目を覚ましたとき、辺りはすでに嵐の中だった。空が薄暗くてすぐには朝だと気づけなかったくらいだが、状況を理解して時計を確かめ、手早く身支度をして宿屋を出る。ダッドさんが、果樹園へ行くのなら仕事があるかどうか電話で聞いてやると言ってくれたが、その申し出は断った。電話に出るのはきっとマナさんだ。あの人は心配性だから、仕事があったとしてもこんな日は来なくていいと言ってくれるに決まっている。
 どのみち果樹園へは、それほど遠い道のりでもない。今年の収穫が近づいていることもあって葡萄畑が気になり、傘を片手に歩き出した。吹きつける風のせいであまり使い物にならず、ジャケットに雨の当たる音がいくつも聞こえていた。それでも何とか果樹園に着いてみると、ちょうど貯蔵庫から出てきたデュークさんが僕に気づいて、驚いたようにも感心したようにも見える顔で頷いた。
「よう、来てくれたか。心配かけて悪かったな」
「いいえ、一応様子を見に来たほうがいいかと思って。大丈夫ですか?」
「ああ、この通りだよ。昨日、お前が補強を手伝ってくれたおかげで木は無事だ。窓も割れていないし、一日くらいなら十分凌げるだろうさ」
「そうですか……、それなら良かった」
 その言葉にほっとして息をつくと、デュークさんは貯蔵庫のほうも無事だよと笑ってたった今閉めた扉を指差した。最盛期を前にどうなることかと思ったが、杞憂で済みそうだ。今日は外での仕事ができる天気でもないだろうから、どうしようかなと葡萄畑を眺めた僕に、デュークさんが口を開く。
「うちは大丈夫だが、お前、クレアちゃんのところはどうなんだ?もう行ってやったか?」
「え……」
「え、じゃねえだろう。あそこは畑に牧場があって、女の子が一人でやってるんだ。おまけにうちの何倍も広いときてる。何も壊れたり、飛ばされたりしてなきゃいいが」
 情けない話だが、僕はそのときになってようやく、彼女の牧場のことを思い出したのだ。言われてみればあそこにだって、畑や小屋が並んでいる。葡萄畑の状態を気にするならば彼女のところだって同じ天候に当てられているはずなのに、自分の任されている場所のことで精一杯になって、そこまで考えが回らなかった。
 突き当たりの牧場を見上げた僕に、デュークさんが腕を組んで言う。
「クリフ、お前なぁ。もう少し危機感を持ってやらないと、あの子はきっと、いつまで経ってもお前に頼らねぇぞ」
「……それ、は」
「……強そうな子だからな。もう少し、ちゃんと見てやれ」
その言葉は、僕の中にあった小さな隙を的確に突いた気がした。頼るような関係ではないからで、と思いかけた反論を飲み込んで、デュークさんに軽く頭を下げて背を向ける。牧場はすぐそこに見えていて、階段を駆け上がればあっという間だ。確かめて、何も困っていないようだったら帰ればいい。このときもまだ、僕は内心、問題なんて何もないだろうと信じきって迷わなかった。
 彼女は、しっかりしているから。きっと僕が行ってみたところで、どうしたの、何をしに来たのと驚かれて終わりだと。それが僕の勝手な思い込みだということさえ考えられないほど、僕はそう思っていたのだ。
 だって、初めの瞬間から今の今まで、ずっと。いつだって引き寄せて、手を引いて、前を歩いて。背中を押して、先に笑って先に進んでくれるのは、彼女だったから。告白を作り上げたのも、約束ごとを決めたのも、無重力関係という僕達の在り方を作ってくれたのも。会いたいと言うのも、他愛ない話を始めるのも、大抵は彼女からで。
 僕にとって彼女はそんな、前へと進んでいく力の持ち主だったのだ。だから、そんな彼女が何かに立ち止まる姿というのを、まるで考えなくなっていた。いつの間にか。傍で過ごすうち、僕には彼女が強そうな子ではなく、強い子だという認識ばかりが積み重なってしまったのだ。何が起こっても、どんなときでも、彼女は大丈夫なのだろうと。そんな思い込みが音を立てて崩れ去ったのは、不思議に静まり返った牧場の入り口、彼女の家の窓から灯りが漏れていないことに気づいたときだった。
