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彼女にとってそれは何でもない日だった。
いつものように気乗りのしない会社へ向かい、いつものように仕事をこなし、定時で上がる。
ルーチンワークのような日常を終え、今日は帰ってから読みかけの小説でも読もうか、なんて考えていた。
ただそれだけだった。
自分でも何が起きたのかよく分らない。
衝撃と、痛みを感じる前に感覚が吹き飛んだらしい重たい身体と、青ざめる家族の顔が記憶の最後。
おそらく死んだのだろうと思う。
・・・なぜ、死んだと「思う」?
自分に確かな意識があることにふと疑問を感じるが考えがぼやけてどうにもはっきりしない。
目がかすんで目の前がよく見えない。
もしかして死んだと思ったのは間違いで、九死に一生得たのではなかろうか。
視界をクリアにしようとして、でもやっぱり腕が重くてうまく目まで持ってこれない。
いや、むしろ重いと言うより思いのままにならないと言った方が正しいか。
思い通りにならない体にだんだんイライラが募り始め、それが口からはじけた。
はじけたそれは、言葉ではなかった。
叫びと言うにはあまりに弱弱しく、そして柔らかなその音。
彼女にはそれがどういうことなのか、やはり、分からなかった。
そうするうちに伸びてきた優しい女性の腕。
抱かれた体温の暖かさに安堵した。
彼女が己の体の異変に気付いたのはそれから数か月後のことだった。
小さな小さな身体に、生まれたての柔らかな肌。
記憶にあるものと違う、でも自分を呼ぶ名前。
見知らぬ両親。
同じ背丈の、同じ年頃の、目の前の赤ん坊。
理解しがたいその状況の衝撃は大きく、混乱したが彼女の混乱に真に気付いてくれる人は一人としていなかった。
なぜなら彼女は生まれたばかりの、赤ん坊になっていたのだから。
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bkm