※バッターとジャッジが悲惨な目に遭います


「いよーう親愛なるなまえ!」

 軽快なステップを踏みながら目の前に立ち塞がると、なまえはギョッと目を見開いて硬直した。それをいいことに、日焼けを知らない───という言葉には語弊があるな、訂正しよう。そもそも日焼けという概念すら存在しえないこの世界でも一際目立つ白い肌の頬を、両手で挟み込んだ。癖になる絶妙な柔肌、素晴らしい。
 なまえはどこもかしこも中毒性を持ち合わせた身体をしている。哀れにも、オレもそれに魅了された者の一人であった。まるで魔性、しかし抵抗する気も起きない。0と1で構成された世界とは根源的に異なる性質のなまえは、どうやらオレたちと相性がいいらしい。
 もにもにと弾力を持ち合わせながらすべすべの表皮に掌を滑らす。「ざ、ざっかりぃひゃん」両側の頬肉を圧迫され話しにくいだろうに、口を開こうとするなまえ。我慢ならずに笑い声を上げれば、顔を真っ赤にして腕を振り回し始めた。おお、危ねえ危ねえ。NPCにヒットポイントは与えられるわけがなく、腕が直撃したところで何ら問題はないが、痛覚は感じるので大人しく手を頬から離し降参のポーズをとっておいた。まあなまえのことだから、どうせ攻撃がヒットしたところでペチンという擬音がひとつ、大気中に押し出されるだけだろうが。
 今この場に、浄化者はいない。神聖な任務を果たすために、安全性を考慮した結果なまえをオレのところへ置いていった。
 今回のバッターはそういう節がある。オレの側になまえがいても、怒り狂うことはない。けどその方が何かと好都合だ。

「バッターさん、大丈夫でしょうか……」

 なまえは常にバッターの身を案じている。吐き出された言の葉はいつものことだった。彼女はどうしようもないくらい優しい。それはいずれ付け込まれる要因となり得るものだった。寧ろそれを望んでいたり……なんてな。
 「あいつならきっと大丈夫さ」それは根拠のある言葉だった。なまえは何周目かわからないほどこのゲームをやり込んでいた。この世界へ堕ちてしまうのは毎度のことだが、元の世界へ戻れるのも毎度のことだった。だからあのときの───いわゆる“虚ろ”での世界線では、元の世界へ帰れなかったのは、異例中の異例だった。なぜそのことを知っているかって?パラレルワールドの原理を掌握しているからだよ。すごいだろ?オレだからこそ成せる技なのさ。
 なまえは不安気な面持ちでオレを見つめてくる。ああ、かわいらしい。優しい手つきで頭を撫でれば、されるがままに身体を預けてきた。逃げないなまえにオレはひっそりと安堵していた。

「なまえはさ、もっかい帰りたいって思う?」
「?もう一回……?」
「……いや、こっちの話さ」

 実のところ、オレはなまえを元の世界へ帰したくなかった。そんなのと或る世界線のバッターと変わんないって?ああ、もちろん承知の上さ。だが、今回は違う。今まで見たことのない結果が待ち受けているからな。
 心配そうにバッターがいる方向を見つめているなまえを尻目に、オレは横しまなことを考えている。
 なまえはこの世界へ堕ちてしまうことを覚えていない。この世には並行世界というものがある。つまるところ、今回この世界へやってきた彼女は、彼女自身にとっては初めてということになるわけだ。なぜこうまでもこの現象を理解しているかというと、オレのなかでその記憶は統合され、余すことなく理解の範疇に及ぶからさ。
 例えば或る世界のなまえ。最後の審判でジャッジを選び、バッターの逆鱗に触れたこと。その後あえなく犯されてしまったあの“虚ろ”の世界。あのときのなまえは大層哀れだったなア。まあのちのち、オレにとっても至福な時間が訪れたわけだけど。バッターに手を出されたのは気に喰わなかったが。
 バッターがなまえに手を出すのが憎らしい。その気持ちは今も変わらない。
 記憶を引き継げないのはバッターも然り。ただ、奴の性格は多種多様だった。今回のようにひたすらになまえの身を案ずるもの、元の世界へ戻れるように協力的なもの、狂気じみた愛欲を抱くもの、とかな。此度は最初のバッターであるわけだ。そしてそういう奴はオレを敵対視することはない。つまり面倒ごとが少なくなって済むってこと。
 しかし、なまえはこの世界へ堕ちてきたのを、完全に忘却してしまっている、というわけでもなかった。なんとなくだが既視感を得ることがあるらしい。それは今までの会話のなかでも感ぜられる。オレはそのことに関して言及することはなかった。思い出されたら不都合なことがあるからかもしれない。なまえにとって衝撃だったのは、“虚ろ”というタイトルでバッターとオレにその身体を暴かれるものだ。思い出すとしたら、それが一番始めになるだろうと予測がつく。それくらいなまえににとってはショックなことだったはずだから。

