「最近、楽しそうですね」
 いつものように教会で思いを巡らせる傍ら、何気なくステンドグラスを眺めていたら、そう言われた。え、と隣を見れば、いつの間に聖書を閉じたのか、静かな笑みを湛えたカーターさんが立っている。
「そう、でしょうか?」
「ええ。少なくとも、私の目にはそう見えたので」
それとも、錯覚でしょうかね。主観の押しつけを避けるのは、職業柄なのか性格なのか。否定の余地を残すようにそう付け加えたカーターさんに、僕は数秒躊躇ってから、肯定とも否定とも取れる緩やかな笑顔を返した。カーターさんは少し驚いたように見えたけれど、何かを察したように近くの椅子へ腰を下ろす。
「どうぞ」
「え?」
「隣が、空いているので。少し寒くて」
とんとん、と。春の光の溜まる空席を軽く叩かれて、僕もそこへ腰かけた。
 年が明けても季節が巡っても、教会は相変わらず人がいない。時々町の子供達が目の前の道を遊び場にしているようだけれど、中にはあまり入ってこないし、今日は扉の向こうにも来ていないのか静かだ。僕達しかいない教会は、僕達が言葉を交わさない限り音を立てるものが何もない。
 暖かい沈黙の中で、僕は先ほどの言葉を思い返していた。楽しそう、か。ずいぶん長いこと縁のなかった言葉だったから、まだ耳に違和感がある。ステンドグラスを見上げながら、僕は別に、楽しいことを考えていたわけではないし思い出し笑いをしていたわけでもない。けれど。
「……楽しいって、言っていいのか。楽しいのかどうかは、よく分からないんだ」
「……」
「でも、カーターさんが前に言っていたこと。あれが本当だったら……って、最近は思ってる」
 視線をオルガンのほうへ向けたまま口を開けば、視界の端でカーターさんが顔を上げた。浅く息を吸い込んで、吐き出す。
「仕事が見つかったのは、僕がこの町にいてもいいって証なんだって。まだ正直にそうなのかとも思えないけど、一応、忘れないでおこうと思ってる……かな」
 本当は、とっくに動き出しているのかもしれないと思う。どんなに囚われているつもりでも、いつまでも同じ穴の中にはいられないということだ。鶏が先か卵が先か、環境が変われば感じることも変わっていく。変わってしまうことを、自覚するのがどれほど怖いとしても。
「それは、どうも」
「……」
「いつか役に立つ言葉であったなら、何よりです」
 楽しいと、それを口にしてしまったら、その瞬間に胸の奥の思い出が泣き喚く気がして。忘れるつもりなのか、一人だけそうして笑っていいと思うのかと、ありもしない声が聞こえてくるのを怖れている。その時点で、とっくに一年前とは変わっている証拠だ。人は、後ろめたさのないものに怯えない。僕は、この町で手に入れてしまった幸せな日常に溺れて、たった一言。楽しいと、言ってしまうことが怖い。
「思い出も、歳を取る。それは悪いことではないのです」
「……」
「それにしても、まさかクリフがそんなことを言うとはね。大切な人がいるということは、やはり大きいものかな」
 からかうように、わざと調子を上げた声音に。僕は一瞬、言葉に詰まってただ笑った。牧師らしからぬことを言うなよと言い返せば、愛の尊さを説くのも仕事のうちですので、と返される。
「大切な人、ね……」
 あながち間違いではない表現だ。僕達の関係がどんなものであるのか、カーターさんにも話してはいないけれど、意図せず鋭い言葉だったなと思う。恋人と言われるよりもずっとすんなり、頭の中に彼女の顔が浮かんだ。空色の眸をわずかに細めて、笑っている。
 この町に来てから、彼女もそろそろ一年。ろくに交流もしようとしなかった僕と違って、同じような立場でありながら割り切って進むことを選んだ彼女は、このところ町にも大分打ち解けたようで評判もいい。明るく、健気だという評価のようだ。彼女は自覚していないかもしれないが、以前よりずっとその明るさが自然なものになって、ずいぶん魅力的になった。僕もまた、一番傍にいながら、その変化に目を奪われているうちの一人で。
 だからこそ、思うときがある。未だ終わりの見えないこの関係を、彼女はいつまで、必要とし続けるだろうかと。変わりゆく彼女にはこの先、きっとたくさんの出会いが芽吹く。恋人という言葉ひとつでいつまでも僕が傍にいることは、その発芽を妨げ、彼女を縛ることになりはしないだろうかと。

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