断る理由などなかった。「なまえちゃん、お茶でもしていかない?」優し気な求導女にそう誘われれば、なまえはこくんと頭を頷かせ喜んでと返事をする。どうやら差し入れで少しばかり高価な菓子と茶が手に入ったらしい。求導女が手に持った紙袋を持ち上げ、中を覗いてみると綺麗に包まれた箱が二つ。それを共に楽しむ相手に自分が選ばれた喜びに、なまえはパアッと笑顔を浮かべる。毎日教会に足を運んでいたおかげで、求導女とはいつの間にか随分と親密な関係を築き上げていたようだ。

「求導師様は先に教会で待ってるわ。さあ行きましょう?」
「牧野さん…」
「ええ。あの人も、なまえちゃんとお茶をするのを楽しみにしていたの。それはもう準備に張り切っちゃってね」

求導女と言えば求導師も付き物である。分かっていたが心の底から受け入れることができないのは仕方のないことであった。それが自身と茶をするのを楽しみにしていたと聞いてもなお、素直に嬉しいと感じることができず複雑な心境に口ごもる。
しかしなまえも今日は教会に長居するつもりは毛頭なかった。睡眠不足のため宮田医院へ受診する予定があるのだ。どうも寝付きが悪く、寝ることができたとしても中途覚醒が目立ち満足に眠れない日々が続いている。化粧でいくらか誤魔化してはいるが、なまえの目の下に酷い隈ができるくらいには不眠に参っていた。原因は言わずもがな牧野である。いただけるものをいただいたら即退場しようという心持ちで訪ねるつもりでいた。
ギイ…、と求導女が教会の扉を開けると小さなテーブルの上に几帳面に並べられている、磨き上げられた真っ白な三人分の食器がなまえの目に入った。二人の到着に気が付いた牧野が腰掛けていた椅子から立ち上がる。「八尾さん、なまえさん、待ってましたよ」そう言って求導女の手から紙袋を受け取り、速やかに菓子を皿に並べる。その慣れた手つきになまえは目を奪われつつほう、と感心。

「慣れたものでしょう?求導師様は甘いものに目がないから。こういう時だけ動きが機敏になって」
「や、八尾さんっ」

照れたように慌てる牧野を見る限り、求導女の言ったことは的を射ているようである。可愛らしい一面もあるものだとなまえは思った。
カップに紅茶が淹れられ、湯気が上る。菓子の甘い香りもあいまって誘発されるのは、紛うことなき食欲。鼻歌混じりで準備を進めていた牧野が二人に声をかけ、皆テーブルを囲むようにして椅子に座った。皿の上には羽生蛇田村では手に入れられないような焼き菓子が乗せられており、なまえは目をキラキラと輝かせ、胸を弾ませた。
いただきます、そう言ってまずはマドレーヌを一口。甘すぎない風味が広がって思わず頬が緩む。ふにゃふにゃに破顔するその様子を牧野が瞬きもせずに見つめているとは露知らず、また一口頬張り紅茶を喉に流し込んだ。

「すごくおいしいです!」
「良かった。後で前田さんのお家にお礼に行かないとね」
「知子ちゃんのお家からいただいたものだったのですか?」
「最近家族旅行に行ったみたいで、そのお土産で買ってきてくれたらしいの。……求導師様、いかがですか?」
「……と、とても美味しいと思います」
「ふふ、無言になるくらい夢中になっていたのね」
「……」

キョロキョロ、眼球を忙しなく動かしている牧野は大分不自然だった。一体どうしたとなまえが目を見張り、じいっと彼の様子を観察していると、ふと上げられた目と視線が絡んだ。
見つめ合いながら牧野がごくりと菓子を咀嚼し嚥下する。喉が上下し、赤い舌が唇をペロリと舐めれば、その些細な動作がいやに艶めかしく見えた気がして心臓が跳ねた。

「……あら?もうこんな時間。少しゆっくりし過ぎちゃった」
「えっ?」

求導女がそう言うと席を立った。いそいそと何処かへ出かけるかのように身支度を整え始め、状況についていけないなまえがパチパチと瞬きをする。「ごめんね。神代家に顔を出さなきゃいけなくて」手の動きを止めないまま、動揺するなまえの様子に気が付いた求導女が言う。

「えっあ、えっと…じゃあわたしもそろそろお暇します」
「折角だから、なまえちゃんはゆっくりしていって?私のことは気にしなくていいから」
「あ、え……いえ、あの、実はわたしも用事」
「求導師様、とっても楽しみにしていらしたの。ね?」

