※青年は久世しずかの兄/ヒトが死にます




 雲母坂まりなは自宅の扉の前に佇んでいた。震える手が扉の取っ手を掴んでいるが、なかなか“開く”という行動に移せない。乾ききった口腔内が不快でしかたなかった。
 今日の機嫌は如何なものなのだろうか。まりなには到底予測することができなかった。日々安定しているわけではないのだ。調子がよいときもあれば、当然悪いこともある。まりなはその差異に恐怖していた。
 鋭利な刃物を向けられる怖れ。実際に傷をつけられたこともままある。それはまりなにとって明確な憂虞となっている。
 立ち尽くして数分、まりなは己の頬を両手で叩くと、意を決した面持ちで扉を開いた。「ママ? ただいま!」努めて明るい声音を上げる。すると玄関口にはきれいに揃えられている見知ったローファーが一足あった。彼女はそれを眼にして、先までの憂鬱な気持ちが吹っ飛んだ。一転して満面の笑みを浮かべる。
 まりながスニーカーを脱ごうとすると、部屋のなかから慌ただしい音が聞こえた。まるで彼女の帰宅に居合わせてはいけないなにかがあるかのように。それを不思議に思いながら部屋のなかへ入ると、やはりなかにはまりなが密かに想いを寄せる青年───久世なまえがいた。彼は感情の汲み取れない眼玉でまりなの姿を捉えると口を開く。

「まりなちゃん。おかえり」
「うん、ただいま! なまえさん、来てくれてたんだ」
「まあね。……じゃあ、僕帰ります」
「えっ!?」

 慣れた手つきで乱れたワイシャツのボタンを締め直したなまえは、さっさと身支度を整え始めた。まりなはそれに狼狽する。「も、もう帰っちゃうの?」まりなとしては、母とふたりきりになるのは避けたかったし、なによりなまえと話をすることができないのが苦痛だった。彼の元へ走り寄りワイシャツを握りしめるが、その手をそっと押し返され「バイトがあるんだ」と言われた。
 まりなは落胆した。自分がなにを言おうとなまえのことを引き止めることは不可能だ。バイトがあるのは回避できないことである。なにより彼はいつだって彼女の希望通りになることはなかったからだ。まりなはそれが悲しかったものの、嫌われるよりであったらおとなしく受容したほうが好感は得られる。彼女は彼に好ましく思われたかった。融通が利くいわゆる“いい子”でありたかった。
 なまえはスクールバッグを手に取ると、玄関へ向かう。「ママ、まりななまえさんのこと見送ってくる!」彼はローファーを履きつま先を二、三回地面に打つと、振り返ることなく家から出て行った。まりなも慌ててスニーカーを履きなまえの後を追う。だが彼は彼女の歩幅に合わせているのか、歩みは遅く感ぜられる。彼女はそれにじんわりと身体のうちが温かくなった。

「なまえさん、バイトってどんなかんじなの? 楽しい?」
「普通かな。本並べたりレジ打ったりするだけだしね」
「ふーん……まりな遊びに行っちゃおうかな」

 まりなはそう言うと、ちらりとなまえを見遣る。彼はただ静黙しながら歩き正面を見つめている。
 日焼けを知らない陶器のような白い肌。太陽光を反射して輝く黒髪。それらの要素は彼女の心臓を鷲掴みにし離さない。
 やはりなまえはしずかと似ている。兄妹であるのだから至極真っ当な結論である。
 不意になまえの視線がアスファルトからまりなへと移る。凝視していたこともあり、ふたりの目線が交差した。「……どうした?」緩やかに上がった口角。まりなは赤面して俯く。口籠るまりなを一瞥したなまえは、特段気に留めることもなくまた前を向いた。
 束の間の沈黙。それが彼女にとっては貴重で神聖で、大層心地のよいものだった。
 しかしながらそろそろなまえのバイト先である本屋に到着してしまう。まりなはそう思い思わず足を止める。彼はその変化に気づかずに歩んで行ってしまうが、彼女は引き留めるようにしてワイシャツを掴んだ。必死のあまり存外の力が加わり、なまえはつんのめる。思わず後方を振り返ると、まりなは上目遣いで彼のことを見つめている。

