気がついたら真っ暗闇のなかにいた。
 耳鳴りがひどい。聴覚はまるで悲鳴のような甲高い音に支配されている。加えて頭も痛かった。なまえは現状わけがわからず、それでいてなぜ自身がこのような場所にいたのか、首を傾げた。
 思い返してみると、ビルとビルの間───剪定された垣根を超えて、背の高い草むらをかき分けた記憶がある。自身のことであるのに曖昧なそれに、またも疑問が脳内を占める。どういうわけか理解が追いつかなかったが、恐らくはなにかに導かれるように、それが真理であるかのように、足を踏み入れたのだろう。そう結論づけなければ正気を保てなかった。
 遠くで太鼓が叩かれているかのような音が聴こえた。それは大気を波打たせ、地を這いなまえの身体を振動させる。彼女はざわざわと落ち着かない心持ちで、きゅっと唇を噛み締めた。
 気がつけば、青白い炎が点々と立ち並び、その周囲は心許なくて照らされている。ゆらゆらと揺れる炎。元々頼りない灯だったが、消えてしまえばそれこそ黒尽くしになってしまう。なまえは今すぐこの場から離れたく、自然と足早になっていた。
 やがて、がやがやとした喧騒、ぞろぞろとした足音が聴こえてきた。なまえはそれに肩を跳ね上げると、その音がどこから発せられているのか、辺りを見回した。
 追求するのに時間はかからなかった。それは一寸先にいたからだ。
 複数の足音がした通りに、その塊は集団であった。人数まではわからないが、とにかく数は多かった。赤い顔をして鼻が長い男、頭に皿がある小さな緑色の生き物、狐色の尾を持つ二足歩行のモノなど、列挙すれば切りがない。
 眼前の景色が信じられないなまえは、ついその集団を凝視していた。それらは彼女の意思に関係なく徐々に近づいてくる。
 やがて、なまえは集団に囲まれた。

「さあ、さあ、今宵は祭りだ」
「ふうむ、なんとも奇怪なモノがおる」
「この匂いは久方ぶりに嗅いだわ」

 口々にそう言われ、なまえは硬直した。囲うけったいな“モノ”は歩みをとめることなく無遠慮に突き進むので、彼女はそれに流されるように波に呑まれた。
 なまえは焦る。明らかに人間ではない彼らに混じり向かう先は、決して心地の良い場所ではないことは直感で理解していた。
 すると、おもむろに腕を掴まれた。それは体温を感じない冷たいもので、まさかこれらに喰われてしまうのではないか、あるいはどこかに連れて行かれるのではないかと、気が気でなかった。
 だが、それは杞憂で済んだ。

「───呑まれると惑わされるぞ」

 りんとした声だった。真っ直ぐで、実直で、声色から真面目であると感ぜさせる声。
 引っ張られ“波”から逃れたなまえは、ハッとして目前に現れた人物を見上げた。
 スモーキーグリーンの服───学生服を彷彿とさせる───に身を包んだ、若い男性だった。服と同色の、これまた学生帽のようなものを目深に被り、影に息を潜める双眼は、目の覚めるような青色をしている。
 なまえは漠然と、眼前の男に恐怖を抱いた。なぜかはわからない。本能がそう叫ぶのだ。だが、彼女は助けてもらった恩があるので、そんなことは思っていられないと頭を振る。そして男を見上げる。

