なまえはぎくりと足を止めた。背後からの聞き慣れた「なまえさん。こんにちは」という声に金縛りをかけられ、影を踏まれる。一度足を止めてしまったら聞こえませんでしたという言い訳は通用しない。いっそのこと無視をすれば良い話ではあるのだが、それができないのが彼女の長所であり短所でもあった。

「…こ、んにちは…牧野さん」

ぎこちない動きでなまえが振り返れば、そこには真夏にもかかわらず真っ黒な求導服を身に纏った牧野の姿があった。眺めている方もうんざりするような暑苦しさだが、当の本人は汗ひとつかかず顔に微笑を張りつけている。

なまえの背には冷たい汗が垂れる。思い返されたのは先日の理解し難いことであった。あれ以来彼女は夢見が悪く、満足に眠れない日々を送っている。牧野の豹変に心がついていけず、ぽつんと置いてけぼりを食らっているのである。
しかしあの日以降牧野から妙なことをされることもなく、もしかしたらあれは本当に己の悪い夢だったのでないかという思いがなまえの中で渦巻いていた。牧野が一切の態度の変化を見せないのが何よりの証拠であると、半ば言い聞かせるように己を信じ込ませる。そこには彼がきっとそんな人間ではないという主観が大部分を占めていたが、なまえはそれに気がつかない。
なぜならなまえは牧野が豹変した一面を見せたあの日まで、彼に随分と優しくしてもらっていたのだ。二人は求導女を介して親しくなった間柄であった。牧野に対する初めの印象は温厚。それは強ち間違いではなかったことが後に明らかになったことをなまえは記憶している。そのような人物が、一体なぜあそこまで変わってしまったのだろうか。あの牧野がまさか、という思いが真実を許容することを許してはくれないのだ。
牧野の人柄を疑う失礼な考えが伝わってしまったら申し訳が立たないと、なまえは困惑した自分を抑え込んで牧野を真正面から見据える。いつも通りに、いつも通りに。心の中で幾度もそう唱えながら。

なまえの葛藤に反して、牧野は大層ご機嫌の様子であった。幸せそうな雰囲気を醸し出し、やわらかな微笑みを浮かべている。それを見る限り彼は求導師の模範的姿に違いはないが。

「…牧野さん、何かいいことでもあったのですか?」

おずおずとなまえが訊ねると、牧野は目を真ん丸にした後に口角を上げた。口元に合わせた両手を持っていき、楽しげに喉を鳴らす。

「ふふ、分かりますか?」

緩やかな動作に目を奪われていると、牧野はうっとりと恍惚の表情を浮かべ口を開いた。

「ええ、そうです、そうです。なまえさんに会えましたから……」

スウ、と細められた双眸がなまえを捉える。それは柔らかな表情のはずなのに、彼女の身体は凍りついた。何故かは分からない。だが全身が示す拒絶反応に彼女は首を傾げる。「なまえさんとお会いできると、私、何でも頑張れるんですよ」カラカラになった喉からは何の言葉も出なかった。萎縮した身体では筋肉がろくに機能しないのである。
なまえの目線は下に降り、緊張した面持ちで二人分の影を見つめた。

「なまえさん?いかがなさいました?具合でも、悪いのですか…?」

ふいに揺らめいた影がなまえに伸びる。些細な行動にすら大袈裟に跳ねるなまえの肩。しかし牧野は大して気にも留めずぴたりと額に手を当てた。怯える彼女を見つめる瞳は、紛れもなくあの求導師のもの。なまえは目を瞬き瞠目する。
やはり先程の悪寒は何かの間違いだったのだと、目の前の不安げな顔をした牧野を見て思った。

「あ、あの……牧野さん、わたしは大丈夫です。ごめんなさい」
「…そうですか?ここ連日、猛暑が続いていますから……どうぞお身体は大事になさって下さいね」
「……はい」
「それでは、私はこの辺で」

なまえは丁寧に会釈をして教会の方へと踵を返す牧野の背中を見送る。真っ黒な後姿が見えなくなれば、途端に鼓膜を震わす蝉の鳴き声。暫くぼんやりとしていたなまえはハッと我に返った。そしていつの間にか張り詰めていた息を吐き出し、彼女も項垂れながらトボトボと家へと向かったのであった。

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