「なまえさん、毎日バイトがんばってるよね」
「そうだね」
「……あーあ。ほんと、まりなのお兄ちゃんだったらよかったのにな」

 ずるい。小さく呟かれた言葉は幸か不幸かなまえの耳には入らなかった。
 しずかは日々まりなを中心とした同級生からいじめられている。学校の机や椅子、私物であるランドセルへ書き込まれた罵詈雑言の嵐はまだかわいい方だ。ときには暴力に発展する場合もあるからである。病院送りにならないよう考慮された範疇に収められているのが余計にいやらしい。だが、だからこそしずかはすんでのところで耐え忍ぶことができていた。
 その一方で、まりなはまりなで母からの虐待に苦悩している。父親がしずかの母と親密な関係になってから歯車が狂い始めた。父親は滅多に自宅へ帰ってくることはない。たまに帰ってきたと思えば、口論に巻き込まれる。まりなの母親はしばしば、彼女を支配するために刃物を向ける。その行動が、しずかに対する行為に模倣されていることにまりなは気がついていない。子はよくも悪くも親の背を見て育つ。それが如実に現れている。蓄積された鬱憤が、しずかへのいじめと直結しているのだ。
 まりなは腹の底からしずかを恨んでいた。彼女の両親が変わってしまったのは久世家に原因がある。そう確信していたからである。
 そこになまえが含まれていないのは、彼はまりなにとって唯一の架空の“兄”であると認知されていたからだった。まりなが帰宅を怖れるのに母親が関与しているのは当然のことであるのだが、ここ最近は高確率で彼も共に彼女の帰還を待機しているように見受けられる。なまえがその場に存在していると明確に母親の状態が安定しているし、父親がいなくても違和感のない様相を呈するのだ。それはまさしく“家族”のようだった。まりなにとって、それは一種の救済に近かった。
 なまえがまりなの家庭の事情を把握しているのは言うまでもない。彼女の母親に呼び出される所以も理解している。従順になるのに特別な理由はなかった。まりなのためでも彼女の母親のためでも自身のためでもない。そこにはなまえしか知らない事情があるのかも知れない。
 なまえがいない家は末恐ろしい。心底恐怖しているまりなは、彼と別れるのが惜しかった。なまえは自身が雲母坂家を訪問していないときの母親の姿を知らないはずだった。把握していたところで対応が変わるかと問われれば首を縦には振れないが。
 知らず知らずのうちにふたりの歩みが再開され、やがて本屋に到着した。「……」わがままを言ってはいけない。聞き分けのいい子でなければ。

「なまえさん、あんまり無理しないでね」

 またね。まりなはへたくそな笑顔を浮かべそう言った。




 しずかは得体の知れぬ感情に見舞われていた。チャッピーの散歩に行く時間になってもなまえが帰宅していないのだ。バイトをしていると言えど、彼はしずかとチャッピーのことを優先的に考えていたはずであるのに、だ。なんだか嫌な予感がする。彼女は漠然とそんな予感がしていた。
「チャッピー、ちょっと待ってて」しずかはそう言い聞かせると、履き潰されたスニーカーに足を通し家を飛び出した。
 当てはなかった。しずかは今更になってなまえのことを理解していないことに気がついた。実の兄であるはずなのに奇妙な話である。彼がどこにいるのか、てんで予測することができない。
 しずかはとりあえず、公園に行ってみることにした。なまえがそこで時間を潰すとは考えにくいが、彼女の思考ではそこしか思いつかなかった。
 とぼとぼと歩むうちに公園に到着するものの、やはりと言うべきかなまえの姿は見えない。
 そこでしずかはハッとした。下手に歩き回るより家で待機していた方が効率がいいかも知れない、そう思考したからだ。そして踵を返そうとしたとき、後方から声がかけられた。

「しずか」

 それに思い切り振り返れば、そこには探し求めていたなまえの姿があった。「おにいちゃん!」しずかは顔を綻ばせながら彼の側へと走り寄る。彼は優しい手つきでしずかの頭を撫でる。なまえはそのまま帰ろうと言った。彼女はそれに頷き彼の後をついて行く。
「おにいちゃん、どうしたの?」なにを思案しているのか汲み取れない双眸を携えているなまえに、しずかは漠然と違和感を覚えた。まるで彼女の知る彼ではないように見受けられたからだ。
 なまえはおずおずとそう訊ねるしずかを横目で確認すると、緩やかに口角を吊り上げて微笑んだ。

「……そろそろ夏休みがくる。そう思っただけだよ」
「?」

 なまえの言わんとしていることを正確に理解することはできなかったが、どこか機嫌がよさそうにも見える彼の様相に思わず笑みがこぼれる。そしてふたりは自宅へと向かって並んで歩き始めた。