「あの、助けてくださってありがとうございます」
「……構わない」

 なまえがはにかみながら感謝を述べると、男は感情の読めぬ声音でそう返した。
 おもむろに、男は踵を返し歩き始める。なまえはここがどこなのか、どうしたら帰れるのか、数多の疑問があったので、思わず慌てて彼について行く。
 「あ、あの!ここってどこなんですか?」歩幅が異なるため、差が開かないように足早になる。すると男は「行けば分かるだろう」とだけ返事をし、あとは沈黙を守った。
 やがて、先の青白い炎が並ぶところへと開けた。一定間隔で燭台に灯された弱々しい光は、眼下に広がる光景を怪しげに照らしている。
 そこはまるで市場だった。
 見たことのないもので溢れかえっているそこは、なまえの知的好奇心を擽る。ただ、或る店頭に並ぶのが明らかに“人間”であったのを目にしたときはぎくりとした。彼らはみな死んだように暗い目をして、ぴくりとも動かない。だが、作り物であると言うにはあまりにも精巧すぎた。
 その店の前を通る際、「やあ、娘さん、今なら安くするよ」と初老の男性の声がかけられ、思わず足を止める。

「興味がおありで?」

 その男は人間を売っているとは思えないほど、一見して紳士的な容貌をしていた。皺ひとつないワイシャツに、チャコールグレーのベストとスラックスを身につけている。人間見た目が一番ではないと、そう思わせられる人物だった。

「これは人間、ですよね?」
「ああ、もちろん」
「全然動きませんが、もしかして、」
「まさか!そんなわけないだろう。時間凍結してるだけさ」

 「よくある方法でね。時間凍結っていうのは、その人物の体内での時間を止めるってことだ。内臓の働きを止めれば必然とその人物の時間も止まるからね。ちなみにその方法は───」鼻の下のひげを指で撫でながら男は言う。なまえはなんてことない様相で“よくあること”だと言われ目眩がした。
 さっさとこの場を去った方がいいと思い、なまえは制服の男に「ここから離れたいです……」と言えば、男は頷き次の店へと連れて行く。
 そこで目に入ったのは、なにも並んでいない店だ。なまえは首を傾げた。すべて売れてしまったのだろうかと考えたところで、女───のように窺える───店主が口を開く。「売れてなんかいないよ。今日の客は財布の紐が硬いねえ」女はぶくぶくと太った指でなまえを差す。「お嬢さん、よかったら買っていかないかい?」自身と目に見えない商品を交互に指差され、なまえは再度疑問を膨らませた。

「でも、あの、なにも見えないのですが」
「そりゃあそうだろう。売っているのは“概念”だからさ」
「概念……?」

 女は言う。概念とは「まさしく“そう”であったと作用してくれるものである」と。購入した概念が客に溶け込み、その概念通りの“モノ”となる、と。「今日ここにあるのは、“数学が得意になる”、“書道で入賞する”、“警察にバレないように人を殺すことができる”、それから───」明らかにただことではない概念が口にされ、なまえはゾッとした。そんなものを買う客がいるわけないと思うが、しかし実際迷宮入りしている殺人事件もあるので、強ち嘘ではないと、そう思わされるからだった。
 なまえは「も、もういいです、大丈夫です」と言うと、隣に立っている男の制服を掴んだ。青い目と視線が絡む。「……行くか」そう訊ねられ、ぶんぶんと頭を縦に振る。
 ふたりは店を離れると、フと現れた椅子に腰掛けた。店はずらりと並び、端は見えない。なまえは縋りつくように質問する。

「あの、ここって、どこなんでしょうか?」
「……」
「わたしの住んでるところとは、なにか違うような……」
「当然だ」

 男は静かに「ここは“境界線”だからな」と口を開いた。
 境界線とは一体どこなのか、訊ねようとしたが、それよりも先に男が続ける。

「世界は等価交換で成立している。それはお前も例外ではない」
「……?」
「行くぞ。休んでいる時間はない」

 男は有無を言わさずなまえを立ち上がらせると、再び足を動かし始めた。手を繋がれたなまえは慌てて後ろについて行く。
 等価交換とはどういうことなのだろうか。なまえはひとり考え始める。なにかを購入するにおいても、物品と金銭を交換しているし、なにかに打ち込むにしても、時間を交換している。つまるところ、そういうことなのだろうか。
 確かめるように男に口を開きかけるが、足が止まりそれは不可能に終わる。
 次の店は、きらきらした石を売っている店だった。「いらっしゃい」しゃがれた声でそう言われる。
 すると、店主は胡乱な眼をパチクリとさせた。男がここにいることを不思議に思っている様相だった。

