※多少の暴力・流血描写があります

 荒い呼吸音が閑静な住宅街に響く。不規則な足音はなまえが疲弊していることを意味していた。走ろうにも足が棒のようになっており、加えて酸欠状態では、正常な判断もままならない。しかしながら、“此処”にいるのは危険であると、それだけは理解できた。縺れる下肢を気力で奮い立たせ、なまえは必死に或るモノから逃げる。
 それは奇妙なまでに現実味のある体感だった。
 “奴”の存在は、なまえにとって恐怖の権化だった。彼───と表するのが正解であるかは彼女にとって判断できないが───の接近を示唆するのは、特徴的な“音”である。なまえはそれを指標に距離を取らんとしていた。
───聴こえた! なまえは固唾を飲みこむ。いくら走れども、彼はなまえに頓着し、どこまでも追いかけてくる気がしてならない。実際、彼はなまえが何処に身を隠しても、まるで彼女の姿が眼に見えているかのようにその場所を特定するのだ。なまえにとってそれは死刑宣告に外ならず、静かに涙をこぼすしかなかった。
 なまえは通りかかった建物のなかに入った。そこには外よりは潜伏する箇所が多く、彼から逃れることができるだろう、という思案があった。それは短絡的で、藁にも縋る思案だった。
 建物はどうやら廃病院らしい。眼下に広がる光景は酷い有様だった。窓は割れ、壁は崩れ、廊下には赤黒い染みが広がっている。なまえはそんな荒廃した様子に怯えながら、当てもないままにひたすらに足を動かす。
 院内は薄暗い。当然ながら電気が通っていないからだ。なまえは懐中電灯を探すことにした。階段を登り、朽ちた扉を開け、ナースステーションと思しきところを探る。すると、地面に散乱した書類の下にそれを見つけた。「あ、あった……!」なまえは心底歓喜し、安堵のあまり笑みがこぼれた。これを使用し、病院のなかで彼を撒き、この場所───サイレントヒルから、脱出する。その希望が見えたからに違いない。そしてそれが恐らく現状を打破する手立てとなっているはずだった。
 なまえがサイレントヒルを訪ねているのには、特筆すべき理由があったわけではない。これは単なる“悪い夢”に過ぎないのだ。少なくとも、なまえはそう考えていた。
 ここ最近、なまえは悪夢に悩まされているのである。そして毎回、彼に捕まる直前で覚醒する。毎晩眠るのが恐ろしかった。だが、起きていようにも、抗えないまでの睡魔が襲い掛かり、結局眠りに落ちてしまう。そんな夜を幾度も過ごしてきた。
 彼の姿を眼にしたことはない。いつもぼんやりと、霧に包まれているのだ。焦点が合わない奇妙な容貌。しかし、姿を目視してしまえば、それはなまえにとっての“最期”になってしまうだろう。そんな不安が脳裏を過っている。しかし、その“最期”が何を意味しているのかは、なまえにはわからない。なんとなく、という直観でそう感じているだけだった。
 だが毎夜、徐々にではあるが、彼の姿が鮮明になってきている気もしている。なまえはそれに恐怖していた。そして恐らく、今回が山場であると。そのように確信していた。これを乗り越えられれば、悪夢から解放されるはず!
 なまえは懐中電灯を点け、周囲を観察する。誰が見たって気味の悪さを抱く様相だ。明かりを灯したことによって恐怖心が一層湧いてくるが、立ち止まってもいられない。なまえは涙目になりつつ、腰が引けた状態で辺りを探索することにした。
 目的地があるわけではない。彼から逃れることが第一だった。
 闇雲に扉を開け、階段を登った分だけ降りる。そう考えていたのだが、存外扉は施錠されており、自由に歩き回れるという考えは払拭された。このままでは袋小路だ。それだけは避けねばならない。
 先行きに不安を覚えたなまえは、とぼとぼと廊下を歩いている。すると、唐突にサイレンが鳴り響いた。
 身の毛のよだつ音だった。
 なまえは両耳を手で覆い、思わずしゃがみ込んだ。鼓膜にねっとりと纏わりつくような、本能で危険であると察知できる音。間延びした低音は身体を心髄から震え上がらせる。まるで叫び声のようなサイレンは、病院の罅割れた壁に打ち当たり、恐ろしい反響を生み出した。
 実質数秒のものが、数分にも数十分にも感ぜられた。そして、だんだんと尻すぼみになってゆく音を確認したなまえは、そろそろと顔を上げ、周囲を見回す。
 そこで、またひとつ、恐ろしいモノを眼にした。
 先まで自身が立っていたはずの場所の様子が、一変しているのだ。ただ廃れていただけの院内が、錆に塗れた姿へと変貌してしまっている。リノリウムの床であったところは剥き出しのコンクリートと化し、壁であったところは鉄格子と化している。加えて、ノイズが混じったかのような音が絶えず大気を震わせていた。
