なまえはエンジェルダストの居宅に遊びに来ていたはずだった。
 なんの他愛のない、地獄での阿鼻叫喚たる殺戮についての話に花を咲かせ───と言うのはエンジェルダストに限定され、なまえは主に聞き役として立ち回るのだが───また違法なドラッグに手を染め丁度よく効能を表し、心地のよい感覚に身を包まれているエンジェルダストが、何気ない一言を口にしたのだ。
「よかったらウチくる? なまえだったら歓迎するぜ」それは世間話の延長線上にある流れだった。
 エンジェルダスト宅は家具からなにからピンク色を基調としており、統一感のある綺麗な居宅だった。明光を放つ電球で装飾されている大きな鏡は、彼の身だしなみを整える仕事をしているのだろうとなまえは推測した。
 だが余計なことを考えるなと言われんばかりの視線が突き刺さり、彼女の眼は感触のよいカーペットへと落とされる。
 エンジェルダストはなまえのことが好きだ。連むには持ってこいの人材だったからだ。なまえは荒れた胸中を治癒する無二の能力を所持していた。
 なまえは地獄で暮らすには到底貧弱で脆弱で、どうも庇護欲を唆られる。生来、エンジェルダストは他人に手を差し伸べることはない性質の生き物だし、それどころか寧ろなにに置いてもふざけ倒し、セックスや薬など派手且つ道徳的に問題のあることを好む傾向にあるのだが、どういうわけかなまえにはそれが通用しないのである。
 なまえはエンジェルダストが薬に手を出してキマっている姿を眼にすると途端に悲しい表情を浮かべるのだが、それを知っているエンジェルダストは逆に感極まっている。地獄は弱肉強食の世界。殺るか殺られるかの世界なのだ。他人のことなど陥れて、騙し欺いてなんぼなのである。
 だが、なまえはそれがなかった。だからこそ地獄では浮いていたし、悪い意味で注目を浴びやすかった。
 なぜなまえが地獄へと堕ちてしまったのか。その理由は神のみぞ知る、といったところであろう。恐らくは天界に見捨てられた哀れな個体に違いなかった。
 しかし、なまえは落胆することばかりではないことに唯一救われていた。
 地獄にある更生を目的にしたホテル───ハズビンホテルに、従業員として雇われたのだ。雇い主はチャーリーという、地獄における姫君だ。
 チャーリーは今にも暴動に巻き込まれおっ死ぬように見受けられたなまえを発見し、保護した。ハズビンホテルなる謀反者の更生施設を設立するくらいだから、その点チャーリーにとってなまえとはまさしく自身の望んだ偶像だった。ただでさえ理解が得られず、それどころかホテルに腐乱臭のする卵や爆弾が投げられるなど、協力者がひとりもいないのだ。みながホテルを指差し嘲笑する。チャーリーはソレに肩を落としている。
 ハズビンホテルを設立した当日から、チャーリーは苦悩していた。一筋縄ではゆかぬということは覚悟していたものの、現実は想像以上に難航しそうだからだ。
 けれども、そんなチャーリーにも一縷の希望があった。バギーというよき理解者と、なまえという理想の個体がいるからだ。チャーリーにとって、地獄という犯罪の蔓延る世界でなまえのような個体は重宝されたる存在だった、とも言える(この場合、なまえは“更生”されるのではなく、どちらかと云えば“見本”と表した方が適切であろう)。
 そう、なまえはエンジェルダストの家に遊びに来ていたはずだった、のだ。
 丁寧に洗濯されていると予想される寝具の上に足を組み腰かけている人影がひとつある。ソレは赤い帽子に白いファーマフラーを首に巻きつけ、はあと型のサングラスをかけている。
 品定めをするかのように、なまえの身体にレンズ越しの男の眼線が纏わりつく。ねっとりとしているようでいて、なにも見逃すまいと鋭い眼線のようでもある。なまえは捕食者のそれのような気がし、本能的に萎縮した。
 部屋のなかを恐々見回してみると、ソファの上に縄で縛られ身動きの取れないエンジェルダストが転がされていた。なまえは顔を青ざめさせ彼の元へ駆け寄ろうもするものの、ベッドにいるモノが咥えている赤い煙草の煙が彼女の身体の方へと漂って纏いつき、ピタリと静止する。ほんの些細な行動ではあったが、そんななまえのことを牽制するぶんには十分すぎるほどの効果を表した。

「アイツのことが気になるだろう」

 男は顎でエンジェルダストが放置されているソファを指すと、くつくつと喉の奥を鳴らし、至極愉しそうに口を開く。
 なまえは眼の前の男の名を知らない。ただ、恐らくは以前よりエンジェルダストから聞いていた“ボス”というものが彼である可能性が極めて高いことが予測された。自由を奪われておきながら抵抗する気のない様相から、嫌でも繋がる関係性。
 そうは言っても、なまえにとってはどうしようもない状況だった。
───候補を挙げるとすれば、チェリーボム。彼女が乱入するとなると、この現状を打開できるかもしれない。しかし、それはあまりにも“運試し”のようなものだった。

