「もう少し強い眠剤が欲しい?」

鋭い声色でそう言い放たれたかと思うと、ジロリとした視線がなまえに突き刺さった。宮田司郎は渋った様子で足を組み、今しがた診察室の中へと入ってきた患者───なまえの方へと向き直る。きれいに揃えられた膝の上で自身の指を弄り回す彼女は俯き、顔を上げようとしない。まるで宮田と視線を絡ませることを拒絶しているようである。
穴が開くほど頭頂部に集中する宮田の視線。なまえは決して上を向こうとはしないが、冷や汗を垂らし唇を引き結んでいるところから恐らく、殺される勢いで宮田に見つめられていることに気がついているのだろう。大人しく降参しないのはなまえにも思う節があるからか、それともただ単に鬼のような顔をした宮田に恐怖しているからか。

「これ以上強いのは出せませんよ」
「そ、そこを何とか……」
「……」

必死に懇願するようになまえが声を上げる。思わず上げられた頭に、宮田と視線が合う。顔には丁寧に化粧は施されているものの、うっすらと存在を主張しているのは目の下の隈。宮田は眉を顰めると重い溜息をついた。

「以前受診された時に言ったことを憶えていますか」
「……あの、わたしもできる限りの対処をするようにって」

気まずそうにそう言ったなまえは前回宮田に診察してもらった時のことを思い出した。眠剤は処方するが、当人も改善に向けての努力をするようにと。原因の根本を解決しなければ薬はより効果が強いものになっていく一方であり、医師としてそれは避けたいという考えが宮田にはあった。
疲れ切ったような表情で視線を彷徨わせるなまえを見つつ、宮田はこの人も厄介な奴に気に入られたなと思う。神代の遣いとして不入谷教会へしばしば顔を出さなければいけない立場である以上、求導女の雑談に無理矢理付き合わされることもあった。宮田と牧野が直接接触することは至極少ないことではあったが、求導女から嫌でも知らされる牧野の恋愛事情。随分とゾッコンらしいのだ。求導師としてではなく、一人の男として扱ってくれるなまえに。

「それで、貴女は具体的に何を」
「……教会に行く回数を減ら」
「してないのは知ってるんですよ。八尾さんが言ってましたからね」
「う」

目を疑うほどなまえは牧野に逆らえなかった。弱みでも握られているのかと思ったが、ああそういえば彼女は人が好い性質だったなと宮田は思案する。すこぶる押しに弱い性格をしているのだ。まさか自身がこんな状態になってまで、とは思うが、しかしそれが覆しようのないなまえという人間なのである。
加えて嘘をつくのも下手ときた。先ほどの挙動不審さは笑いを通り越して真顔になるレベル。患者の悩みの原因が宮田のよく思わぬ実の兄であるということも含まれているのかも知れないが。

「距離を置いて下さい」
「……でも」
「いいから置け」
「ひ」
「……この期に及んで、まだ罪悪感を感じているんですか」

ゆるゆるとなまえの視線が膝の上へと戻された。その様子を見た宮田は、眉間に深く刻まれた皺を揉みほぐすように指を当てて溜息をつく。図星を指されたのは一目で分かった。
おいでおいでと手招きをされれば、微塵の警戒心を持たずについていくのだ、なまえは。流石に求導師に変なことをされてからは幾分か抵抗を感じているようだが、それでも断ることができないのは気の弱さゆえか。「……信じられないんです」弱弱しい声だったがその言葉は確かに宮田の耳に入った。

「優しくて、大人しいひとだなって、そう思ってたんです」
「……」
「わたしは牧野さんのそういうところに惹かれたんだなあって。でも、たまにとっても怖くなるんですよ……も、もしかして、二重人格なのかな」
「……とにかく。薬はこれ以上強いものは出せませんから、なまえさんは暫く教会には行かないで下さい」
「うう」
「何も一生会うなとは言ってないんですよ。どうせ三日……いや、二日かな。たったそれだけ会えないだけでも、牧野さんには大打撃を与えるでしょうし。その間に反省してくれるんじゃないですか」

後半は面倒くさそうな声色で口早にそう言われる。まさか適当なことを言っているのではないだろうかと、なまえはそう思ったが、そのことは口に出さず頷く。村唯一の医師の言うことを大人しく聞くべきだと判断したのだ。
事実、宮田はあの牧野如きに振り回されるなまえにややイラつきを覚えていた。なぜそこまでして牧野の肩を持つのかが理解できなかった。
フラフラとおぼつかない足取りで診察室から出ていくなまえの背中を見送る。そこで脳裏を過ぎったのは求導女の言葉。

───求導師様となまえちゃん、とっても初々しくて、見ているこっちが恥ずかしいのよ。何せ両片思いだから。

牧野を優しい求導師と勘違いして、まざまざと罠に引っかかってしまったのは、ある種気の毒とも言える。じっくりと時間をかけて親密になり、気がついた時には落ちていたのだろう。それが偽りの姿であることに気がつかないまま。
牧野のその豹変ぶりは、当然特定の人物にしか知られていない。特定というのは勿論、弟である宮田が含まれている。幼少の頃から世話になっている求導女の八尾にすら知られていないのである。というのは、牧野が己を取り繕っているからに他ならない。求導師として生きることを強要され、宮田とは異なる意味で歪んだ環境で育てられたのだ。過度な期待に応えるべく、優しさを、そして笑顔を求められてきた。心の奥底に押しつぶしてきたのは、今まで顔を出すことなくひっそりと、しかし確かに存在はしていた。それが今となって現れたのは、なまえが意図せずに引き出したから。牧野が牧野として振る舞えるきっかけをつくったのが、紛れもない彼女だった。
今まで隠し通してきたものが崩れ去るさまは、牧野の蓄積してきた努力が水の泡になることを意味した。けれども当の本人はそれを嘆くどころか、むしろ大っぴらにして接触してくる。なまえに対する思いが牧野をそうさせているとしか思えなかった。彼女の前では求導師としてではなく、牧野慶として振る舞えているのだ。
宮田は直接牧野の変貌を目にしたことがあるわけではないが、居合わせた時に嫌でも感じる形容し難い感覚。それは二人が双子だから、目に見えない何かで察することができるのかもしれない。
所詮彼らは双生児なのである。一見正反対の性格をしているように思われる牧野と宮田。二人の本質は実は何ら大差ないものだと認める者は、今となっては宮田だけではなくなった。

「……本当に面倒くさい人だな」

吐き捨てられるように放たれたその一言は、誰の耳にも入ることはなかった。

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