その日は夜明けから風が唸りを増し、朝を迎える頃には強い雨が屋根を引っ切り無しに叩き始めた。天気予報は正解だ。台風が来るでしょうと言っていた、昨日の朝のテレビを思い出す。
 ガタガタと窓がけたたましく鳴った。風に煽られた雨が壁に打ちつけられて、まるで無数の手がこの家を壊そうとしているかのような音を立ててくる。窓の外はいつもならとっくに日が高く昇っている時間なのに、薄暗く淀んでいて、時々小枝や木の葉の飛んでいくのが見える。
「……っ」
 そんな中で、私は一人、ベッドに蹲って毛布を被っていた。真夏の熱に満ちた部屋は、雨の湿気も手伝って酷い湿度だ。じっとりとした汗が、薄い部屋着を肌に貼りつける。暑い。蒸し暑いのに、両足の先がやけに冷たくて、かたかたと震えていた。
 頭の中に、何かが甦りそうで甦らない。嵐の音が、記憶の扉を叩いて回る。時折ごうと酷くなる風の音が海鳴りのようで、私はその度、自分の所在を確かめるように膝を抱いた。無意識の中で感じていた、あの嵐の晩が、今にもドアを破って雪崩れ込んでくるのではないかと思えてしまって、ドアから目が離せない。
「……」
 震えが止まらなかった。ろくに憶えてもいないことの何に怯えているのだろうと、自分を情けなく思ってみても爪先は冷えていくばかりで。膝が崩れそうに戦慄いている。
 ――――――動物たちに、多めに餌をやっておいて良かった。
 五感を閉ざしたがるように震える脳の片隅でそんなことを確かに思い、少しだけ微笑った。極限状態の中で、思い出せるものがあるのは有り難い。自分が、自分を失っていないような気持ちになれる。順番に、ドアの外にあるものを思い出してみる。林檎の木、広いとうもろこし畑、動物小屋、そこで待っている皆。今日は行けそうにないが、こうなることを危惧して餌は用意してあるから、どうかゆっくりそれを食べて眠っていてほしい。嵐を、怖がっていないといい。情けないけれど、もう少し雨風が収まるまで、私はとても外へ行けそうにない。
 稲光が、鍵を締め切った窓を白く照らした。ぎゅっと耳を塞ぐ。手のひらの壁を破って、雷と同時に雨の音が激しさを増した。せわしなく走っていた心臓の音が、止まりそうになる。
「――――――……っ!」
 瞬間、堪えていた涙が零れて視界が歪んだ私は、その涙が膝に落ちたとき、目に入ったものに思考が止まった。
「―――クレアさん!」
 荒ぶ風が、室内を一気に駆け抜ける。見つめる先のドアが、開いていた。そしてそこに、よく見慣れた青年が、急き立てられるような顔をして立っていた。濡れた肩で息をしている。いつもの物憂げな色を失くして何かに焦るように尖っていた眼差しは、ベッドの上の私を見ると一度、そこで止まり、それからすぐに室内を見渡して電気のスイッチを点けた。
「……クリ、フ……?」
「うん」
「なんで、ここに」
 恐る恐る、その名を呼ぶ。間髪入れず返事があって、私はようやく目の前の人が幻覚ではないと理解することができた。風の音が再びくぐもる。彼がドアを閉めたのだ。背中の濡れたジャケットを脱いで、玄関先に投げ出す。そうして近づいてきた彼にびくりと身を固めた瞬間、ほんの一瞬、躊躇ったように見えた手が、私の被っていた毛布を掴んで上げた。
「……デュークさんの、言う通りだな。僕は少し、いつも引っ張ってくれる君に甘えていたみたいだ」
「何の、はなし」
「……どう見たって肝心なときに、頼りにはされなかったなって、反省してるんだ。今更だけど、正直に答えて」
「……?」
「―――クレアさん、大丈夫?」
 目元を覆っていた毛布の影がなくなった今、揺れた眸を隠せるものは何もなかった。デュークさんって何のこと、だとか、どうしてここに、だとか。そして何より、こんな姿は誰にも見られたくなかっただとか。頭の中を巡るものはたくさんあったはずなのに、どれひとつとして言葉にならない。絞り出すような声は何も紡げず、ぐらりと潤んだ視界の壊れるように泣き崩れた瞬間、初めてその腕に抱き締められて、零れかけた声も失った。風が、震える窓を叩く。子供のような嗚咽が、雨の隙間に滲む。
「嵐で、船が沈んだの」
「……」
「冬の終わりの、寒い日だった。こんな、暑い日じゃなかった。だから今日が、今がそのときに戻されたわけじゃないって、分かってる」
「……うん」
「分かってるのに、……ごめん、なさい……っ」
 額の裏に、あの船上で迎えた嵐の夜と、今このときに聞いている嵐の音が重なり合って次から次へと浮かんでは消える。こんなのは、話が違う。私はこんなふうに、彼に縋っていい関係ではない。何も聞かない、そして言わない。重荷をかけないと、自分から約束したのだ。今すぐにでも、大丈夫だと笑って、この腕を抜け出して。頭の芯では絶えず響く声がそう促しているのに、震える両手は反するように彼の背中へ伸びて、皺のないシャツをきつく掻き握った。
「ここは、君の家だ。ゴッツさんが建て直してくれた丈夫な家なんだから、何も心配ないよ。そうだろう?」
「……う……」
「大丈夫だよ、クレアさん」
 諭すような声が、雨音から聴覚を隠すように耳元で聞こえていた。痛いほどに跳ね上がっていた心臓の音が、次第に治まっていく。雷鳴が続いている。蛍光灯はチリチリと、先ほどから明滅を繰り返していた。きっと直に、停電が訪れる。
 明るくなっては暗くなって、嵐の音を轟かせる部屋の中。私は怯えた子供のように泣きながら、思った。あの冬の日の待ち合わせとは、まるで逆だ。いつからこんなふうに、彼はしっかりその両足で立てるようになったのだろう。いつから迷子に戻りそうになる私を、抱きとめておけるほど。いつの間に、知らぬ間に、変わったのだろう。結んでいた約束も守れなくなった今の私を、受け入れてくれるほど。
 いつから私は、好きになっていたのだろう。誰よりも近くて、何も知らない彼のことを。
 気づいてしまった感情は風の音に千切られて、嗚咽に混じって喉の奥で荒れ狂った。泣きすぎたのか、ひりひりと胸が痛い。ぐしゃぐしゃの髪を梳くように撫でる手の温かさに、止まりかけた涙が零れたとき、部屋を照らしていた蛍光灯が消えた。

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