「俺が何者なのかわからねえって顔をしてるな」

 眼前の男がおもむろに言う。「エンジェルから聞いてねえのか?」未だに合点がゆかぬ表情を浮かべる男に、なまえは確信を得た。彼が───エンジェルダストを支配し意のままに操っている“ボス”なのであると!
 なまえは咥内がからからとした砂漠のような状態になっていることに気がついた。
 この男とは、関わってはいけない。なまえの本能がそう叫んでいる。
 なにも言わない───厳密に追及するなれば“言えない”───なまえに、男は立ち上がる。そして彼女の元へ一歩、また一歩と近づいた。なまえはじりじりと壁際まで追い詰められ、壁を背に男に覆い被された。 
「ヴァレンティノ。俺の名だ」男───ヴァレンティノはそう言う。なまえは固唾を呑み込む。「呼んでみろ」なまえは彼の意図が読めない。

「呼べ」
「……ヴ、ヴァレンティノ、さん」
「……ふ、はは、ははは!」

 なまえは震えた声でヴァレンティノの名を呼ぶと、彼は心底愉快だとでも言うかのように笑い声を上げた。「成る程、あいつが執着するのも理解できる」なまえは彼がなにを言いたいのかが理解できなかった。
 ヴァレンティノはなまえの頬に手を滑らせる。ツ、と輪郭の縁をなぞり、唇にしなやかな指を這わせる。そしてそのまま咥内に指を突っ込んだ。
 無骨な指が逃げ惑うなまえの舌を捕らえ、表面を撫で、擦り上げる。呼吸することすらもままならないなまえの両眼にはじわりと涙が浮かぶ。
 思わず、なまえはヴァレンティノの手を制止しようと触れた。だが彼の指の動きは増す一方である。
「あ、ぁう」ヴァレンティノは苦しそうに表情を顰めるなまえを愉しそうに見つめている。
 なまえが生理的反応でふたつの眼から止めどなく涙を落としていると、不意に声が聞こえた。

「ボス、頼むからそれ以上はやめて……」

 声の正体はソファの上に横たわっていたエンジェルダストだった。四本の腕を拘束されつつも、彼は無理矢理にでも身体を起こし、なまえたちの元へ歩み寄ってきたのだ。ヴァレンティノは眼を細める。
 エンジェルダストは涙ながらに訴える。だがそれはヴァレンティノの愉悦を誘う要因にしかならなかった。
 ヴァレンティノはエンジェルダストの力強く頬をはたく。その勢いでエンジェルダストは床に倒れ込んだ。「ここでブチ犯してもいいんだぞ」恐怖を煽られる声。拘束されているせいで受け身が取れず、激しい音を立て床に転がる。
「エンジェル……!」ヴァレンティノの指がずるりとなまえの咥内から抜けると、彼女は悲痛な声を上げ腕のなかから飛び出し、エンジェルダストの元へ駆け寄る。けれどもその様相はヴァレンティノを高揚させる反応に過ぎないのだ。

「脱げ」

 ヴァレンティノはなまえの腕を掴み立ち上がらせ、エンジェルダストから引っぺがすと、再度壁に押しつけそう言った。なまえは彼がなんと言ったのか、瞬時に把握することができない。硬直して身体が動かなかった。

「聞こえなかったのか? 脱げ、と言ったんだ」

 ヴァレンティノは再三語気を荒げて言う。なまえはびくりと肩を跳ね上げた。そして言われるがまま、ブラウスのボタンに手をかけた。彼はなまえがひとつひとつボタンを外していくのを満足そうに見つめている。
 やがて最後のひとつに手がかけられたそのとき、部屋の扉が蹴破られた───正確には、闇に“飲み込まれ”た。その圧倒的な能力に、ヴァレンティノは眼を鋭くし扉の方を見遣る。
「お愉しみの最中に申し訳ない!」闇の奥から姿を現したのは、地獄で最も恐れられていると言っても過言ではないラジオ・デーモン───アラスターだ。「アラスター……!」エンジェルダストが期待を込めた口振りで彼の名を呼ぶ。彼にはこの状況下では起こりうるなにもかもが救済のように感ぜられた。
 なまえは予想外の来客にぽかんと保けた。そしてまさかあのアラスターが窮地を救いに来たのだろうかと、そんな可能性が脳裏に過ぎり、頭を振る。人助けなど、アラスターにはそぐわぬのだ。ハズビンホテルの経営に助力するのさえ、なまえは信じることができないでいた。