中途半端に上げた腰が気まずい。牧野は黙々と菓子を胃に収めている。このまま求導女の言う通りに教会に残るか、それとも気にせず牧野一人を放置して帰るか。悩んでいる内に求導女はこの場を立ち去っていた。
先程の穏やかな空気とは一変。静かな空間へと変わり果ててしまった教会には、牧野の使用している紅茶の入ったカップと食器がぶつかる小さな金属音しか存在しない。なまえの皿にはまだ焼き菓子が残っているが、不思議と食欲は消え去ってしまっていた。

「食べないんですか?」
「…お腹、いっぱいになっちゃいました」
「そうですか。……八尾さんもあのように言っていましたし、どうぞゆっくりしていって下さいね」
「でもわたし、用事があるので、そろそろ」
「用事とは?」
「宮田医院に行こうと思ってて、」
「どこか悪いんですか?」
「…その、最近眠れなくて」

本当のことを言っているはずなのに、なまえの声は弱弱しく尻すぼみになっていく。牧野から放たれる妙な威圧感は別人のようである。ピリピリとした空気に呼吸が乱れ、居ても立っても居られなくなり、なまえがテーブルを離れて帰ることを決心した。微妙な位置に留まっていた腰を完全に上げ、椅子から立ち上がり扉の方へ。「すみません、」こういう時にまでしっかりと謝罪をするのは彼女がいかにお人好しであるかが表れている。待って下さいと制止の声がかかるが今回ばかりは我慢できない。申し訳ないと思いながらも無視するとパシン、手首を掴まれる。

「やっ」
「え、」

思わず振り払った手はむなしく宙に浮いた。茫然とした、この世の終わりといった顔の牧野と視線が絡み合う。「ご、ごめんなさ、」脊髄反射ではあるが仮にも人の手を叩くなど流石にまずいと思ったなまえが顔色を変えて謝ろうと口を開く。しかしそれはギョッとする事態に喉に戻された。
牧野が膝から崩れ落ち、肩を震わせる。両目からはぱたぱたと、どこからどう見ても大粒の涙が地面に落ちている。大の大人が泣くだなんて誰が予想しただろうか。

「うっ、うぅ、うああ……なまえさん、なまえさんなまえさん……」
「え、え、え〜!?…あ、あの、牧野さん?ごめんなさい、そんなに痛かったですか?あの、さっきのはつい、」

牧野のもとに駆け寄るなまえはどこまでも人が好い性質に違いなかった。そしてその選択が災いをもたらすことを彼女は知らない。
震動する肩に手を置こうとしたのだ。ガンッ!!頭に硬い衝撃がして視界がチカチカすると、目の前には教会の灰色の天井、背中には冷たいコンクリートの感触。一瞬真っ白になった世界が徐々に元通りになる前に息を奪われる。半開きになっていた唇から侵入する湿った何かが口内を這いずり回り、驚きに目を見開く。近すぎてぼやけている牧野と目があった。ニィイイ、細められたそれからは涙など流れていない。

「ふ、はあ、…捕まえた」
「…っん、む、…ま、きの、さっぁ」
「はい、はい、何ですか」
「ん、ぅ…!」

するすると大きな手がなまえの脇腹を撫でる。擽ったさに身体を硬直させる彼女を愛おしむように、もう一度唇を重ねた。ふっくらとした柔らかな唇を食んで楽しむと、なまえがきつく口を噛む。しかしすかさず牧野が横腹を緩やかに撫で、なまえの口から吐息が零れた瞬間に舌が差し込まれた。上手くはないが無遠慮に荒らされる舌の動きになまえの細い肩がびくびくと跳ね上がる。口内の奥へと逃げる彼女のそれをしつこく追いかけ、捕まった暁には小さな水音がなまえの耳に入り、ぎゅうと強く目を瞑る。
無意識のうちに牧野の服を握り締めていたなまえの手は、ふるふると震えていた。視界にその様子を捉えた牧野の目は満足げに、ちらちらと揺らめく欲を垣間見せ細められている。
幾度となく繰り返され無抵抗になったなまえの意識は酸欠で朦朧とする。牧野の動きが機敏になるのは甘味を前にした時だけではないようだと、そんな胸の内での嘆きを知るのは当然彼女以外にいない。

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