「おや、これは斬島さま」
「……」
「隣にいるお嬢ちゃんはお知り合いで?」

 斬島と呼ばれた男は頷いた。「……きりしまさん?」なまえがそう口にすると、斬島はちらりと彼女に視線を寄こした。視線が交差する。
 「まあ、いいでしょう。さあ、お嬢ちゃん、なにが欲しい?」店主は愉快そうに口を三日月に形作り、そう言う。なにが欲しいかと訊ねられたが、なまえはそれどころではなかった。

「斬島、さん」
「……」
「わたし、もしかして───」
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん、まずは品を見定めてくれないか」
「!は、はい」

 どこかうんざりした様子を垣間見せる店主がそう言うと、なまえは機嫌を損ねてしまったのではと思い、自然と商品に意識が向いた。
 きらきらした石は、まるで宝石のようだった。丁寧に磨き上げられ、青白い炎が怪しげに反射し、美しい光を放っている。
 「すごい、きれい」思わず、感想が口をついて出た。その嘘偽りのない言葉に、店主は満足気に笑う。
 「どれも値打ちものさ」おもむろに、店主は懐からキセルを取り出した。そしてパチンと指を鳴らして火をつけると、紫色の煙が漂う。それは甘ったるい香りだった。

「あ、これ」

 なまえはひとつひとつじっくりと観察していく。その内に、鮮やかなグリーン色の石に興味が湧いた。直径三センチほどの大きさだ。
 「どれ、手に取って見てみるかい」店主はひょいとその石を手に取ると、なまえの両手の上に乗せた。「わあ……」なまえはその眩い輝きに目を見張る。

「見る目があるね。これは五百年前に賽の河原で掘り出されたものさ。おまけに色も珍しい。きっとじっくり地の下で熱され変性していったんだろう」

 「眼力がないやつばかりで売れ残ってるんだ」やれやれと溜め息を吐きながら店主は言う。なまえはその石から目が離せなかった。
 店主が口を開く。「買うかい?」なまえはぐっと言葉を飲み込んだ。

「でも、わたし、お金を持っていなくて」
「支払い方法はひとつじゃあない」
「……?」
「要は等価交換なんだ。この石と同程度の価値があるものを渡してくれりゃあいい」
「同程度……」
「そうだねえ、お嬢ちゃんの“所以”はどうだい?」

 なまえは呟いた。「わたしの、ゆえん?」その真意が読めず、きょとんと首を傾げる。
 「その通り。嬢ちゃんが嬢ちゃんたる所以を、だ」店主が言っていることがいまいち腑に落ちないなまえは、疑問符を浮かべる。
 「具体的に、どういう……?」頭の中で店主の言葉を反芻しながら訊ねる。

「なあに、簡単なことだ。お嬢ちゃんの倖せを保証する、ってことさ」
「わたしの、しあわせ」

 ぽつぽつと単語を紡ぐなまえを後押しするように店主は畳みかける。「みなが望むものへと成れるんだよ」なまえはその言葉に頷いた。

「そうなんですね。そしたら、わたしのゆえんと交換してください」
「ひひ、僥倖、僥倖。毎度あり」

 店主はそう言うと、石をなまえに手渡す。彼女はいい買い物をしたと錯覚した。
 だが、なまえは緑石を受け取る際───両掌に乗せられた刹那───脳天になにかが突き刺さる感覚に見舞われた。まるで核が打ち砕かれるような、神髄が揺らぐような、そんな感覚だった。
 なまえはその不思議な感覚に、目を瞬かせる。そしてフと、現在の時間に気が向いた。
 なまえがこの不可思議なところへやってきたのは、夕刻だった。体感で三時間は経過している気がした。あまりに帰りが遅いと家族が心配する。彼女はその旨を斬島に伝えると、彼は静かに頷いた。

