「また怒られたんだ」

 踊り場で行き違った少年ににやりと口角を上げた少女は、愉しそうにそう言葉を投下した。その言葉を投げられた少年は、やれやれといった風に肩を竦めると、感情の読めぬ視線を彼女に突き刺した。彼女はそれが不満だったのか、眉根を寄せ鼻を鳴らす。
 少年は厭らしい面持ちを湛えている少女のことを煙たがるように手を払った。「お前には関係ないだろ」すると、少女───ダイアナは、とんでもないと首を左右に振る。

「関係なくないでしょ。こんなに面白いのにさ」

 ダイアナは酷くご機嫌のようだった。誰しもがそう感受するだろう。くつくつと喉を鳴らすその様相は、少年当人に至っては憤懣に行き着く言動に違いない。彼は溜め息を吐いた。
 少年は自室へ戻ろうと踵を返すが、ダイアナはそれを許さぬと彼の前に立ち回り、行手を阻む。彼は思わず顔を歪めた。そして表情筋が動くと同時に、殴られ腫脹した頬と切創の生じた額に痛みが走る。元より貼付されていたガーゼの下からは、傷口が開いたのかじんわりと血が滲んでいる。それを見かねたダイアナは、さらに口角を吊り上げ、声を上げて笑った。

「なまえって本当面白い」

 少年───なまえは、けらけらと笑うダイアナに再度深い溜め息を吐いた。
 此処、ローズガーデン孤児院は、ホフマンという名の老人が経営している施設である。彼は表向きでは孤児らを愛情を以って養育しているという体を貫いている。実情は、経営者たる権威を乱暴に振りかざし、虐待が日常化しているのだが、非力な孤児らでは外部へその事実を伝える術がなかった。
 孤児院には、なまえと同年齢のクララという十六歳の少女がいる。彼女がホフマンに穢されている、という事柄を、なまえは知っていた。
 なまえはホフマンから快く思われていない。かと言って、彼は反抗的な態度を取っているわけではなかった。ホフマンは、ただただなまえのことを毛嫌いしていたから暴力を振るっていた。ホフマンはしばしばこう言う───なまえの眼が気に喰わない、と。
 ホフマンは、一応は己の仕出かしていることが道徳に反することを理解していた。だからこそ、それを見透かしているような眼を携えているなまえのことが憎かったのだ。それは恐怖にも近しい感情だった。なまえは無心で殴られ続けている日々を過ごしている。けれど、そこに憎悪はなかった。なまえは今自身が置かれている状況がどうでもよかった。
 毎日生傷の絶えないなまえは、クララに治療をしてもらっていた。ホフマンと一線を超えている彼女に。なまえはそれを複雑な心境で受け入れている。彼女は治療する度に、ホフマンの長所───それはクララにとってのだが───を並べ立てる。なまえはそれを聞き流しているのが常だった。

「ちょっと! どこ行く気?」

 なまえがダイアナの横を通り抜けようとすると、彼女はずいと前に出る。

「部屋に戻る。わかるだろ」

 呆れた様子でそう言ったなまえに、ダイアナは眉を顰める。そして「……またクララのところ行くんだ?」と口にした。

「なんでここでクララが出てくるんだよ」
「は? 恍けんな。クララが毎回毎回なまえの傷を手当てしてることくらい知ってんだ」
「……」

 なまえは押し黙った。ダイアナの言い分に理解が及ぶのに時間を要したのだ。彼は現状を整理しようと思考を巡らす。彼女は一体なにを主張したいというのか?
 ダイアナの口調から推測するに、彼女はなまえがクララに治療してもらっていることを把握しているようである。だが、そこにはどういうわけか負の感情があるらしい。ダイアナは苛立った表情を浮かべ舌打ちをする。彼はそんな彼女の真意が解らず沈黙を貫くしかない。
 ふと、彼らの背後から人影が近づいてきた。なまえは肩を叩かれ、その方向を振り返る。すると、視線の先にはエレノアとメグがいた。

「なまえ、また叩かれたの?」

 メグが眼鏡のブリッジを中指で押し上げながらそう言う。正確には、なまえは“叩かれて”いるのではない。が、彼はそれを訂正する気すら起こらなかった。
 次いで、エレノアが口を開いた。「はやく手当てしてもらった方がいいんじゃない?」彼女はそう言うと、静かになまえの眼を見つめる。

