雪解けの瑞々しさを含んだ、暖かな風が吹いている。葡萄畑は柔らかな葉が迷路のように生い茂り、中を行き交う蜜蜂の羽音が時々、頭の上で聞こえた。
 季節は巡って、あれほど深かった雪もいつしか姿を消している。太陽が世界で一番優しい神様のような顔をして空に昇り、花の咲き誇る時期がやってきた。今年もまた、僕はこの町で春を迎える。
 冬に僕が故郷へ戻った一件については、クレアまでそれを追ったらしいということでちょっとした騒ぎにはなったらしいものの、帰ってきた側の僕達にとっては身構えたほど大きな影響もない。カーターさんが、デュークさんやマナさんにはきちんと僕が帰ることを説明してくれたおかげだ。ヨーデル牧場のムギさんにも取り合ってくれたようで、帰りの汽車でそれを思い出したクレアがお土産を買っていないと言い出して慌てて何もない駅で降り、道中無駄に一泊したことを除けば、動物達は皆元気だったようだし、すぐに彼女の牧場に戻されて何ら問題もなく元通りの生活が始まった。
 カーターさんにはお土産を買っていったら、どういう風の吹き回しですかと楽しそうに言われたので、つくづく礼を言わせてくれない人だと思う。けれど、今回ばかりは別だ。彼女に手紙を渡してくれなかったでしょうと言えば、地図と間違えましたと返され、伝言もずいぶん有耶無耶だったみたいですがと言えば、寝起きだったのでと返され。果ては僕のことをどう思っていますかと聞けば、思春期の息子が大人になって帰ってきたような気持ちですなどと、何だか嬉しそうに笑うものだから。そうですかお父さん、どうもありがとう、これからもお世話になりますと返したら、初めてあの人が少し、驚く顔を見た。
「お疲れ様、上がっていいわよ」
「あ、もうそんな時間ですか」
「うふふ、ちょっと早いけど。明日も来てもらうんだから、それくらいでいいわ」
 ワイナリーの家のドアから出てきたマナさんは、今日も上機嫌だ。明日も、というが明日は仕事で来るわけでもない。デュークさんとマナさんと、食事に行くことが決まっているだけ。それだけなのだけれど、どうにも浮き足立ってしまうのは緊張からなのか、楽しみからなのか。
「それじゃあ、また明日ね」
「はい」
 仕事道具を返して、果樹園を後にする。通い慣れた道を右へ向かって歩けば、突き当たりに見えるのがいつもの牧場だ。鶏の鳴き声がしている。近づくにつれて、水を汲むような音が聞こえてきた。彼女がいるようだ。
「―――クレア!」
 階段を上りきって、名前を呼べば。振り返る一瞬の仕草に、故郷の町で彼女と出会ったあの瞬間が甦って、雪景色ではなく緑に囲まれた彼女が笑う。眩しいな、と瞬きをして、僕は牧場へ足を踏み入れた。

 クリフが帰った後、家に戻ったマナは鼻歌交じりにエプロンをハンガーへかけた。鋏を戻して、篭の中の萎れた葉を取り出し、空になった篭を元の場所に戻して積み上げる。そうして自分のエプロンの紐を結び直そうと手をかけたとき、部屋の奥にある電話がジリリリと鳴った。
「はい、アージュワイナリーです。……え?」
片手で掴んでいた結び目が、ぱらぱらと解ける。背中のほうへ回った紐を掴もうと後ろへやった手もそのままに、マナはぱちりと瞬きをした。
「―――クリフ、ですか?ええ、彼ならうちで働いていますが……」

「それにしても、広い畑だね。こっちが野菜で、向こうが花?」
「うん、そう。そこの柵を境にして分けてあるの」
 如雨露に汲まれた水が、陽射しを含んで零れていくのを見ているのが好きだ。あの細い水の糸が、どうしてこんなに草木を育てるのだろうと思うと、不思議な気持ちになる。牧場へ来ることもすっかり日課になった僕は、畑の世話をする彼女と話しながら、足元に来た犬を抱き上げた。
 僕達の間には、他愛ない話ばかりが続いている。けれど、以前のような当たり障りのなさで選んでいる話ではない。話したいことを話すし、聞きたいことを聞く。傍目にはとっくの前からそうだっただろうと言われるかもしれないが、今の僕達は、どこにでもいる普通の恋人同士だ。
 故郷からの帰り道、長い汽車の乗り継ぎや船の中での時間に、僕達はそれぞれ、色々な話をした。子供の頃のこと、ふと思ったこと、前にいた町のこと、今夜の食事のこと。ありったけの他愛ないことの中に、今までずっと隠していたたくさんのことを織り交ぜて。そうして代わり映えのしない雪原を走る汽車の中の退屈や、浅い眠りの間に目覚める船の上での夜や、多くの時間をただ話すことに使い果たした。それくらい、僕達には互いに空白が多かった。凪いだ海を進む船の甲板で手を繋いで、彼女が語ってくれた切れ端のような思い出の中の、そのまた一切れの、千切れた詩のような言葉を思い出す。
「クリフ、クリフー!そっちにいるかしら?」
「え?」
 ふと、ワイナリーのほうから聞こえてきたマナさんの声に呼ばれて、顔を上げる。抱いていた犬を下ろしてはいと答えると、ドアを開けたマナさんが、僕の姿を見て声を張り上げた。
「―――貴方に電話みたいなの!」
 犬が、動物小屋のほうへ向かって駆けてゆく。咄嗟にそれを目で追った僕は、空色の眸と視線を合わせて、誰だろうと首を傾げた。それからすぐに振り返って、聞こえるように叫ぶ。
「今、行きます」

 ――――――人生は、祭だ。



fin.

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