 チャッピーが保健所に連れて行かれた。夜の散歩中に挑発をしかけたまりなに飛びかかったからだ。不運にも、その晩の散歩になまえは同伴していなかった。バイトで帰宅時間が遅くなってしまったためである。しずかは拠り所となる場所をひとつ失ったことに唖然としていた。彼女が縋れるものは極端に少ない。よってふたつの選択肢がひとつになってしまったことになる。
 まりなが死んだ。不測な事態であるはずだったが、しずかは達成感を得ていた。今までの仕打ちを鑑みれば無論のことである。
 しずかが絶命したまりなを放置しようとしたところで、幸か不幸か東直樹と遭遇した。彼はしずかの行動に眼を疑い自首を進めたものの、彼女の期待によってその後の行動に変化が訪れる。
 一番の重要事項はまりなの死を隠蔽することだ。しずかを含め少年院に入ることは否が応でも回避したいのだ。だとすれば、まりなは殺人ではなく不慮の事故によって死亡したと判断されるようにしなければならない。彼らは指紋を片っ端から拭き取り、そこから足がつくとは考えていなかった。
 だが、警察はまりなの死の原因を突き止めた。地質調査まで実施するとは想定外だった。けれどもしずかは動揺しなかった。それどころか東に自首を懇願するくらいだった。まりなの殺人を悪事だと思っていなかったからである。まりなの死など、しずかにとっては大した事件ではないのだ。それよりも優先すべきことがあったためだ。
 しずかはまりなの件よりも、チャッピーに会いに父の元へ訪問するのが第一だった。したがって、東と相談しながら東京へ行く計画を練った。それは東にとってかけがえなのない時間であり、彼は自分が頼りにされているという錯覚を覚え始めた。普段から存在意義を否定され続けているような環境下にある彼にとって、それは大層居心地のよい場所であったし、なによりも宝物のようにも感ぜられた。
 しずかはなまえにもその話を持ちかけている。そして彼の休日の日に合わせて東京へ行く手筈を整えた。警察がしずかの家を訪問することもあったが、彼女は器用に事情聴取を掻い潜り、事件の真相に自身が関与していないと思わせることに成功を収めている。
 そして待望した夏休み。しずかはなまえと船に乗り込み、東京へ向かってる。
 目的地に辿り着くのに苦労はしなかった。久方ぶりになまえとゆっくりできる時間に天にも昇る心地だったのもあるだろう。目的のマンションに到着し、ふたりは下から見上げる。部屋番号はしっかりと把握していた。
 しずかは高揚した気持ちでエレベーターに乗り込む。そしてボタンを押そうとするが、なまえがついてきていないことに気がつき、手を止める。「……」エレベーターの前で立ち尽くしている彼は、どこか暗い面持ちをしていた。
「おにいちゃん?」そう呼ばれ、なまえは我に返ったように瞬きをすると、しずかに微笑みかける。

「なんでもないよ。行こう」

 有無を言わせぬ雰囲気を纏うなまえに、しずかはなにも口にできない。なにか、違和感が、あった。なにがと問われても返答することはできないが、なにかがおかしい。そう思った。


贖罪せよ


 結局、父の元にチャッピーはいなかったことが判明した。しずかはそれに絶望し、この数日、魂の抜けた状態で生活を送っていた。なまえも気分が沈んでいるのか、バイトを辞めた。基本夕方までには帰宅するようになったのだ。しずかにとってそれは一種の救済だった。彼女にとっての心安らぐところは彼しかなくなったからである。
 だがバイトを辞めたにも関わらず、今日になって17時を回っても帰らなかった。しずかは形容しがたい感情に支配される。嫌な予感がした。このままなまえの帰宅を待機することもできたが、それでは駄目な気がした。今すぐ見つけなければ取り返しのつかないことになる気がした。
 しかし、しずかはなまえが時間を潰すと思しき場所の推測ができない。彼女は今になって初めて、自分が彼のことを理解していないことを察する。実の兄であるにも関わらず、彼のことを熟知しているとは思えないのだ。まるで赤の他人のような、そんな気さえする。
「タコピー。おにいちゃんの居場所がわかる道具だして」しずかがそう依頼すると、タコピーはどこからともなく地図のような紙切れを取り出した。
 その地図によると、なまえはデパートの屋上にいるようだった。しずかは大急ぎで身支度を整えると、バスに乗って該当のデパートへ向かう。
 二十分ほどバスに揺られて目的地に到着すると、しずかは走り出した。エレベーターに乗り、何度も屋上のボタンを指で押し込む。常よりも遅く感ぜられる昇降に苛立ちを覚える。
 実際はものの数十秒で屋上に到達した。ぐるりと周囲を見回し、なまえの姿を探す。ヒトはまばらだった。直ぐに発見しなければと焦燥に駆られていたが、存外あっという間に彼を視界に捉えた。フェンスに乗りかかり下を見下ろしている。
 走り寄る音が聞こえたのか、なまえはゆっくりとしずかの方を振り返った。「しずか」まるで夜のような黒い瞳に、微笑を形作る唇。ちぐはぐな佇まいは、彼女の背筋に冷たい汗を伝わせる。