 なまえは奥の様相を窺える鉄格子を覗いてみた───と同時に、死角から顔のない異形のモノが飛びかかってきた。「ひっ」勢いよく鉄柱に衝突した“それ”は、絶叫し、鉄格子の隙間からなまえに向けて手を伸ばしてきた。意表を突かれたのと恐怖から、なまえの手からは懐中電灯が落ち、明らかにニンゲンではない“それ”を明るく照らした。形貌から皮膚の質感から、なにもかもが見て取れる。眼はなく、口唇は上下を縫合されている。その糸と糸の合間を縫うようにして悲鳴が放たれている。なまえはそのままへたりと腰を落とすと、後退った。
 腰が抜けてしまった。生憎ながら立てそうにない。
 肉塊が鉄にぶち当たる音が、建物全体に響き渡るような感覚。わたし、なにもわるいこと、してないのに。なまえはそう思いながら、訳もわからぬままにひとり寂しく泣きじゃくった。
 ふと、カランという音が聴覚を刺激した。なまえはそれに硬直する。次いで、錆びついた機械のように顔を上げる。
 その音の発生源は懐中電灯にあった。何かにぶつかり転がったのだ。なまえは懐中電灯に焦点を合わせた眼を恐々上へと上げてゆく。
 見上げたその先に、ひとりの人影を捉える。だが、それはやはり異形の“モノ”だった。
 ぎこちのない緩慢な動作を見せる“それ” は───ナース服を身に着けていた───その手に鉄パイプを握っていた。びくびくと時たまに痙攣し、威嚇するように腕を振り回す姿に、なまえは引きつった声をこぼす。
 後退ろうにも、背中はとうに壁へと当たっていた。「たすけて」なまえの口からは消え入りそうな声が発せられる。喧噪な環境にいる割に、よく響いた声だった。
 なまえはぎゅっと目を閉じた。しかし、最早聞きなれたと言っても過言ではない音を耳にし、ハッと開眼する。それと同時に、眼前のナース服が崩れ落ちた。なまえは突然の展開に眼を白黒させた。
 地に倒れこんだ身体は、腹から一刀両断されていた。切り離された上体と下体は、未だ繋がっていた頃の神経系の余韻によって、不随意に筋肉運動が引き起こされている。
 むっと広がる匂いは、血液によるものに他ならない。地面に血だまりを形成するほどの出血量だった。嘔吐中枢が刺激され嘔気を催したなまえだったが、しかしそれが実現する前に、不意を打つ出来事が起こった。
 ナース服の女が倒れたその奥に、何かの姿を捉えたのだ。それは背の高い、筋骨隆々の、これまた異形の“頭”を持つモノだった。
 眼の前の男は、なまえが夢にまで見た彼に違いなかった。だが、それは薄ぼんやりとした姿のはずだった。それが、今やその姿かたちを視認することができている。
 果たしてそれが意味することとは?
 なまえは、今回の夢で総てから解放されるという確信を得ていた。彼───三角頭の彼に、捕まる直前で覚醒する。そんな日常を思い描いていたのだ。
 だが、それが現実となるには、何かが足りなかった。
 三角頭は座り込んでいるなまえを眼前に、顔をのぞき込むかのようにしてしゃがみ込んだ。なまえは身体を硬直させる。三角頭のはっきりとした明瞭な姿は、なまえにとっては恐怖の対象だった。
 三角頭が何をしようとしているのか。事態は予測がつかない。
 すると、三角頭が動いた。なまえはたったそれだけのことに、身体を大きく震わせる。彼は今や、なまえを牛耳っているのかも知れなかった。
 しかしながら、三角頭はなまえの側に転がっていた懐中電灯を拾っただけであった。なまえはそれに眼を丸くする。
───もしかすると、彼は案外常識的であり、恐怖するべきモノではないのかもしれない。そう思った。
 三角頭は懐中電灯をなまえに差し出す。なまえは笑顔を浮かべ、「あ、ありがとう」と受け取った。
 それが悪かった。三角頭は途端に不穏な兆しを見せたのだ。
 背後に伸びる影が揺らぐ。そしてそこから、闇を切り裂かんとばかりに無数の手が伸びる。影の手はなまえへと近づき、覆いつくそうとした。
 影が重なる。なまえは動きを止めた。
 三角頭がなまえの頬に触れる。そして顎を持ち上げれば、赤い頭から這いずり出てきた滑る“舌”が、なまえの白く滑らかな頬の曲線をなぞる。なまえは心底震え上がった。逃げろ! 逃げろ! 逃げろ!
 だが、引けた腰に力が蘇ることはなかった。これは、恐らく、きっと───。

210516
夢なんかじゃない


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