例えば小さいころ、近所のあこがれのお兄さんに「大きくなったらけっこんしたいなあ」と願う。そのお兄さんは笑って「そうだね」って、優しい声で返事をしてくれる。指切りげんまんまでしちゃったりして、くすぐったそうに笑いあったりして。
でもそれはあくまで小さいころの、憧憬と恋愛感情の違いすらまともに判断がつかないときの、話なのだ。

「なまえちゃんも、もう18歳…か。早いものだね」
「そうですねえ」

わたしたちは教会の中の、古びた椅子の上に並んで座っていた。でもふたりの間には、少しだけ距離がある。わたしから自然と空けるようになっていたからだ。確か中学生くらいのときから、だったように思う。思春期特有の、と表現すればいいのだろうか。とにかくぴったりとくっついて座るのが何だかとっても居心地が悪いような気がして、現在のようになってしまった。

「…敬語は、やめてほしいな」

牧野さんが寂しそうに笑って言った。そういえば、わたしが彼に敬語を使って話し始めたのも、中学生のときからだった。牧野さんとは毎日のように会うから、今となっては丁寧な言葉を使って話すということに慣れてしまい、砕けた口調で話すことに違和感を覚えるくらい。年頃の女の子は複雑なのだ。

「でも、年上のひとには礼儀…」
「やめてほしいんだ」
「……わかった、よ」

たどたどしい調子で返事をしたら、「いいこだね」と頭に感じるあたたかい体温。それから横に垂れた髪の毛を耳にかけられる。そのときに、牧野さんの指が耳たぶをかすり、妙なくすぐったさに肩がびくっとした。はずかしい、けど、彼には気づかれていなかったようで、わたしはホッと息を吐く。

「ねえ、求導師さま」
「……そう呼ばないでって言ったの、憶えてない?」
「じょ、冗談だよ。そんなにこわい顔しないで」

牧野さんは役職名で呼ばれることを極端に嫌う。それは彼が、その仕事にあまり好感を抱くことができていないからだろう。昔はわたしも、何が何だかわからないままに、村のみんなから尊敬されている牧野さんを見て、すごいひとなのだなあとは思っていた。でもそれは違うんだよ、と当時の牧野さんに教えてもらった。牧野さん自身がすごいんじゃなくて、みんな求導師という偶像を崇め讃えているんだって。小さかった頃のわたしはその意味を理解できなかったけど、現在になりその理由がわかるようになった。当時の牧野さんはわたしだけに言うんだよって、そう言って口の前に人差し指を立てて、内緒話をするようにコソコソと話してくれたのだ。
思えば、牧野さんは昔から、わたしを周りのひとより少しばかりひいきしていたように思う。でも求導師という存在は本来、村のひとみんなに平等に接するものだから、そんなことは口が裂けても言えない。わたしはその確信を、ひとり胸の内にしまい続けてきた。
優しくされて嫌な思いをするひとはいないだろう。事実、わたしは牧野さんの優しさが、うれしかった。でも最近は、どうしてわたし?と、そこに疑問を抱くようになっている。だから、今日はいよいよそれを訊ねようと思い教会に来たのだ。
今の今まで、質問を投げかけるタイミングは腐るほどあったのに、どういうわけかわたしの口からは言葉が出てくることはなく。そして時間は流れ、18歳の誕生日を迎えた。でも、いい機会かもしれない。またひとつ大人になったわたしが、今日こそこのもやもやを晴らしてやるのだ。

「今日はなまえちゃんに言いたいことがあるんだ」
「えっ」

わたしが両頬をぺちぺちと叩き、気合を注入していると、隣から穏やかな声が。先手を打たれてしまったけど、まあ仕方がない。牧野さんの言いたいこととやらを聞いてから、わたしはこの疑問を彼にぶつけてみることにしよう。

「まずは、誕生日おめでとう」
「…あ、ありがとう!」

祝福の言葉は素直にうれしいと思う。笑えば牧野さんも微笑みを湛えて頭を撫でてくれる。けれど、この歳になってこども扱いされるのはちょっと複雑な気持ちだ。「…牧野さん、わたし、もうこどもじゃないです」そういうと牧野さんは「知ってるよ」と言った。どこか粘り気のある口調で。なんとなくそう感じた。気のせいかもしれないけど。
「なまえちゃんもさ、」にこりと人の好い微笑を浮かべて牧野さんは口を開く。

「聞きたいこと、あるんでしょ?」

まさか牧野さんから話題を投げかけられるとは思ってもみなかった。だけど、これはいい機会だ。わたしはごくりと唾を飲み込んでから「…わたし、昔から牧野さんにひいきされているような気が、して。それで、どうして私なのかなって思って」と思い切って言った。言ってしまった。なぜか動悸が激しい。緊張していたせいか少し早口になってしまったけど、牧野さんの耳にはしっかり届いていたらしい。なぜなら、途端に無言になってしまったから。
その反応に、なにかまずいことを言ってしまったのかと思う。「あ、あの、答えにくかったらスルーしてくれていいです」慌ててそう言う。そしたら「また敬語になってる」と言われた。

「…昔交わした約束、忘れちゃった?」

寂しそうな声音でそう言った牧野さんは、表情からも悲しみを滲み出している。交わした約束、とは、もしかして“結婚しよう”という約束だろうか。でも、そんなはずはない。子どもの口約束を信じるなんて、そんなことは考えにくい。
「結婚しようって約束」しかし、私の予測は当たってしまった。まさか、と思ったけど、牧野さんは至極真面目な面持ちで続ける。

「大きくなったら結婚しようねって話、したよね」
「…でも、それは」
「子どもの頃の約束だって?」
「……」

牧野さんはわたしの考えていることをぴしゃりと当ててしまった。悪いことをした訳でもないのに、ばくばくと心臓が早まる。「そう、です。たかが子どものときの約束ごと、なのに」訳もわからず震えながらもそう伝えると、牧野さんは表情を消した。

「“たかが”子どもの約束?そんなことないよ。私はいつだって真剣だった」

どこか狂気を感じる雰囲気だった。いつもの優しいお兄さんのような、村のみんなから声をかけられたときのような、穏やかな様子から一転。わたしは恐ろしくなった。彼が、牧野さんが、どこまで本気なのかわからなくて。
冗談だって言ってほしかった。子どものときの約束ごとだもんねって、言ってほしかった。でも続いて開かれた口から紡がれたのは、もっと悍ましいものだった。

「なまえちゃんが何を考えてるのかなんて、知ってるよ、全部。昔から見てきたんだから。…ずっと、ずっとね」

いつのまにか距離を縮められていた。肩に手を置かれて耳元で囁かれる。「せっかく18歳を迎えたんだから、今日は一線を越えてみたいな」途端にぞわりと鳥肌が立つ、どろりと形状を成さない言の葉。一線を越えたいってなに?なにを越えたいの?牧野さんとは長い付き合いだから、わたしだって彼と同じで彼のことは何でも知っている。でも、知っていると思い込んでいただけなのかもしれない。

だってわたし、こんな牧野さん、知らない。

180715

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