「お、おにいちゃん。帰ろう?」
「……」
「一緒にごはん食べようよ」

 しずかがそう言っても、なまえはぴくりとも動かない。彼の視線は彼女の肩───タコピーへと突き刺さっている。その冷や汗が流れるような双眸に、タコピーは得体の知れぬ感覚に支配された。なにかが発生する気がする。それはタコピーにとってのある種のトラウマであり、しずかを彷彿とさせるなにかが。
「例えば」ぽつりと呟くなまえに、しずかはごくりと唾を飲み込む。

「……例えば、正しい未来を迎えるとしたら」

 静かに、諭すように口を開くなまえはどこか掴みどころがなく不気味だった。
 元よりなまえは心情を汲み取ることが難しい類のニンゲンではあったものの、しずかはふたりにとって互いに唯一の理解者であったと思っていた。そもそもふたりは血の繋がった兄妹であるので、それは避けようのない事実である。しかし、いつもなにを見てなにを感受しているのかを察知しにくいなまえは、今のしずかにとって、恐怖でしかない。
 なまえの視線はタコピーに突き刺さっている。
 ぬるい風がしずかの肌を撫でる。それはぞわぞわとした感情を誘起させ、背骨を伝い、鼓動を加速させた。
「みんなが倖せになるんだろうね」なまえは己の靴に視線を落とす。まるで項垂れているようの様相に、しずかの不安は増してゆくばかりである。

「た、正しい未来、って、なに?」
「……」

 しずかがそう口にするとなまえは黙った。それは思案しているようで、なにかを諦めてしまっているようにも窺える。ぼんやりとした眼で視線を上げると、どろどろとどす黒い眼玉に、不穏な雰囲気が彼の周りを渦巻いているような気さえする。
「正しい未来と正しくない未来があるんだよ。で、今は後者」なまえは口角を上げる。しずかはぞっとした。このような彼はついぞ眼にしたことがなかったからだ。
「タコ助くんは考えたことあるかい。正しい未来ってやつを」そう問われたタコピーは、言葉に詰まる。

「考えたことあるだろ。お前はしずかも───今は忘れていると思うけど───まりなちゃんも、両者を救いたいはずだからね」

 しずかは彼の言っていることを把握できず、おろおろと彼とタコピーを交互に見やる。彼女は介入してはいけない気がした。
 なまえは深い溜め息を吐いた。フェンスに寄りかかり空を仰ぐ。どんよりとした暑い雲が陽光を遮断している。雨が降りそうだった。
「そこに僕は存在していない。不本意だけど僕がしずかの倖せの邪魔をしてる」歯を食いしばりながら、無理矢理喉元から搾り出した声音。しずかの両眼にじわりと水の膜が張る。

「お、お兄ちゃん、なにを言ってるの?」
「正しい未来の話だよ」
「わ、私、わからない。お兄ちゃんがなにを言ってるのか」
「……正しい未来に僕はいないってこと」

 しずかはとうとう涙を流した。しゃくり上げ、肩で息をしている。
「なんでそんなこと知ってるかって思うよね。地球にタコ星人は自分しかいないと思ってたわけじゃないよな」そこ経由で得た情報がある。なまえはそう言った。

「なにも発言してくれるなよ。僕はこの世界で、誰よりもしずかのことを想ってる」

 そのためには、邪魔者を排除する必要がある。そうだろ。淡々と言葉を紡ぐなまえに、しずかは泣きながら近づいてゆく。ふらふらと覚束ない足取りに、彼は制止の声をかけた。
「しずか、止まって。話を聞いてくれないか」彼女は従い、ぴたりと歩みを止める。

「だって、だって……私、お兄ちゃんがいないといやだ」
「今まで生きてきて、ずっと心のどこかに違和感はあったんだ。常に絶望が付き纏ってくような、心にぽっかり穴が空いているような、みたいなね」

 なまえは視線をタコピーからしずかに移動させる。そして柔らかに微笑んだ。こんなにも優しく、なにかから解放されているように見受けられるなまえは初めてだった。

「その理由が最近分かった」

「……」また沈黙するなまえに、タコピーは言葉を発することができない。ただ静かに見守ることしかできないのだ。

「なあタコ助くん! お前は僕は死なないと思ってるよな! ああ、その通りだ! だけどそれはこの世界線の僕ではない!」

 両手を広げ声を張り上げるなまえは、今にも泣き出しそうな面持ちをしている。
「お前はハッピーを齎す生き物なんだろ?」すっと細められた眼玉に、タコピーは固唾を飲みこむ。

「だったらたまには僕のことも救ってみせろよ」

 なまえの頬に一滴の水が伝う。「お兄ちゃん!」しずかは弾かれたように走り出す。「ま、まって、おねがい、いやだ」だがその手が彼に触れることはなかった。肉の塊がコンクリートに打ち付けられた音がする。しずかは下を覗き込むことができない。彼女の肩に乗っていたタコピーは、ただただ震えていた。


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