―――無重力関係。その響きをこうして思い返すのは、何度目になるだろう。それを思い出すとき、僕の頭の中はまるで、幻でも思い返すように彼女の声以外のすべてが霞む。けれど、幻ではないのだ。それくらいに、僕にとっては驚かされた出来事ではあったけれど。
 秋の初めに葡萄畑で彼女が提案した関係を、僕は受けることにした。事実上の、恋人になったのだと思う。特に想う相手がいるわけでもない僕にとっては不都合もなかったし、何よりそうすれば、彼女は嘘で僕に振られたという傷をつけられずにも済む。彼女がそれでいいというのなら、断るほどの理由はなかった。
 僕達の間にある恋人としての約束は、聞かないこと、言わないこと。簡単に言ってしまえば、互いの詮索をしないという決まりだ。無理に探らない、互いを漁らない。そして、別れようと言われたら素直に関係を解消する。
 縛るものの何もない、怖れるものも何もない、そして何も知らない。そんな関係。けれど傍から見れば、恋人という名称のもとに、すべてを理解しあって見える。自分にとって失うもののない条件に安心して、同時に彼女の吐いてくれた嘘に対する礼にでもなればと、その提案を呑んだ。けれど。
「どうしたんだい、クリフ。難しい顔をして」
「カーターさん……」
 声のしたほうへ顔を上げれば、カーターさんがこちらを見ていた。教会には今日も、僕達しかいない。
「ちょっと考えてただけだよ。クレアさんのこと」
「おや、まあ」
「……どこから来たのかな、とかさ」
ぽつりと、独り言のように漏らした声は、ステンドグラスから射し込んだ光に溶けて消えた。
 あのときは、驚きに圧されて考えもしなかったが。彼女は確かに僕のことを聞かない、ではなく、互いのことを聞かない、という言い方をした。後になってそれに気づいて、思ったのだ。そんな言い方をするということは、もしかしたら。
「……さあ。私は、聞いたことがありませんね」
「……」
「でも、誰だってどこかからやってくるものです。何かを持って、生まれたときからこの町にいる人だって、赤ちゃんとしてここへやってきたのですから」
 彼女もまた、明かすつもりのないことを抱えているのではないかと。頭の奥に、あの海岸で浅い呼吸をしながら目を閉じていた彼女と、初めましてと笑ったときの彼女が重なり合って甦る。もっともらしいことを言って話を大きくし、核心を逸らしたカーターさんへ、ちらと視線を投げる。彼は牧師の顔になって、にこりと微笑んだ。
「本当のことですよ。私だって、この教会を守る使命という理由を持ってここへ来たのです。すべてのことには、理由がある。貴方にもあるようにね」
「……」
「それよりクリフ、そろそろ仕事の時間では?」
「え?あ、もうそんな時間か……!急がないと」
 理由、と。その言葉を深く考えるより先に見せられた腕時計に、僕は慌てて椅子から立ち上がった。ここを出ようと思っていたはずの時刻を、十分くらい過ぎているがまだ間に合う。カーターさんの前を擦り抜けて、急ぎ足に扉へ向かった。
「いってらっしゃい」
「行ってきます」
 秋は、そろそろ終わりを迎える。葡萄の収穫は時期を終えて、彼女と僕の短いアルバイトはあっという間に解散した。だが、僕は今、果樹園に残って次の仕事を続けている。今度の期限は、区切られていない。
 仕事を見つけたのだ、この町で。彼女の紹介で葡萄畑の収穫を手伝った僕は、デュークさんとマナさんの計らいで、果樹園の管理を手伝いながらワインの製造を教わっている。その日暮らしのような仕事ばかりしてきた僕にとっては慣れないことも多いが、明日が来ても行く場所がある。そんな淡々と継続していく毎日という感覚に、慌ただしさに混じって妙な安心を覚えたのも事実であって。働いていれば、宿屋に残ることもできる。もうしばらく、この町にいることになりそうだ。
「……」
 足取りが速くなるのは、急いでいるからだけではない。そのことに、少し責め立てられているような気持ちになって僕はその考えを振り払った。どのみち、仕事が手に入ったのは良いことに変わりないのだ。彼女のおかげだなと、“恋人”の顔を思い出す。
 石畳は日溜まりに照らされて、真っ直ぐに続いていた。角を曲がれば、果樹園が見える。
 いつか気持ちが大きく変わる、そんなときまで。そんな日が僕に来るのかどうかは分からないが、この道の突き当りには、今日も彼女の家が見える。


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