「いなくなった……、ですか?」
 無限に思えた木の葉もいつの間にか散り散りになって、山の木々が影絵のように枝ばかり揺らすようになった頃。それは、唐突な出来事だった。どくん、と心臓が鳴っている。赤いポストの上に積もった雪の白さが、視界の隅でちらちらと蠢いていた。
「昨日の夕方に仕事を終わらせて、帰るときまでは普通だったのよ。ただ、そのときに一言、今年の冬は忙しいですかって訊かれたの。それで……」
「……」
「年内の仕事はもうそれほどないわねって、私も特に気に留めないで、そう答えたのよ。そうしたらあの子、そうですか、良かった、って……笑って。今朝になったらダッドさんから電話が入って、昨夜から宿屋に戻っていないけれどそっちにいるのかって」
「……」
「一体、どこに行っちゃったのかしら、……クリフ」
 頭の奥が殴られたようにぐらぐらと揺れていて、すぐには返事ができなかった。目の前の声がどこか、硬い壁の向こう側で響いているように遠い。
「……デュークさん、は」
「町長のところへ報告に行っているわ。こんな朝だから、まだ起きているか分からないけれど……」
「病院にいるってことはないんですよね?去年のときみたいに」
「一応電話してみたけれど、来ていないそうよ」
「……そうですか」
 やっとのことで訊ねてみた言葉にも、マナさんは力なく、けれどはっきりと首を横に振った。次の言葉を失って項垂れた私に、いつになく遠慮がちな声で彼女は続ける。
「もしかしたら……って思って、クレアさんのところに来てみたのだけれど」
「……」
「その様子だと、ここにもいないみたいね。……大丈夫?」
すいと、伸ばされた手が肩の雪を払ってくれた。見れば、マナさんも部屋着にコートを羽織っただけのような格好だ。ダッドさんからの電話を受けて、急いで向かってきたのだろう。けれど、ここに彼はいない。ここにいないどころか、どこにいるのか、私にも分からない。
「マナさん、その格好でいたら冷えます。デュークさんも戻ってくるかもしれませんから、一旦、家に戻って」
「クレアさんは?」
「私は、……教会に行ってみようと思います。彼が一番通っていた場所ですから、もしかしたら」
 言うが早いか、私は不安げに頷いたマナさんに頷き返して、牧場を飛び出した。雪が、灰色の空から止め処なく降っている。薄く覆われた石畳の道を駆けている間、様々な想像が脳裏を過ぎった。そのどれもが、良いものとは言い難いものだった。彼は、どこへ行ったのだろう。宿屋に戻らないということは誰かの家かとも思ったが、私の知る限り、彼には夜通し遊ぶような友人などいない。いるとしたらグレイだが、彼は同じ宿屋にいるのだ。病院にもいないということは、倒れたわけではないのか、或いは。どこかで、誰にも発見されずにいるとしたら。
 最悪な想像をしてしまって、そんなことは考えるべきではないと打ち消す。そして、それと同等か、もしくはそれ以上に悪い可能性が、もう一つ。
「―――おや、クレアさん。ちょうど、今からそちらへ伺おうと思っていたところです」
「……おはようございます、カーターさん」
 扉の先で私を出迎えてくれたのは、カーターさん一人だった。予感はあったが、落胆も隠せない。ここに来れば、もしかしたら会えるのではないかと思っていたのだ。心の隅で、彼がいつものように私の姿を見つけて、クレアさんもここへ来たんだと言ってくれるのではないかと。
 白と黒で統一された服に身を包んだカーターさんは、いつも通りの格好だが、聖書を手にしていない。先ほど、私のところへ向かおうと思っていたと口にしていたことは本当なのだろう。冷たい朝の空気を吸いすぎてキリキリと痛む胸を押さえ、暖かい室内で深呼吸をして、私は口を開いた。
「クリフが、どこへ行ったのか。知りませんか」
 いなくなったことを、知っているかという言い方をしなかったのは直感的なものだった。彼に初めて出会ったときのことを思い出す。私とは挨拶もままならなかったような当時から、彼は、カーターさんに対してだけは親しみを持っているようだった。手がかりとして真っ先に思い当たる人は、この人しかいない。
 案の定、カーターさんはじっと私の顔を見てから、そうですねと頷いて口を開いた。
「……知っていないとは言えません。クリフは、自分の故郷の町へ。昨日の夜の船で、向かったようです」
「……っ」
「私も、昨日の夕方になって知らされました。これまで彼はそういう素振りも全く見せなかったし、今回の件に関して、私にも相談はなかったのですよ」
 最悪の想像の次に思い浮かべた、悪い予感が当たる。衝撃は大きかったが、驚きは少なかった。彼がもし、この町のどこかにいるのではなく、この町の外にいるのだとしたら。安定した仕事も見つかっていた今、旅に戻ったとは考えにくい。向かう先など、決まっている。けれど。
「クレアさん。貴女に、言伝を預かっているのです」
「言伝……」
「そんな顔をしないように。何もクリフは、永遠の別れを言い残したわけではありませんよ」
 たったの、一言さえ。教えてはもらえなかったのだということに崩れそうになってから、その悲観を体の内側で響く声が覆す。―――何も聞かないし、話さない。あれは誰が口にした、約束だったか。
 彼は私に、何も話さなかったのだ。初めの約束どおり。それだけの、それ以上でも何でもないことなのだ。それがどんな内容であったとしても、確かに彼は、私に重荷をかけなかった。羽根のように軽やかに、いなくなった。
「彼は、やるべきことを済ませに行くと言っていました。これから先のことを考えるために」
「……」
「この町にも、心の整理をつけたら戻ってくると。きっと自分なりの、けじめのつけ方のようなものを見つけたのでしょうね」
「……それは、どれくらい時間がかかるものなんでしょう」
「そればかりは、私にも。私にできることは、いつかあの子が帰ってくるとき、それが何年先であっても変わらず迎えられるように、よく顔を覚えておくくらいしかありませんので」
 何年先で、あっても。当たり前のように口に出されたカーターさんの台詞が、脳天を刺す。たったの一年だ。私と彼が関わったのは、季節がほんの一回りするくらいの短い時間に過ぎない。けれど、一年間を経て、私は恋をした。本物の喜びに満ちた日々を、手に入れたのだ。
 罰が当たったのかもしれない。好きになってしまった瞬間に、正直に関係を壊さなかったから。気持ちはとうに大きく変わっていたのに、優しい距離に甘えて、もう少し、もう少しと仮初めのはずの関係を続けていたから。その約束さえ取り払っていれば、もしかしたら、彼は私に何か言ってくれたのかもしれない。そのとき私が恋人であってもそうでなくても、情の湧いた間柄だ。さようならの一言くらい、聞かせてくれたかもしれないのに。

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -