なまえはしょんぼりと椅子に腰かけ項垂れていた。小さな手には分厚い聖書が一冊ある。外から入ってくる隙間風が擦り切れたページを捲る。それは幾度も目を通されたと思しき状態だった。彼女はぶるりと身体を震わせ、羅列された文字を指でなぞる。
 なまえはサイレントヒルの教会に努める修道女である。一見“教会”と言えば聞こえはいいものの、実情彼女が献身的に勤めている場所は、悪事に手を染めている団体に他ならない。なまえはそれを重々承知していたが、それでも教会に救われた恩があるので、脱退するのも気が引けた。加えて彼女には教会以外に当てがない。衣食住を無償で提供してくれる教会は、なまえにとってまさしく拠り所となる場所に違いなかった。

「闇と死の陰に生きる者、苦痛と鎖に縛られし者……」

 なまえはか細い声で聖書を復唱する。実を言うと、なまえは問題児だった。なぜならば彼女は寝坊の常習犯だったし、聖書の中身もろくに憶えていないからである。努力はしている。だが、彼女はちょっぴり抜けているのだった。
 うんうんと唸りながら聖書を読み込むなまえは、突然ハッとすると、慌てて周囲を確認する。どういうわけか、彼女はここ最近、第三者の視線を感じるときがままあるのだ。しかし、いつだってなんら変化のない環境に違いなく、結局気のせいであったと結論づける結果へと落ち着かせるしかなかった。
 なまえが今いる部屋は、いわゆる懺悔室というところだ。そこで己の過ちを懺悔するよう言いつけられているからである。なまえはいつか自分も他の先輩たちのように、市民から頼られる修道女になることを目標としていた。それを実現させるためには、長い年月を経なければならないであろう。表立っては市民を神の導きへと先導する立場にあるため、その高みにある立ち位置へ到達するのを目指すのは当然のことだ。
 言いつけられていた部分の聖書を読破したなまえは、椅子から腰を上げると服を手で払い、懺悔室から出る。外は真っ暗闇だった。晴れているおかげで星々が夜空に散らばっている。彼女は一度空を仰ぐと、教会のなかへと足早に移動した。
 問題はここからである。
 教会の入り口からなまえの自室に至るまでの道のりのなかに、ある一部屋がある。そこにはある人物が存在するのだ。そして、それが彼女が大いに恐れている人物である。
 彼がその部屋から出てくることはない。けれどもなまえは、いつか彼が自分を胃袋に収めようと襲ってくるという悪夢をしばしば見るのだった。
 鼓動が激しく鳴り響く。震える足を必死に動かし、聖書を抱きしめる。そして息を切らしながら彼のいる部屋を通り過ぎると、自室の扉を開き、飛び込んだ。途端に腰が抜け、扉に背を預けるかたちで床にへたり込む。
 どうやら今日も五体満足で帰還することができたらしい。なまえは大きな溜め息を吐いた。
 心臓が落ち着くまで数分ほどかかった。やがて息が整ったなまえは、ゆっくりと立ち上がり、ベッドへと向かった。
 今日の務めも無事果たした。あとは就寝し、明日のミサに備えよう。そう思い、聖書を机の置くために後ろを振り返った。「ひっ!?」なまえの口から引き攣った声がこぼれる。なぜなら後方には、彼女が最も恐れている男がいたのだ! 表情を窺うことのできないガスマスクを装着しており、荒い息遣いが聞こえる。彼女は情けない声を上げながらしゃがみ込む。

「な、な、なんで!?」

 なまえは両手で顔を覆い泣き始めた。そして「こ、ここは、あなたの入れる部屋じゃないのに」と、めそめそと涙を流す。するとなにを思ったのか、男は彼女の顔を覗き込むようにして地に膝をついた。なまえは眼前の男の気配を察知し、恐る恐る手を顔から離し、「!!!」また覆った。想像以上に近いところにガスマスクがあったからだ。
 膠着が続く。このままでは埒が明かない。
 なまえは両手を顔から離し、頬をたたく。意を決して男を睥睨すると、手に持っていた聖書を彼に押しつけた。「はなれて!」しかし当然と言うべきか、彼はいとも容易くそれを奪い去り、なんとふたつに引き裂いてみせた。「ひゅ……」なまえは愕然とする。時間稼ぎにすらならなかった行動に、ひた焦った。
 横を通り抜けようとするも、自身より倍大きな体躯で阻止される。ぽかぽかと両手で殴るも、ほんの些細な抵抗にしかならない。
 やがて万策尽きたなまえは、茫然と男を見つめる。彼はなぜ自身の部屋に侵入してきたのか? 目的は? それが不明である以上、事態が解決に至るのは困難極まるだろう。
 男はなにも言わない。なまえも思わず口ごもる。そもそも彼に話は通じるのだろうか? なにもかもが不明瞭過ぎて泣きわめきたかった。
 おもむろに、男が動きを見せる。腕を伸ばしてきたのだ。なまえはそれにびくりと身体を跳ねさせる。そして太い腕が彼女の脇の下に差し込まれ、ぎょっとした。なにが起こっているのか理解できず硬直するなまえは、そのまま男に抱きあげられるようにして足が地から離れた。ぶらぶらと揺れる足に、彼女はひっと上擦った声を漏らす。

「だれかたすけて……」

 それは切実な言葉である。

221008

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