「ア? アラスター、てめえどういう風の吹き回しだ?」
「私の本意ではない事態のようでね」
「……」

 アラスターは愉しそうに笑い声を上げている。「……ふん。やっぱなまえはてめえのお気に入りってことか」ヴァレンティノがそう言えば、アラスターはくつくつと喉を鳴らした。
 だが、ヴァレンティノはなまえを解放するどころか腕のなかに閉じ込めた。「こんだけ密着してりゃ繰り出せるモンも繰り出せねえだろ」そう吐き捨てると、ヴァレンティノはなまえのブラウスを力任せに引き千切った。下着が露わになったなまえは小さく悲鳴を上げしゃがみこもうとするが、ヴァレンティノはそれを許さない。肩に手を乗せ、顎の下に手をやり顔を持ち上げる。
 アラスターはなにも言わない。面持ちもなんら変化はなかった。だが、彼の纏う空気が変わった気がした。なまえはその変化に気がつくことができなかったが、ヴァレンティノは目敏く察知する。吊り上げていた口角を元通りの位置へと戻すと、歯を喰い縛る。余裕綽々なアラスターがひどく気に喰わなかった。

「少しでも動いてみろ。こいつの首の骨を折っちまうぞ」

 ヴァレンティノがそう脅迫するが、アラスターはそれすらも興味がないようだった。視線は依然としてなまえに突き刺さっている。
 なまえは唾を飲み込んだ。果たしてアラスターは自身のことを助けにきてくれたのか、それだけが気がかりだった。
 エンジェルダストはアラスターに気が向いているヴァレンティノの隙を狙い、隠し持っていた鋏で縄を切断した。そして「なまえ!」と叫ぶ。なまえは恐怖に滲む眼をエンジェルダストの方へ向ける。エンジェルダストは今すぐにでも側へ駆け寄りヴァレンティノの腕のなかからなまえを解放させたかったが、アラスターの登場により張り詰めた空気のなかそのような行動を取るのは自殺行為のようなものだった。
 今のなまえにとって、アラスターが加わったことは恐れを増長させるに過ぎない展開である。
「───此れは契約だ」唐突に、アラスターは声高らかにそう言った。ソレにヴァレンティノとなまえは眼を丸くする。「契約だあ?」ヴァレンティノが吐き捨てるように言うが、アラスターの眼はなまえに集中したまま動くことはない。
 ヴァレンティノは舌打ちした。アラスターの興味が微塵も自身の方へ向けられていないことが不満だった。アラスターは初めから“なまえのことしか見えていない”!

「私が解放を約束しよう。その代わりに───」

 アラスターがいとも簡単に言い放ったのを見たヴァレンティノは口許を歪ませた。もはや眼中にない、という真実が不愉快極まりなかった。
「───なまえの総べてを私に譲渡する、と」それを耳にしたなまえは身体を縮こまらせる。アラスターの要求は飲み込めたものではないものの、現状解放されたいのもまた事実だった。
「わ、わたし」思わず口答えしようと口を開きかけるが、アラスターに有無を言わさぬような眼差しで見つめられ、黙り込んでしまう。
 沈黙が訪れた。承諾の意を示さないなまえを見たヴァレンティノは、鋭利な視線をアラスターに刺し笑う。

「どうやらその“契約”とやらは却下されるみてえだな」

 そしてそう言った次の瞬間、アラスターがフィンガースナップし、ヴァレンティノの腕が意思と反してなまえの身体から逃げるかのように弾かれた。なにかが彼の腕を“使役して”いるようだった。
「てめえ……!」当然、ヴァレンティノは面白くない。だが、実力差は明白だった。
「私は応答を求めているわけではないんだよ」アラスターはなにも言えないなまえを見つめ続ける。

「導かれる応答はイエスのみ。何故ならそれが真理なのだから!」

 アラスターが声高らかにそう言った瞬間、ヴァレンティノの身体が床に倒れ込んだ。なにか眼に見えぬ力で押し潰されたかのように。
「くそっ……!」なまえはヴァレンティノの腕から解放され、よろよろと数歩前に進むと、地べたにへたり込んだ。それを見かねたエンジェルダストが彼女の元へ駆け寄り、肩に手を置く。「なまえ、大丈夫か?」心配そうに声をかけると、なまえは弱々しく頷いた。
 その様子を眼にしたアラスターは鼻歌を歌いながら再度指を鳴らすと、なまえの服装が変わる。ブラウスは見るも無惨な布切れ同様だったものから美しいシルクのそれへと変化した。なまえは自身の身体を確認し、ほっと溜め息を吐いたが、顔はぎこちなく硬っている。