「なあ、なまえ」
「?」
「あんたはかわいいよな」
「えっ!?」

 「ど、どうしたんですか?いきなり」驚愕と恥じらいが混じる顔持ちで問われる。ああくそ、どうしようもなくかわいらしい。こんな愛らしいなまえなんだ、帰してやれるわけがない。絶対にだ。オレは密かに心に決める。
 気遣いができるバッターには、付け込む隙があった。オレは息を潜めて、まるで獲物を狩る獣のように、それを狙っていた。
 やがて、バッターが帰ってくる。返り血を浴びて真っ白いユニフォームが赤く染まっており、ところどころ酸化して黒くなった血痕が見受けられる。「待たせてすまない」謝罪の言葉を口にするのもこの世界のバッターの特徴だった。

「バッターさん。おかえりなさい」
「ああ。なまえは変わりないか」
「大丈夫です!」
「それならば先へ進もう」

 なまえの身を案じてみせるバッター。そして彼らは終幕へと向かう。つまるところ、今ふたりがいるのはTHE ROOMってことだ。これからジャッジと対峙することになるステージ。ぞくぞくするね。
 「……さて、オレも行く末を見届けることにするかな」誰にも言わずにひっそりと、オレはと或ることに陰謀を巡らせていた。
 本来ならば入れないはずの、バッターとジャッジが敵対する部屋。オレはそこへ難なく足を踏み入れた。それくらいこの世界へ干渉する権限を持っていた。
 この世界はオレの掌の上で転がされている!
 四方八方が白い部屋。その壁に身体を預ける。そしてオレはバッターとジャッジの様子を静かに見守った。なまえは心配そうな顔つきでふたりを窺っている。

「そこで止まりたまえ、このペテン師め」

 ジャッジが憎悪を込めた声音で言う。バッターの行動を、なまえの行動を、心底憎んでいる声だった。
 「私は君に心から、最も盲目的な確信を、最も確固とした期待を、そして最も誠実な、偽りなき信頼を置いていた」ジャッジは期待していたことと異なる結末を迎えつつあるバッターとなまえを許せないのだろう。オレはじっとその光景を様子見している。
 終わり方は毎回違っている。言葉の言い回し、攻撃の仕方、そしてなにより、バッターの感情の露呈のしかただ。憎しみに憎しみで対抗するときや躊躇し攻撃するとき。様々ある。

「君はこの世界を浄化などしなかった。君は破壊し、根絶やしにした。君はこの世界を混じり気のない無に沈めてしまった」

 もはや聞き飽きたほどの言葉を吐くジャッジ。さて、今回のなまえはどちらを選ぶのか。

「こちらへ来たまえ、なまえ。私と共に罪をあがなおう。任務を果たそうとするこの怪物を阻むのだ」

 なまえは衝撃を受けた顔をしてふたりを交互に見やっている。心優しいなまえのことだ。闘いをせずに穏便に終わらせることを望んでいるのだろう。
 しかし、それは叶うはずのない望みだった。そういう仕組みになっているから。オレは静かになまえのことを見つめる。

「バッターさん」
「どうした」
「……わたしが、今までやってきたことって、正しいのでしょうか……?」
「少なくとも俺はそう思っている」

 ───今までの浄化を、無意味なことに成り下げてしまうのか?それは浄化されてきた者への冒涜になるんじゃないのか。バッターが言う。それになまえは、苦しそうな表情で頷く。

「……ジャッジさん。ほんとうにごめんなさい。わたしは、今までの浄化を無意味なものにしたくありません」
「……残念だ、プレイヤー。自らの邪悪なるマリオネットに操られたまま、君は死のうというのだな」