「別にその必要はないよ」
「どうして?」
「放っておいても治るからね」
「手当てしてもらった方がもっとはやく治ると思うけど」
「私もそう思う」
「……」
「なまえ、いっつもクララに手当てしてもらってんだよね」

「実は毎回泣きついてたりして?」エレノアとメグが興味深くなまえに話しかける反面、ダイアナは彼をあくまで愉しそうに、けれど鋭利な眼で睨めつけながら言う。それを見かねたなまえは、とうとう口を開いた。

「なあダイアナ、お前さっきからなにを言いたいんだよ」

 ダイアナはそう問われた途端、突然黙り込んだ。その差異になまえは眼を見張り、そしてエレノアとメグも顔を見合わせた。そこには明確な、ある種名状し難い情が生じていたに違いなかった。
 ダイアナはなかなか口を開かない。ただ、そんな彼女に好意を抱いていたメグの脳内には、と或る可能性が浮上していた。それはメグにとって、快い可能性のはずはなかった。
 しかし、そんなメグでさえも、その展開を享受できそうな心持ちであることに、眼を丸くしていた。“なまえならば致し方ない”と、そう思わせられるのだ。メグ自身、彼を嫌忌していないのも大きいだろう。
 ぴたりと硬直しているダイアナはさておいて、なまえは静かに口にする。

「……一応言っておくと、僕はクララに頼み込んで手当てしてもらっているわけじゃない。これは単なるあいつの厚意によるものだからね」

 なまえがそう話すと、ダイアナはふんと鼻を鳴らした。そして「……そんなこと訊いてないっての。……メグ、エレノア、行くよ」と言い、三人はなまえの前から姿を消した。そんな光景に、やはり彼は判然としない面持ちになるのだった。
 三人がいなくなり、なまえが部屋に戻ろうと踵を返せば、今度はその道中にアマンダと遭遇した。彼女は頬を腫らしガーゼに血を滲ませた彼を見て鼻息を荒くし詰め寄る。

「なまえ、なまえ、あなた、またホフマン先生を怒らせたのね!」
「……」
「ぐふふっ。私ね、新しくハンカチを縫おうと思ってるんだけど、出来たらなまえにあげるわね!」
「いや、いらないよ」
「どうして? 私、普通に会話してくれるなまえに感謝してるんだから。いつものお礼と思ってもらってちょうだい?」
「いや、だからいらないって。折角縫ってもらってもすぐ汚れるから」
「……そう? じゃあ、代わりにジェニファーにあげようかしら……」

 アマンダは頑なに首を縦に振らないなまえに肩を落とすものの、すぐに表情を変えるとにたにたと笑い出した。
 実のところ、なまえはアマンダのことは眼中になく、お手製のハンカチを貰うくらいはどうということはないのだが、アマンダは大層“臭う”ので、受け取るのには気が引けた、という事実がある。それを知っているのは彼自身のみくらいかも知れない。どすどすと大きな足音を立てて去っていくアマンダの姿を振り返り見送ると、なまえは自室へ向かった。
 部屋へ到着し扉を開けると、既にベッドにはクララが腰掛けていた。彼女はなまえが負傷することを機敏に察知するのだ。ホフマンに熱心なだけ、当然と言えば当然だった。「おかえり。さあ、手当てしましょう」その言葉になまえは大人しくクララの隣に腰を下ろす。彼にはその提案を拒否する権利があった。だが、やはり彼はなにかを諦めるかのようにして従うのだ。

「痛そうね」
「……」
「ねえなまえ、ホフマン先生も、好きでこういうことをしているわけではないのよ」

 クララは言う───“ホフマンはなまえのことを想っているからこそ、仕方なしに処している”のだと。そこに否定的な感情は存在しない。ホフマンはあくまでなまえのことを大事に想っているのだと、クララは耳に胼胝ができるほど言い続けている。それには彼もうんざりしていた。
 慣れた手つきで血を拭い、薬を塗布するとガーゼを当ててテープを貼付する。クララはものの数分でなまえの傷を手当てし終えた。

