宿屋の部屋へ戻って、鍵を締めなくなったのは最近のことだ。前はドアを閉めて内鍵を締めて、そうして夜にはカーテンも締め切って、そうするとようやく部屋に戻ってきたという実感が湧いた。だが、今はそういうわけにもいかない。
「……」
片側のベッドに横になって目を閉じ、つい先ほどのことを思い出す。賑わう酒場を通り抜けて部屋へ戻るのはいつものことだが、声をかけられたのは初めてだった。一緒にどう、と、まるでおはようと言うときのような気兼ねなさで言ってくれた彼女に、素直に嬉しいと思う。だが。
「……そろそろ、この町にもいられなくなるかな」
 ポケットの中のコインを指先だけで数えて、一人苦笑した。嗜好品に使える余裕があるのかどうかは、自分が一番よく分かっている。少し、この町に長居をしすぎた。ふらりと迷い込んだ僕を受け入れて、騒ぎ立てることもなく置いてくれた優しい町だったが、如何せん宿がここしかない。一軒しかないということは、ここより安い宿を探すこともできないということだ。そして、大きな町と違って小さな仕事を見つけることが難しい。良くしてくれた人達のことを思えば、宿代も払えなくなる前に、適当な理由をつけてどこかへ出て行くのが良いだろう。
「秋、かな」
 船代のことも考えれば、冬までいるわけにはいかないだろう。それに、冬に出て行くのは過去のことを彷彿とさせる。できれば、雪のない季節に去りたい。
 ポケットの奥、ハンカチに包まれた写真の角が指の腹を突いた。忘れるなとでも言うようなそのちくりとした痛みに、忘れられるわけがないじゃないかと胸の内で返す。階段を上ってくる足音が聞こえる。向かいの部屋の青年か、それともこの部屋を共用しているカイか。元々二人部屋しか空いていないところに泊めてもらっていたので、人が来ることに何か言うつもりはない。ただ、彼には夏の初めに、初対面で懺悔室から出てくるところを見られているのだ。それに対して何か言われたことはないが、この町で隠してきた自分の過去の行いを見透かされているような気になって、一方的に距離を取っている。
 そんなことをして、変わることなど何もないのに。ため息をつく権利はとうにない。きつく息を呑んで起き上がれば、鍵のかかっていないドアが外側から開けられた。

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