「あのね、クレアさん。カーターさんは君に渡さなかったみたいだけど、僕は、君宛に手紙を書いたんだ」
「どんな……?」
「誰よりも、本当のことを書いた手紙。僕が故郷に戻って何をしようとしているのかとか、いつ帰るかとか……何をしたら、帰るつもりなのかとか。そういうこと、カーターさんにも実はほとんど話していなかったし、何だか他の人の口から話させるのもどうなのかなって思って」
「……」
「クレアさんには、必要以上に隠さず伝えようと思ってたんだ。一年前はありがとう。……これ、拾ってくれたんだろう?」
 聞き零すまいとするように真剣な表情で僕の話を聞いていた彼女へ、今はもうハンカチに包まれていない写真をコートの胸のポケットから出して見せれば、あっという顔をした。ああやっぱり、と思って、いいんだと首を振る。今となってはあのときの見ないふりこそが、僕の誰彼構わず張り詰めていた緊張の糸を解いたのだと分かるから。
「カーターさんから聞いたとおり、ここは僕の生まれ育った町だよ。昔はもっと生気のない町で、僕はここでの生活の厳しさが辛くなって、逃げ出すみたいに町を出た」
「……そうだったの」
「うん。ちょうど、この写真を撮ってすぐの頃だったよ。そのときに僕が、この町に置き去りにしていったのが、これに写っている二人。……僕の母さんと、妹だった」
「……」
「僕はずっと、そのことが心に残っていて。どこに行っても、恵まれた町に行けば行くほど、後悔で倒れそうだったんだ。どうして僕だけが、こんないいところにいるんだろうってね。だからずっと、色んな町を渡り歩いてきたんだけれど―――、そんな僕に、一生手に入らないかもしれないなと思っていた幸運をくれた人がいてね」
 写真についた雪を払って、再びポケットに戻す。思い出を再生するように淡々と語って、僕はまだ少し泣き出しそうな胸の奥の痛みに、お別れを告げることにした。
「君だよ、クレアさん。当たり前に毎日続く仕事と、恋人と、恋人の名前を借りた最高の友達と。君は僕に、一人で全部をくれたんだ。……幸せに、感じないわけがない」
 楽しいだとか、幸せだとか。口にしてしまったら、どんな懺悔も嘘になる気がしてずっと、言えなかったけれど。彼女と出会ってからの日々は、僕にとって紛れもない祝福のような日々だった。初めはそれを、いつかは終わるものだからと思うことで受け入れずに押し込んだ。けれど、穴のない箱はいつか溢れる。蓋が閉まらなくなって、幸せじゃないわけがないじゃないかと思って、泣きたくなって、動揺した。彼女の傍を離れるべきかと思ったことも、何度もある。その度、息が苦しくなって幸福の恐ろしさを知った。
「何も言わずに出てきてごめん。クレアさんとの約束を守ったっていうのもあるけれど、本当はそれだけじゃなくて」
「うん」
「……もう、過去のことを隠すのはこれで最後にしようと思ったんだ。この町に戻ってきて、そして今度、あの町へ帰るときには……」
「クリフ……?」
「君にも、他の人達にも。僕のこれまでのことを、必要以上に隠すのは止めようって。そのために、心の準備をしたかったのかもしれない。実際に、この町でやっておきたいこともあったしね」
 そして、そんな幸福を、僕だけが得るのではなく。眩しすぎる朝にも暗すぎる夜にも、一人で笑っている彼女のため、返したいと思ったとき。このままではいけないと思ったのだ。後悔とは別の、前に向かってゆきたいと思う気持ちだった。残酷なまでに濁りのない、疑いようのない感情。
 今の毎日が、好きだと思う気持ちを。否定することなど、結局のところできないのかもしれない。彼女がいて、教会があって、果樹園があって。友人がいて、仕事があって、僕を知ってくれている人がいて。名前を呼ばれて葡萄畑で振り向けば、突き当りにはいつも、彼女の牧場が見える。
「やるべきことって、お母さんと妹さんのことでしょ?その……、会えたの?」
「ううん、まだ」
「そっか」