「はい、終わったわ」
「……クララはなんで僕に構うんだよ」

 なまえがそう問うと、クララは首を傾げて言う。「だって、こうでもしないと、なまえはいつまで経っても傷を放置するでしょう? そうすると感染症を起こす可能性があるのよ」彼は項垂れた。ホフマンにご執心なクララにとって、やはり一番は彼、ホフマンなのだ。彼女はホフマンに迷惑がかかることを危惧していた。
「……もういいから、行けよ」絞り出すようにそう言うなまえに、クララは柔かに頷くと、退室した。
 本当の倖せなどなまえにとっては縁遠い毎日。そんな日々を変わらず過ごしていくはずだった。少なくとも、将来的を見据えぬ彼はそう思っていたのだ。




 深々と雪が降る十二月一日。ローズガーデン孤児院に衝撃が走った。なんの予兆もなく施設長であるホフマンが姿を消したのだ。そして、まるで後を追うかのように、クララも忽然と姿を消した。それは皆にとって想像以上の、大きな影響を与えた。
 なまえは手を上げられることのなくなった日常に、少なからず驚愕した。ただ、それは有り難みのある話なのだが、その点鈍い彼は困惑したのも事実だった。
 さらに災難は続く。孤児院の清掃や調理を担当していたマーサまでもが失踪したのだ。これには皆動揺を隠せなかった。衣食住を約束された毎日が突如として終了したのだ。動揺しない訳がなかった。
 清掃は協力すれば対応はできるが、問題は調理に関してだった。皆は独自に買い出しに出かけ、そして試行錯誤で実践をする。そうするうちに、少しずつではあるが、より良い方面へと向かっているのは確かであった。

「ジェニファー」

 なまえがホールでぼんやりと窓の外を眺めていると、俯きながら歩いているジェニファーを見かけた。声をかけたのは無意識だった。名を呼ばれた彼女はハッと彼の方に視線をやる。するとジェニファーはなまえの元へ駆け寄ると泣き出した。その様相に彼は人知れず焦った。

「っわ、私、なにも悪くないのに、それなのに、ブラウンが……!」

 ブラウンとはジェニファーの可愛がっているラブラドール・レトリバーである。彼女は最近になって、ブラウンに愛情を注いでいた。そしてそれを良く思わない人物もいた。
 話を聞くに、どうやら薔薇の掟という皆の間で契約された、貴族と貧民を模した遊び───しかしそれはいじめと直結する───において、ブラウンが犠牲になってしまったらしい。ジェニファーはそれに涙を流していた。
 なまえはなんと声をかけたらいいのか解らず、思わず沈黙する。その間も、ジェニファーはしゃくり上げるようにして泣いている。
 そんななまえを見ていたジェニファーは、徐々に落ち着きを戻してゆく。そして泣き腫らした赤い眼で、彼のことを真正面に見つめる。

「なまえは、参加してないよね」
「ん? ああ、貴族ごっこのこと? そうだね」
「いいなあ……私も、本当はこんなことやめたいの」
「まあ、馬鹿馬鹿しいのは確かだよな」
「……私ね、ウェンディーのこと、嫌いになっちゃいそう」

 ジェニファーは悲痛の声を上げる。
 彼女はウェンディーに、グレゴリーから救ってもらった身だった。その時に、ふたりはと或る約束事を交わしたのだ。今後も永遠と共にある、ということを。
 だが、ウェンディーはブラウンを拾ってきたジェニファーに良い顔をしなかった。謂わば嫉妬を感じていたのだ。
 その結果、鬱積した感情が暴発し、貢物として“ジェニファーの大切な物”が捧げられた。彼女はそれに悲哀し、憤っていた。

「抵抗すればいいじゃないか」
「でも、私じゃ……」
「ブラウンを殺されて怒ってるんだろ? なんで戸惑ってるんだよ。それは十分な動機になり得ると思うけど」
「……」

 ジェニファーは思考を巡らせている。追い討ちをかけるようにしてなまえは言う。

「いずれにせよ、お前は変わるべきなんじゃない」
「なまえは、私の味方でいてくれる?」
「さっきも言ったけど、この遊びが馬鹿馬鹿しいのは明確だし、どちらかと言うとお前を支持する側に立ってはいるかもしれないな」
「……、そっかあ。そうだよね。なまえ、ありがとう」

 なまえのその発言にジェニファーは背を押されたのか、段々顔色を明るくしてゆく。それを眼にしたなまえは、どこかじんわりと心が温かくなっていることに気がついた。思わず表情筋が柔らかくなる。ジェニファーはそんな彼に嬉しそうに破顔し、力強く頷いた。
「私、ウェンディーに会ってくる」その双眸には、決意した色が表れている。なまえは頷いた。

