられる。それは彼の言う通りに聞きたくもない男の名を朝から嫌と言うほど耳にしたからなのか、あるいは外に思うことがあるからなのか、真意を知るのは宮田のみ。

「おめでとうございます、とでも言えばいいですか」
「……」
「ああ、その顔…さては乗せられたと」
「…乗せられた、というか…なんでこんなことに…という感じです…」
「それを世間一般では乗せられたと称しますね」
「……」
「…すみません。言い過ぎました」
「い、いいえ、大丈夫ですから。謝らないでください」
「……」
「と…ところで、宮田先生も教会にご用事ですか?」

細められた宮田の双眸に耐えられなくなったなまえは、慌てて正面に向き直り話題を変えた。宮田はそれに少々面白くなさげに顔を歪めると、「呼び出されたんですよ」と返事をし、舌打ちをする。随分と機嫌が芳しくないなぁ、となまえは内心ヒヤリとするが、その原因はどう考えてみても牧野に違いはないので深く言及することはしない。下手に介入しようとしたら後が怖いのである。

「大方予想はつきますが」
「……」
「出る杭は打たれるものですから」
「…杭?」
「危険分子は排除したいんでしょう」
「え…危険?宮田先生が、ですか?」
「…貴女には分からなくて結構ですよ」
「…あの、なんというか…すみません…」

まるで突き放されたかのような物言いにしょぼくれたなまえは、そんな自分の様子を宮田が強張った面持ちで見つめていることに気がつくことはない。
やがて二人は教会の前に到着した。見慣れた古びた扉は固く閉ざされている。堅固なそれに手を伸ばし中へ入ろうとしたら、そうするより先に内側から導かれるように開け放たれた。真っ先に目に入ったのは、満面の笑みを浮かべた牧野の姿。柔らかな微笑みはまさに求導師に相応しく、そしてそれこそなまえが惹かれた要素の一つでもあった。不意打ちの笑顔に彼女の心は不覚にも弾み、不安一色であった暗い表情が明るくなる。そんなあからさまな変化に、隣にいた宮田は顔を顰めた。
彼自身理解してはいるのだ。なまえが牧野に惚れ込んでいる、ということを。けれどもそれは求導師としての牧野であって、彼の本質ではない。宮田はそのことが、どうも気に喰わなかった。

「なまえさん、来て頂けると思っていました」
「あの、牧野さ」
「驚きました?村の皆が私達を祝福して下さっていることに」
「…は、い。ところであの」
「なまえさんが心配なさることは何もないんですよ。…ええ、何もね」

ふんわりと両腕を広げた牧野は、委縮し更に小さくなっていたなまえを優しく抱き寄せた。ビクリと肩を跳ねさせた彼女を身近に感じ、喜色を露わにしていた表情はドロドロと、原型を留めないまでに崩れゆく。
なまえはというと、牧野の腕の中でトラウマと化した出来事が脳内で鮮明に蘇り、まるで金縛りにでも遭っているかのように硬直して動かない。そのトラウマというのは、無論なまえが教会で牧野に荒々しく襲いかかられたことだ。そしてそれはなまえが初めて牧野の豹変ぶりを目にした時のことでもある。記憶に刻み込まれているのは狂気しか感じない抱擁であり、よって彼女の身体は己の意思に反してカタカタと震えを訴えるが、脳には彼の抱擁が恐怖の対象であると刷り込まれているがために、自力では対処の仕様がないのだ。かくいう牧野はそんな弱弱しいなまえを愛おしむかのように、背中を撫でさすっている。

「…宮田さんも、ありがとうございます。私達を“お祝い”…してくれるんでしょう?」

細い肩越しに視線を移された宮田は何も言葉を発しない。今や卑しさしか窺えない口元の歪み、なまえの視界から外れた途端にこうだ。だが苦虫を噛み潰したような顔を真っ向からぶつけられても、待ち望んだ瞬間を迎えた牧野には傷一つつけることすら叶わず、それどころかむしろ勝ち誇ったかのように悦喜した表情まで浮かべられる始末。思わず開かれた口は、しかしゆくゆくは何の言葉も吐き出されぬままに再び閉ざされた。
牧野はおもむろになまえを腕の中から解放すると、放心状態の彼女の手をそっと包み、破顔する。そうしてなまえが惚れ込んだという求導師の顔で名を呼んでやる。すると彼女は、一転して顔を綻ばせるのだ。大層純粋ななまえの様子に牧野は笑みを深くする一方である。心根はどす黒い感情でぐちゃぐちゃなくせに、よくもまあ。そんな場違いなことを考えられるのは、この一見幸福に満ち溢れた空間が、実際は欺瞞を地盤として築き上げられた関係であり、口が裂けても祝詞を述べられるものではないことを理解している宮田だけだ。

「なまえさん、これで貴女は私だけのものですね」

求導師の顔で牧野は言う。そうすれば、例え彼の言い表したものが呪詛であろうとも、なまえは拒絶することが出来ないのだから。

- ナノ -