「あ……アラスター、ありがとう」
「構わないよ」
「そ、それと、あの……」
「なにかな?」

 なまえが気がかりだったのはアラスターとの“契約”だった。なまえの拒否権などないに等しいその契りは、一体どのような“代償”を求めるのか、皆目検討もつかなかったからだ。
 にっこりと完璧な笑みを浮かべるアラスターを見ていると、どうにも嫌な悪寒が背筋を走る。なまえの冷や汗が頬に伝う。
 アラスターは眼線をなまえから外し、部屋の扉の方を見遣る。気がつけば、ヴァレンティノは部屋から姿を消していた。ほんの一瞬眼を離した隙にである。アラスターはそれが大層気に入ったらしく、声高らかに笑っていた。
「いやはや、弱者は逃げ足が速くて困るね」あのヴァレンティノを“弱者”扱いするなど、エンジェルダストには眼玉が飛び出るほど驚愕せざるを得なかった。やはりラジオデーモンは恐ろしく強者であり、まさしく“敵なし”だった!
 だが、エンジェルダストはひとつ懸念していることがあった。後日ヴァレンティノの顔を合わせたときのことを思案したのだ。これだけ実力差を見せつけられ、加えて撤退を強制されるなど、逆鱗に触れるに違いない目に遭っているからだ。
 エンジェルダストは知らず知らずのうちに溜め息を吐いていた。どうあがこうが彼はヴァレンティノと縁を切ることができない。逃げられないのだ。そういう契約だから。
 俯き頭を抱えているエンジェルダストを眼にしたなまえは、彼の身体を抱擁した。エンジェルダストの肩がびくりと跳ねる。

「なまえ、ごめん、撒き込んじまった……」
「ううん、いいの。気にしないで」

 エンジェルダストは力なく呟く。彼は自身の置かれている環境がなまえにまで影響を及ぼされるのを危惧していた───というのは、すでに手遅れな状況であると言えよう。ヴァレンティノは新たな玩具を発見したと言っても過言ではない。現在はアラスターの手腕により撥ねつけることができたが、今後も同様に、というわけにもかない。エンジェルダストは唇を噛み締める。

「エンジェル、大丈夫だよ」
「……」
「エンジェルになにかあったら、わたし、飛んで行くから」
「なまえ……」

 実のところ、なまえが介入したところで状況が変わるわけは一切もない。しかしエンジェルダストは彼女のその気持ちが嬉しかった。そしてこんなところで野垂れ死んでいる場合ではないと胸中で反芻する。「ありがとな」ようやく笑顔を見せたエンジェルダストに、なまえは花のような微笑みを浮かべる。
 エンジェルダストとなまえが互いに笑みながら見つめ合っているさなかに、笑い声が聞こえた。ふたりが音の発生源に視線を移動させれば、アラスターが口許に手を寄せ屹立していた。

「私ならば対応できるでしょうねえ」
「!?」
「あ、アラスター? それって、どういう」
「言葉通りの意味です」

 アラスターがなにをどのように思考しているのか、なまえとエンジェルダストには到底解読することができない。ただ、それは余りにも魅力的な言葉だった。
 しかしなまえは言う。「エンジェルのためなら、わたし、なんでもする。だから、なにかあったときは───アラスターに、その、助けてもらうっていうのはどうかなあ……」徐々に尻すぼみになってゆく発言をしたなまえは、横目でエンジェルダストの様子を確認した。彼はしばし熟考する面持ちになると、首を左右に振って言った。

「いや、これは俺の問題だ」
「エンジェル……」

 エンジェルダストが重々しくそう言うと、なまえは顔を引き締めて続ける。「……わかった。でも、なにかあったら遅いから、そのときはわたしがなんとかするね」至極真面目に口を開くなまえを見れば、やはりエンジェルダストは嬉々として眼を細めるのだ。
 なまえは無力である。悪党が流布するこの地獄で、なまえは“捕食される側”なのだ。彼女がなにかを“起こす”ことができるのは、いつだって被害者となることでしか実現できない。純真無垢なその様相は、地獄では一方的に喰われるのみ。エンジェルダストはそれを痛感している。だからこそ、彼はひと並みの優しさに浸っていた。
 アラスターはそんなふたりの姿を無言で見つめている。再度彼の取り巻く空気が変わった。不穏な空気にエンジェルダストは一抹の不安を覚える。やはり、アレスターに助けを乞うべきなのだろうかという考えが脳裏を過る。しかし、貸しを作るのは気が引けた。その後どのようなことを要求されるのかを慮れば、危ない橋を渡るのは気が引けたのだ。
 エンジェルダストの背を撫でているなまえはアラスターのその変化に気がつくことができなかった。アラスターはひっそりと舌舐めずりをする。彼は今、己にどのような運命が課せられたのか、それを自覚できていないなまえをいたく恍惚に思っていた。

210808

- ナノ -