「うん。でもね、クレアさん。確かに僕がこの町へ来たのは二人のことがあるからだけれど、もう何年も会っていないんだ。期待がなかったとは言えないけれど、そう簡単に会えるとは、初めから思ってない」
 え、と。てっきり僕が二人を探すつもりで来たと思っていたらしい彼女は、俯いていた顔を反射的に上げた。どうしてと問いかける眸に、微笑んでみる。長く心臓を縛りつけていた悲しみが形を変えて、やっと本当に、祈りになれる音がする。
「町の役場に、貼り紙を出させてもらってきたんだ。写真を撮って、名前とワイナリーの電話番号を添えて」
「それって……」
「当てもなく探し回るよりずっと現実的で、その分なんだか、やれることはやったって気になっちゃいそうで躊躇いもあったし……何より、二人が僕を恨んでいるんじゃないかって不安は今でも残ってる」
「クリフ……」
「だけど、今は同じくらい、いつまでも中途半端に引き摺っているだけじゃ何も変わらないって思えるんだ。……あのさ、クレアさん」
 本当は、こんなことを聞かなくても。ここで彼女に会えなかったとしても、僕は初めから、あの町に帰るつもりだった。カーターさんはつくづく、肝心なところを端折って伝言してくれたらしい。できれば家族を探すが、会えなければ春を迎える前に戻る。そう伝えてくれるように、頼んだつもりだったのだけれど。
「―――僕は、あの町に住んでいいのかな」
 あの人のことだから、こうなることも憶測のうちだったのだろうか。いつになるか分からないなどと伝えれば、彼女が困惑することくらい、分かっていただろうに。食えない人だ、と思う。けれど今はその手のひらの策に甘えて、ずっと誰かに聞きたかったことを吐き出してしまおう。
 空色の眸が一瞬、驚きに染まって、それからすぐに彼女は大きく頷いた。
「いいに、決まってる。誰も貴方が出て行くことなんて望んでないもの。マナさんやデュークさんだって待っているし、ダッドさんだって心配しているし、それに、何より」
「……」
「―――私が、クリフにいてほしいの。遠くに行かないで、ずっと近くにいてほしい。私はあの町に流れ着いたとき、本当に何にも持っていなかったし、自分がどうしてここで生きていくことになったんだろうって、ずっとそう思ってたけど」
「クレア、さ―――……」
「……空っぽの手に、貴方が繋がったときから。毎日が楽しくなって、なんだ結構生きていけるかもしれないやって、思えたの」
 コートの襟を引き寄せられて、それはまるで息継ぎのような、目を閉じる暇もない一瞬のキスだった。悴んだ指が、硬い布地を解放する。無重力が、崩壊していく。
「好き」
 ああ、重力はここにあったのだ、と思った。僕の中でも、彼女の中でもなく、僕達の間に。囁かれた言葉は大きく重い鼓動になって、僕の内側に最後まで残っていた小さな不安を壊した。あの町を、帰る場所にしてもいいのか。彼女がそれを許すに留まらず望んでくれるというのなら、僕はきっと、どこからだって帰り着ける。
「……格好いいなぁ、クレアさんは」
「え?」
「キスしたの初めてじゃない?僕達。なんか奪われちゃった気分だ」
「……っ!?」
「―――なんてね」
 そう、例えばこんな深い雪の底の、忘れようのない思い出の中からでも。
 照れたように口許を押さえて言えば、先ほどの潔さが嘘のように狼狽えた彼女は、呆気なく僕に捕まってくれた。指先の冷たさが、手袋越しに伝わってくる。見れば、マフラーさえ巻いていなかった。急いで出てきてくれたのだろうな、と思う。用意周到な自分の格好が恥ずかしく思えるくらい、真っ直ぐで飾り気のない、彼女の気持ちをそこに見た。
「……どうせすぐにやり返すから、いいんだけど」
 ああやっと、僕達は始まりを迎えられる。視線の滲むような距離でそう言って、初めて目にした彼女の上気した頬の色に、笑った。

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