意識が頭上を漂っているような酷い倦怠感に包まれていた。
目を覚ますと首と手が動かなかった。何かに繋がれているのだと理解するまでに、随分と時間がかかったような気がした。
逃げようにも身体が動かない。それどころか思考が働かない。意識がふわふわとして、つかむことができない。
ぐるぐると周り巡る脳内、歪む視界、動かない体。
遠くで微かに、何かの声を聞いた。
ーーあなたは、誰?
私はアリス
ーーあなたは、誰?
私は錬金術師
ーーあなたは、誰?
融解、の、錬金術師ーー
「ーーゆうかい、さん?」
遠くで聞こえていた声が、突然鮮明になった。
朧げな視界に映るのは、浮き立つ白い人影。
その影は薄暗い部屋とのコントラストで、さらに際立って見えた。
徐々に合わさって行くピントは、時間をかけて着実に目の前の人物を捉えていく。
ーーここは何処だ
ーーどうして繋がれているのだ
聞きたいことは沢山あった。
しかし口から出た言葉は、この瞬間の微かな興味の対象に向けられていた。
「お前は、誰、だ」
--
何も言わずに佇むのは、真っ白な人影。
少女の姿をしたそれは、ゆっくりと私に近付いた。
「目が覚めたのね。気分はどう?」
身体に力を入れると、金属の擦れあう不快な音が鳴り響く。
彼女の質問には答えず、私はただぼんやりと記憶を辿った。
何一つわからないのだ。私は何をしていて、何処で生きていたのか。今が"いつ"で、どうしてこの様に拘束されているのかも。
「怪我を見てあげるわ…痛いの、少しだけ、我慢してね」
ピリッとした鋭い痛みが腹部を貫く。ひんやりとした感触と、じわじわと広がっていく陰湿な痛み。
「かすり傷ね。大丈夫、すぐ治るわ。あとは頭……」
彼女の白い手が視界を覆ったーーかと思うと、それは私の額にあてられた。
「痛く、ない?大丈夫?」
声を出そうと息を吸い込んだ途端、口の中に鉄の味が広がった。
言葉の代わりに吐き出されたものは、赤く濁った不純の液体。
驚愕に悲鳴をあげるも、声は咳と血に混じって噎せ返る一方だった。
咳き込む度に流れ出る血液が、少女の白を赤に染めた。
しかし彼女は驚きも動きもせず、ただ私の背中をさするのだった。
「ーー脳に刺激を与えたのだから、鼻血が出るのは当然よ。その吐血は内臓が損傷した所為ではないわ…」
「……え?」
少女の小さな呟きに、何か引っかかるものを感じたが、それすらも咳に混じって吐き出されていった。
彼女は私の口に付着した血液を優しく拭き取った。そして水の入った瓶を唇に押し当て、小さく傾けるのだった。
「水よ。…飲める?」
---
生温い水分は、身体の隅々に染み渡り微かな快感を与えた。
余程喉が渇いていたのだろう。彼女の手にした瓶は既に空であった。
少女は私の様子を無表情にーーしかし微笑みを絶やさずに、凝視していた。
私は彼女に、二度目の質問をする。
「……貴方は、誰」
一呼吸の間。そして少女は呟いた。
「私は、メランコリー」
「メランコリー…」
憂鬱。その名が何を意味するのかを、私は未だ知らなかった。
「よろしくね、"ゆうかい"さん」
「……、違う」
「え?」
「私はアリス……融解の、錬金術師……」
---
灯りの無い部屋、何かの呻き声と腐臭が満ちる空間に、二つの人影があった。
"嫉妬"の名を持つその人物は、長い黒髪を闇に透かし、静かに口を歪ませる。
「ーーで、彼女の様子は?」
「経過は順調。思考能力も回復しているわ」
穏やかな口調で返すのは、純白痩躯の少女。彼女は淡々とした口調で、しかし何処か悲しそうに、或いは嬉しそうに語った。
「記憶を失うことが幸か不幸かーーそれは全て、彼女次第ね」
「関係ないよ、そんなの」
彼の言葉は純粋にも禍々しい悪意を孕んでいた。
「使えるか使えないか、ただそれだけだ。"あの男"みたいに情に殺されやしない。あの女ーーアリスも所詮は人間ーー情に呑まれて死ぬ前に、このエンヴィーが使役してやるのさ……」
微笑んだのは、僅かな狂気。
---
「いいかアリス、お前はこのエンヴィーの下僕だ」
「あの内乱でのお前の行為、逃亡共々その罪を忘れた訳ではないだろう」
「あれだけの罪を負って、ーー今更のこのこと地上で暮らすことなんてできないよなぁ?」
「融解の錬金術師、その術もろとも買ってやる」
「ーーそうだ。お前にはもう居場所は無い。家族すら見捨てるだろうーーいや、見捨てたのはお前か?」
「ーーそう、いい子だ、アリス。お前はただ黙って従うしかない。わかるな?ーー……」
…
「アリスさん?」
名前を呼ばれて顔を上げると、白い少女が私を見つめていた。
「ーー泣いているの?」
彼女はその幼さの残る顔を悲しそうに歪ませた。
無慈悲な現実に、涙すら出ない。私は、なんて無力で、愚かなーー
「私は、どうすれば良い?」
何処へ向けられたのかもわからない質問に、その少女は静かに目を伏せた。
ただ黙って、私の言葉に耳を傾ける。
「何もかもを失って、何もかもを覚えていなくて……繋がれたまま、ここで生きて行けと?」
「アリスさん……」
「どうしろと云うの……私に、何ができると……」
「……私も、あなたと同じ」
少女は真っ直ぐに私を見た。ただ無表情に、しかしどこか悲しそうな表情で。
「何もかもを失って、何もかもを忘れたわ。……けれどここに来て、私は意義を得た」
カチャリ、と、何かが合わさるような音がした。
途端に自由になる両手。固定されていた首の解放に、肩の力が抜ける。
「……今にきっと、理解できるわ。大丈夫、あなたは強い」
そして少女は微笑んだ。
prev / next