「……ありがとう。助けてくれたんだよね」
「いいよ。大したことじゃないから」
 二つ返事で、笑って答える。本当にそう思っていた。だが、この話はそれで終わったと思って背を向けかけた私の足を止めたのは、これまで聞いたことのない彼の鋭い声だった。
「いいわけない……!」
「え?」
「ごめん。本当に」
振り返ったと同時、深々と頭を下げられて思わず、瞬きをしてしまう。彼が何をそんなに申し訳なく感じたのか、分からなかった。戸惑う私をそのままに、絞り出すような声が続ける。
「僕がもっと、機転の利いたことを言えれば良かったんだ。そうしたら、こんな……クレアさんみたいな明るくて元気な人が、僕なんかを好きだなんて嘘をつく必要もなかったのに」
 僕なんか。その言葉に、ようやく合点がいった。同時に、私のことはそんなふうに思ってくれていたのかと少し驚く。そんなものではない。きっと心から明るくて元気な人は、嘘をつかずに、正直に彼を庇っても場を切り替えられる。
「気にしなくていいよ。何か聞かれたら、告白はされたけれどまだよく知らないから断りました。友達でいたいって言いましたって、言ってくれれば」
「それじゃあ、クレアさんは好きでもない僕に振られたことになる」
「マナさんは言わないと思うから。例え誰かに広まったとしても、別に平気だよ。……ねえ、それより」
「何?」
「そんなに気にするなら、どうしてあのとき、アージュさんに会うこと、社交辞令でもはいって言わなかったの?」
 私は、そんな純粋が形を成したような人ではないから。これくらいの嘘でつく傷なんて、砂を払う程度で収まるものなのだ。こちらから問い質してみれば、予想通り、彼はぐっと言葉に詰まった。一瞬で奥底を揺らす眸が、何を隠しているのかは知らないが痛々しい。彼がそれを、あの場で無理に口にすることに比べれば、それに居合わせることに比べれば。あれくらいの嘘は、些細なものだと思えた。
「……どんなに素敵な人だったとしても、僕にはまだ、そういう話をさせてもらうわけにはいかないんだ」
「……」
「幸せになっちゃいけないと思うから、今はまだ……」
 真っ直ぐにこちらを見て言われた言葉は、あのとき、彼がマナさんに言い渋った偽りのない本心なのだろうと思えた。そうなのか、と心の中で頷く。脳裏にまだ暑い夏の夜、酒場でカイが言っていた台詞が思い起こされた。誰にも、家族の話をしないらしい。
「ごめん、できるだけ上手くごまかすよ。迷惑はかけないようにする。助けてくれてありがとう」
 ふわり、と。私が初めてきちんと目にすることのできた彼の笑顔は、今にも破れてぼろぼろになりそうな、そんな苦笑いだった。幸せになってはならない。彼の言葉が、耳の奥をぐるぐると重く回る。そんなことはない。そんな権利を奪われている人はそうそういない。
 そう言いたいのに、それが慰めにもならないことは目に見えていて、だから私は全く別の提案を口にした。
「……ねえ、クリフ。私のこと、嫌い?」
「え?そんなことはないよ」
「ありがとう。私も、クリフのことはまだよく知らないけれど、今のところ、嫌いだと思ったことはない」
「クレアさん……?」
「……ねえ、クリフ。さっきの嘘、少しだけ続けてみる気はない?」
 息を呑んで、私の真意を読み取ろうと探っている蒼い眸が。向かい合った私を映して、揺らめく。
 私には、迷いがあった。すべてを失って、この町へ流れ着いて、命があったことには感謝している。けれど、命以外、私には何も残っていなかった。大したあてもない旅だったとはいえ、向かうつもりだった町とは全く違った場所に流され、これまで築いてきたものの何も役に立たない、まっさらな土地に立たされて。手元にはコインの一つさえなかった。選択肢はあってないようなものだった。もう一度海へ返されないために、イエスと答えた瞬間から。始まってしまったこの日々を、この町を、この人生を、私は愛せるのか。
「―――無重力関係の、恋人になるの。私達はお互いに何も聞かないし、話さないし、貴方が止めたいと思えば追いかけない。そうやって、重荷をかけない恋人同士になって、私と一緒に過ごしてみる気はない?」
 いつか、答えを見つけなくてはならない。そしてその答えはきっと、一人で模索するだけでは見つからない。彼の迷いもそうであるのかは、私には分からない。けれど、もし同じである可能性があるというのなら。
「いつか、何かのタイミングで。気持ちが大きく変わるような、そんなときまで」
 家の中からは軽快に、マナさんが食事を作っている音が聞こえてくる。彼以外の誰にも聞こえないように、葡萄の葉一枚でも防げそうな声で囁いたこのとき、私の日々はもう一度、がらりと姿を変えた。

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