アーニャはなまえ・みょうじというニンゲンが苦手だった。なにを考えなにを思っているのかが汲み取れないからだ。
そう、なまえはどういうわけか、アーニャの超能力が通用しないのである。超能力で感知した思考回路を行動の元としている彼女にとっては、それはつまるところ、“極力関わりたくない”という苦手意識へと直結することを意味していた。
ただひとつわかることは、彼は常にやわらかな微笑をたたえており、一見して心おだやかなニンゲンであろうということだった。
「ちちもははもかえってくるのおそい」
アーニャは内心号泣していた。ロイドが仕事と呈して外出している以上、頼りとなるのはヨルだけであったが、彼女もまた買い出しという任務を遂行していたからである。
アーニャは、なまえはロイドの仕事仲間であると伝えられている。つまるところ、バーリント総合病院に勤める精神科医であると。けれども彼女にとっては、それが虚言であると百も承知であった。ロイドの思考を汲み取り、精神科医であることはおろか、正確には“スパイ”でもないということも理解していたのだ。
ただ、彼は決して表社会における善良な仕事を全うしているわけではない。それだけは確実だった。
そしてそれがさらに恐怖心を煽っている。正体不明のニンゲンなのだ。警戒していて損はないに違いない。
「じゃあ僕と遊ぼうか」
ソファーに腰かけ、優雅に足を組みながらにこやかにそう言い放ったなまえに対し、アーニャは全力で首を左右に振った。それを見た彼は特段気を落とすこともなく「そう?」と引き下がったものの、しかしそれはそれで心的ストレスに見舞われ、やはり心のうちでさめざめと泣いた。
アーニャはちらちらと時計を確認している。実のところ、ロイドとヨルの帰宅を待望していたのだが、それに気がついたらしいなまえは、テレビの電源を点けた。
「!」
「そろそろスパイウォーズの時間だったか」
「!!」
アーニャはちょろかった。
自身の好みを熟知しているかのようななまえに感動したのだ。実際は、彼はロイドより対象の概要から趣味嗜好まで、すべての情報を共有されていたからなのだったが、心理的に限界を迎えていた彼女にとっては、それが恐ろしく正常な思考を奪っているのかということに勘づけなかった。
「ボンドマンかっこいいよな」
「!!!」
アーニャは満面の笑みを浮かべた。「ボンドマン、ちちみたいでかっこいい!」そしてぎくりとした。思わず口にしてしまったが、捉えようによっては、まるでロイドがスパイであると把握していたかのような発言だったことに気がついたからだ。
だらだらと汗を流しながらアーニャはなまえの表情を確認する。「!!!!」すると彼は感情の読めない面持ちをしながら微笑んでいた! 口腔内が乾燥してしかたがなかった。
「ア、アーニャしってる。ちちはスパイじゃない……」
「そうだね」
「……」
「僕のことは?」
「……?」
「僕の仕事。なんだと思う?」
アーニャは再度、腹のうちで号泣した。なんと返答すればよいのか、彼女の頭では答えが導き出せなかった。下手にありもしないことを口にして、自身の能力について露呈してしまえば、一体どうなってしまうというのか。アーニャはその恐怖で震える。
「ア、アーニャしってる……ゆうじんもスパイじゃない……」
「……」
アーニャは黙り込んでしまったなまえを、ちらりと横目で確認した。そうすると、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「……ゆ、ゆうじん……?」
「……は」
「……?」
「ははは!」
「……!?」
アーニャは堰を切ったように笑い出したなまえを見て眼を丸くした。なぜなら、現在の彼の気持ちがとめどなく脳内に流れ込んできたからだ!
目下のなまえは、それこそ近辺に居そうな、普通の青年だった。面白いことに声をあげて笑う、一般的な、純粋な青年だった。
アーニャはなまえがなぜこうまでも笑っているのかが理解できなかったが、それでも彼のことを多少は理解できたかのような気がして、彼女自身もまた声をあげて笑った。
「アーニャちゃんはおもしろいね」
今に始まったわけじゃないけど。笑いすぎて涙が出たのか、なまえは目元を指で拭いながらそう言う。そしてアーニャは「ゆうじん、こわくない」と口にしたと同時に、ぎくりとした。
「僕が怖かったの?」
そう訊かれてぶわりと肌が粟立ち、冷や汗が背筋を伝った。精巧な機械のような笑顔だった。思わず「や、やっぱりこわい……」と続けると、なまえはソファから立ち上がり、アーニャの前にしゃがみ込んで優しく頭を撫ぜた。「……」そんななまえは、やはり感情を汲み取れはしないものの、その手つきは優しく、アーニャのことを抱擁しているかのような錯覚を覚えさせるものだった。
「怖がらせちゃってたのか。気がつけなくてごめんね」
「……ア、アーニャ」
「うん?」
「……ゆ、ゆうじんのこと、もっとしりたい」
なぜなまえはこうまでも恐ろしいのか、感情を汲み取れないのか、アーニャは気になった。そして思わずそう発言すると、彼はなにかを思案し、黙り込む。
気持ちが悪くなるほどの動悸がアーニャに襲いかかる。沈黙が息苦しかった。
「いつか」ぽつりと呟くなまえを、アーニャは眉尻を下げながら見つめる。だがその続きは聞くことができなかった。
玄関の扉が開く音がしたのだ。「ただいま帰りました〜」買い物を終えたヨルが家の中へと入ってくる。「ヨルちゃん。おかえり」なまえはヨルの方を見遣り立ち上がると、アーニャは服を握り締めた。
「アーニャちゃん」
「……」
「今アーニャちゃんがロイドの子どもである以上、僕はきみのことを全力で守るよ」
なまえはそこまで言うと、アーニャの方を振り返らずにヨルの元へと歩いて行った。アーニャは俯き押し黙る。
───いつか。いつかは、彼の正体について、理解することはできるのだろうか。アーニャはいつか来るべきときが訪れるのを、心底待ち望むしかない。
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