「……帰るのか」
「はい。案内してくださってありがとうございました」
「入口に行くだけ行ってみるのもいいかもしれないな」
「?……どういうことですか?」
「……行けばわかる」

 斬島は、どうにも先ほどから答えを濁すなあとなまえは思う。自身の目で確認しろ、ということなのだろう。まるで絶望の淵に追いつめ、逃げ場はないと自覚させるかのように。
 そしてそれは一概に誤りとは言えなかったのである。
 なまえは斬島について行き、やがて目的地に到着した。背の高い植物の奥には、自身の元々いた世界が見える。案の定日は暮れかかり、電灯がついている。
 ほかにも現世───迷い込んだ人間の元いた世界ということだが───に通じる道はあちこちに確認できた。恐らく、この名状し難い場所は、時折人間が迷い込むことがあるのだろうと、そう思ったのだ。
 さて、なまえは自身の通ってきた道の前に来たわけだが、なぜか冷や汗が流れる。背に伝う汗は、決して気持ちのいいものではない。「き、斬島さん」速まる鼓動、震える歯の根。なまえは斬島を見上げ名を呼んだ。

「どうした」

 斬島は、あくまで冷静に対応する。取り乱す様子も見せず、淡々と返答をするのだ。なまえは彼のその振る舞いに、無性に泣きたくなった。
 「帰らないのか」斬島は追い打ちをかける。なまえは彼のその科白を聞き、思い切って入口へと近づき、そっと手を伸ばした。すると、見えない壁が間に挟まれているではないか!硬く厚いその壁を、ゆっくりと指でなぞる。
 目の前には自身のいた世界が見える。それなのに、壁があるおかげで先に進めないのだ。
 「どうして」なまえは眼にじわりと涙の膜を張る。

「───“所以”とは、人間そのものの“本質”のことを指す」

 おもむろに、斬島がそう切り出す。なまえは振り返り、彼を見つめる。

 ───もう少しで幽世に引きずり込まれるところだった。

 なまえは既視感を覚えた。自分はこの男のことを知っている?
 しかし、記憶は曖昧だった。まるで夢を見ていたかのような、そんな気がするのだ。斬島の姿が二重に重なる。
 
「そして“本質”とは、なまえという人間“そのもの”であるということだ」

 なぜ、彼は自身の名を知っている?当然だが自己紹介などしていない。
 なまえはぶわりと肌を粟立たせる。

「……なまえは見ていて眩しい。俺の持っていないものをお前は持っている。それは目が離せないもので、気づいたら喉から手が出るほど欲していたものだ」

 斬島は目を細めてそう言うと、ゆるやかに口端を上げる。それはゾッとする笑みだった。

「なまえは知らないだろう。俺がずっとお前のことを見ていたことを」

 「俺のことを覚えていないのは当然だ。幽世と関わった者はすべて当該の記憶が消されるからな」近郊を保つためにはそうするほかないんだ。斬島は諭すように、それこそ現状をなまえに優しく言い聞かせるように口を開く。

「所以を等価交換で差し出した時点で、なまえは現世には帰れない」

 なまえは抑え難く涙を流した。「どうして、止めてくれなかったんですか」しゃくり上げながらそう言うと、斬島はそっと彼女の頬を撫ぜる。

「言っただろう。俺はなまえが欲しかった」

 なまえはきっと斬島を睨めつける。「わたし、帰ります」この期に及んでまだ足掻こうとする彼女の様相に、斬島は再び口許を歪ませる。

「どうやって帰る?」
「探します。帰る方法を」
「方法などない。なまえは死んだも同然だ」
「……」
「諦めろ。問題ない。地獄は歳を取らないから一生涯共にいられる」

 なまえの絶望した顔を見て、斬島はやはり含み笑いをしてみせたのだ。

  ───もしかして、以前に助けてもらったこと、ありませんか?

200210


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