 真面目に考えれば、台風のような実質的な被害に対して、彼女がしっかりしているかどうかなど、それほど関係のないことだったというのに。どうしてそんなふうに思ってしまっていたのだろうと、考えながらも牧場を見回してみたときには、何の異変も見当たらなかったのだ。心の片隅で、なんだやっぱり大丈夫そうじゃないかと思った。けれどせっかくここまで来たのだ、一言くらい大丈夫かと確認して帰ろうかとその家を見たとき、まるで空っぽの小屋のような静けさを感じてぞくりとした。悪い予感、というにはあまりに淡い、それは不安だった。それまで胸に座っていた、彼女はどうせ大丈夫という妙な安心感が足場を失ったような感覚。
 そしてその不安は、ドアを開けた瞬間に的中することになる。ノックに返事がなかった。聞こえなかったのか、まさかとは思うが留守なのだろうかと思って手をかければ鍵はかかっておらず、ドアはすんなりと開いた。クレアさん、と。咄嗟に呼んだ声に、薄暗い部屋の中で布がぴくりと動く。
「……クリ、フ……?」
 その隙間から覗く怯えた目が、紛れもなく彼女だと理解したとき、僕はようやくデュークさんの言ったことの意味が分かった気がした。ベッドの上で着替えもせずに毛布を被り、裸足の爪先を震わせている彼女を見る。ふつふつと湧き上がったものはそんな彼女への絶望でもこの状況への困惑でもなく、先ほどまでの、手放しで彼女を信じきっていた僕の、その暢気さに対する怒りだった。
 甘えていたのだ、僕は。いつだって堂々と進む彼女の、その真っ直ぐな強がりに。無重力という名を借りて、甘えていた。互いに何か、痛むところがあるからこその関係だと十分に理解しながら。自分より遥かに弱みをちらつかせない彼女に、いつしかそれが彼女という人間のすべてだと、都合よく錯覚していた。
 ――――――憧れたのだ、ありきたりに言えば。けれど、それは間違いだったと今なら分かる。
「ごめんなさい、ごめん……なさ……」
 震える手で抱き締めた僕の背中を掻き抱き、うわ言のように繰り返す彼女に、きつく唇を噛んだ。彼女が初めて明かしてしまったと思っている船上での嵐の夜のことを、僕は初めから知っていた。その瞬間こそ知らないが、数枚の木片と一緒に横たわっていた彼女を、知っていた。それなのにどうして、彼女は僕と違って強いから、寂しさを見透かす必要はないなどと思っていたのだろう。例え過去を聞かなくても、具体的なことを語らなくても。例えば彼女が初めの頃の、何も話せなかった僕に代わって、延々と一人で喋り続けてくれた夜だってあったように。重荷をかけない関係の中でだって、恋人としてでも友達としてでもないこの絶妙な隣り合わせの場所から、彼女がしてくれたことは色々とあったのに。
「ここは、君の家だ。ゴッツさんが建て直してくれた丈夫な家なんだから、何も心配ないよ。そうだろう?」
「……う……」
「大丈夫だよ、クレアさん。ただの、風の音だ。それに―――」
 盲目的に尊敬することで、救われる気がしていた。憧れを、僕は捨てなくてはならない。これから先に言うことは、これまでのように彼女の後ろに立って、憧れの眼差しで見ていては到底言えないことだから。明滅を繰り返してぶつりと絶えた蛍光灯の下で、想像以上に細い体の冷たさや心音の痛苦しい速さ、震える感触を身に焼きつけるように、きつく抱き締める。この先で僕達がどう変わってゆこうと、彼女が決して完全でない、強く柔な女の子だったことを忘れないために。
「―――もしここが、船の上だとしても。今度は僕が、壊れる前に連れ出して、無事に陸へ帰してあげるから」
 重力が、生まれる。この言葉が、どうか彼女の怖れるものを掴んで、遠慮のない力で押し潰してくれたらいい。そう願った。
 雷鳴は遠ざかる気配もなく、屋根の上で響いている。僕はこの日、この町へ来てから初めて、教会へ行くことを休んだ。

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