 怒りに塗れた声でそう言ったジャッジ。なまえは傷ついた顔で彼を見つめている。誰もが苦しまない世界を望んでいる顔だった。そんなのは到底無理な話なのにな。
 バッターがバットを構える。そしてふたりは互いに飛びかかった。
 ふたりの闘いは、オレが見るに常にバッターの方が上回っている。今まで血に染めてきたバットは尋常ではないくらいの攻撃力を誇っていた。まあそれを売ったのはオレなんだけどさ。
 しかし、バッターが勝利するのを望んでいるのも確かだ。
 オレ自身、ジャッジに手を下すのに抵抗を覚えているからなのかもしれない。パブロは良い友人だったからな。
 その分、世界線によってはオレの障壁となるバッターの方が、殺すには幾分マシだった。
 今までは、手腕が足りずにNPCでいることを強制されていた。だが、それも今回で終わりだ。オレは決心していた。

「───これで終わりだ」

 バットで殴打され、皮膚が引き千切れ、そこから内臓がはみ出し、もはや赤い塊となったジャッジを見て心が痛まないわけではない。しかし、オレはそれ以上に得られるものに舌舐めずりをしていた。
 「よう」ジャッジを殺し、肩で息をしているバッターに近づき話しかける。すると、奴は珍しく表情を崩した。記憶がないとはいえ、こんなことが異例であることを感じ取ったのだろう。そしてそれは奴の最期でもある。

「驚いた?こんなの筋書きにないもんな」
「ザッ、カリー?お前、何をしている」

 戸惑うバッターを無視してオレは抜刀する。すらりと鈍い光を反射する鋭利な刃。丹念に磨き上げられたそれは十分な殺傷力を持っている。
 オレはバッターの前に佇む。奴の隣にいるなまえは信じられないかのような面持ちでオレを見つめていた。……この世界でなまえを手中に収めるのは、オレだ。

「待て、何をするんだ」
「これ見てわかんない?そこまで鈍くないだろ。それとも信じられないって?」
「……やめろ。オレはスイッチを切らねばならない」
「だからそれを阻止するのさ」
「……なぜだ。なぜなんだ、ザッカリー」
「……お前には分からないだろうよ」

 “今回”のお前にはな。そう呟けば、バッターは困惑した表情でバットを握りしめた。
 オレは躊躇なく懐へ飛び込んだ。勝敗は明らかだ。そういう仕様になっているからな。筋書きを覆すオレに敵う奴はいない。そもそも、ストーリーを牛耳ってる時点でオレはこの世界の頂点に君臨しているようなものだった!
 銀色に輝く刃がバッターに襲いかかる。ユニフォームを切り、その下に隠れていた皮膚を切り裂いた。血が流れ出す。バッターはオレに攻撃するのを躊躇っている。

「くたばっちまえ」

 そして心臓をひとつき。ずぶり、と刀を突き刺しねじ込む。そのまま引き抜くと、栓が抜かれた水のように血が溢れ出た。バッターは吐血しゆっくりと倒れこむ。それを見たなまえは泣きそうな顔で奴の近くへ駆け寄った。
 面白くない。勝ったのはオレだ。なまえが駆け寄るべきはオレのはずなのに!
 「なあ、なまえ」名を呼べば、彼女はびくりと肩を跳ね上げる。一歩ずつ近寄ると、なまえは少しずつ後退していった。ハハ、まるで“虚ろ”のバッターと同じじゃないか!

「“虚ろ”のバッターとどっちが怖い?」
「……うつ、ろ?」
「……そうだよな。わかんないよなア。けど、オレがなまえを愛してるのは紛れもない事実さ」

 “虚ろ”ではバッターがなまえを掌中にするわけだが、この世界線では、その立ち位置にいるのはオレだ!
 血を滴らせた刀を一振りしてそれを弾き、鞘に収める。
 そしてオレは呆然と立ち尽くすなまえに近づき、そっと抱きしめた。

「今回はオレの勝ちってことで」

 がたがたと震えるなまえを感じ取り、こんなんじゃ“虚ろ”のバッターと変わらないじゃないかと思う。しかし、ようやく念願のなまえを手に入れることができた。
 けれども、反吐が出そうだったバッターと同等の存在であるのは、少々面白くない。オレはそんな気持ちを誤魔化すように、なまえを抱きしめる力を強くした。


秘めやかに


190508


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