「それにね、私、ウェンディーにもうひとつ言っておかなきゃいけないことがあるの」

 そのことについても問いただしてくる。ジェニファーはそう言った。「言っておかなきゃいけないこと?」なまえが疑問を口にすると、彼女は首を振り、「ノライヌのこと」と言った。

「ウェンディーったら、いつも私たちを怖がらせるの。だから、これ以上変なことは言わないでって」
「……」

 ジェニファーは真っ直ぐな瞳を携えて言う。それに反してなまえは無言になった。
 ノライヌとは、ウェンディーが皆を脅かそうという魂胆で吹聴される話の登場人物だ。それは架空の話のように思われるものだった。だが、その話があるからこそ、ウェンディーは貴族の頂点に君臨していた。
 なまえはなにも言わない。感情の読み取れない表情を浮かべ、ジェニファーのことを見つめる。

「お前はマーサがここから居なくなったことについて、なにか考えたことはある?」
「マーサが?……なにかあったの?」

 静かに言葉を紡ぐなまえに、ジェニファーは小首を傾げた。
「マーサは怖くなったんだ」そう口にする名前は、途端にどこか愉しそうに口を開く。

「彼女は世にも恐ろしいものを見てしまったのかもしれない」
 
 ジェニファーはそう言うなまえの真意が読めずに困惑する。彼は続ける。

「ウェンディーの言うことも、あながち嘘であるとは断言できないってことだよ」
「だったら、ノライヌは本当にいるの?」
「信じる信じないはヒトによるだろうね」
「……なまえは信じているの?」

 ジェニファーのその発言に、なまえはなにを考えているのか解らない面持ちで眼の前の少女を見つめる。
 なまえは孤児院の“外”について、情報を多々仕入れていた。此処に配達される新聞、そして外界の有り様。彼は世の中の情勢を把握していた。
 なまえはウェンディーが事あるごとに外出するのを目撃していた。外出先で、彼女が実行していることさえも。彼はウェンディーの言動について、興味を持っていたのだ。
 ウェンディーの言うことは、皆には信じられていないのが現実だった。だが、彼女の言動を承知していたなまえにとっては、それは“虚構”であるとは捉えられていないのも確かだった。
 なまえはじっと見つめてくるジェニファーから視線を逸らし、再び窓の外に眼をやる。すると背の高い草の奥に、まるで孤児院を観察するかのようにひとりの男が佇んでいるのを目視した。彼の正体を知っているのは三人いる。なまえがその内に含まれているのは言うまでもない。

「そう言えば、お前の里親になってくれるヒトが見つかったんだってね」

 ふと、なまえは新しい話題を提供した。ジェニファーは今日、孤児院を去るのだ。「去る前に───最後に復讐するとか、清々しそうだよな」そうは言うものの、やはり顔色から窺える情報量はほとんどないに等しい。

「そうなの! でも、私、本当はなまえと離れたくないの」
「なんでだよ」
「だって、こんな私と普通に話してくれるの、なまえしかいないから。私ね、本当に嬉しいし、救われてたんだよ」
「……そういえば、アマンダにも同じようなこと言われたな」

 貴族ごっこに付き合う筋合いはないだけなんだけどな。ぽつりとそうに言うなまえに、ジェニファーは朗らかに笑った。

「でもね、私、アマンダは嫌いよ。大嫌い。だってあの娘、いざとなったら嬉しそうにネズミを顔にくっつけてくるんだもの」
「へえ。それは災難だったね」
「アマンダだけじゃない。ダイアナもメグも、エレノアも、オリビアも───」
「つまるところ皆か」
「そういうことになりそう」

 くすくすと笑いながらジェニファーは口を開く。「なまえもこんなにも素敵だから、きっと素敵な里親に出会えると思うよ」ジェニファーは綺麗に一笑した。

「外に行っても、一緒に遊べたらいいなあ」
「……ジェニファー」
「ふふ、また名前呼んでくれた。私ね、なまえに名前を呼んでもらえるの、すきなの」
「外に行ってもどうか元気で」
「うん! なまえもね」

「それじゃあ、私、がつんと言ってくるね」そう言い走り出す彼女からの背中を見送ると、なまえは喉を鳴らしながら言ったのだ。

「……近いうちにノライヌはやって来るよ。絶対にね」

210402

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