爪先:崇拝:カーターとクレア


 おや、と声をかけると、その人は金色の髪をひるがえして、弾かれたように顔を上げた。カーターさん。まるで会いたくない人に会ったかのように、途切れ途切れに名前を呼ばれ、はい、と答えた。
 一応これでも彼女とはそれなりに面識を持っていると思っていたのだが、私は何かしただろうか。嫌われるほどの心当たりはないんですけれどね、と視線を少しずらして、思わずもう一度「おや」と言ってしまった。
「あの、これはですねっ」
「どうなさったのですか、水遊びですか?」
「滅相もないです! ちょっと、やむを得ない事情があって……」
「はあ」
「決して、女神様を信じていないとか。そういう行動じゃ、ないんですけどね?」
 ちらり、と。窺うように向けられた視線とその言葉とで、私は彼女が慌てていた意味を知った。
 オーバーオールを膝の上まで折って、靴を脱ぎ捨てた片方の足。今、彼女の片足は泉の水に浸かっていて、透明な水流がそよそよと枝を洗うように周りを走っている。
 図らずもそれは、私がまさに祈りを捧げにきた、女神の泉だった。ああなるほどね、と少しおかしくなってしまって、早急に誤解を解いておこうかと隣へ腰を下ろす。
「あ、あの」
「構いませんよ。誰が棲んでいようと、泉は泉です」
「……え」
「貴女のことだ、きっと入る前にちゃんと、ご挨拶くらいはしているのでしょう? それなら、いいのではありませんか。神はあなたをお許しになります」
 ね、と笑いかければ、叱られるのを待つ子供のようだった顔が綻んでいく。よかったあ、とようやくいつもの声に戻って笑い、彼女は恥ずかしげに足を持ち上げた。
「実は、鉱山で道具を落として、少し切っちゃって。ドクターのところへ行こうと思ったんですけど、今日ほら、お休みだから」
「怪我をされたのですか」
「はい、でも平気。全然大きなものじゃなかったし、洗ったおかげでだいぶ、血も止まって……」
 言いかけて、ほら、と翳された爪先から、つうと血が伝った。気まずそうに、あれ、と彼女が押し黙る。
 深くはない。だが、金属で切った怪我だ。浅くもなかった。もう少しいっていたら洗ったくらいでは済まなかっただろうなあと、不幸中の幸いを神に感謝しつつ、その足を掴む。
「大した処置はできませんが、手当をしてあげましょう」
「え、何か持ってるの?」
「最近は小さなお客さんの相手をする機会が増えましたからね。絆創膏くらいは」
「ああ、そういうこと」
「備えあれば憂いなし、です。……ああ、でももう少し洗わないと。砂がついていますね」
「あれ、本当に」
 綺麗にしたつもりだったんだけどな、と覗き込んだ彼女の目は、そのまま傷口へ行かず、私を見つめて固まった。
 正確には、私の手を。泉の水はひと掬い触れるだけで、ずいぶんと冷たい。
「カーターさん、いいよそんな。それくらいは自分でできますから」
「怪我人は暴れないほうがいいですよ」
「だって、なんか恥ずかしいし申し訳ないしで」
「おやおや。君は案外、人慣れしませんね。でもね、気にしなくていいんですよ」
「なんで」
「知っています? 教会というのは昔、巡礼者の足を洗うのがしきたりだったのです。巡礼者というのは、教えをもって旅をする尊い人のことで」
 こんな傷を水に浸すなんて、なかなか思い切りのある子だなあ、と思う。もう少し痛みを恐れればいいのに。私にはきっとできないだろう。
 ぱしゃんと、手のひらで水をかけてやると、何度目かには砂が流れた。私はその足を見て、一人思う。
「要するに、とてもとても遠くからやってきた人たちを、巡礼という名前で迎え入れるのも役目のひとつだったのです。そして、最後に」
 貴女はどこから巡り巡って、やってきたのでしょうね、と。クリフと違って懺悔室でさえすべてを話さない彼女のことは、私も多くを知らない。
 分かるのは、一生懸命歩いているのだということくらいで。その足がどこに向かっているのかさえ、言おうとはしないので。
(恐るべき人だ、貴女は)
 形式というベールで覆って、爪先に、とんとキスをした。
 流れる血はゆるやかに止まっていく。水滴を、真っ白なハンカチで拭き取る。私の畏れなど知らない彼女は、真っ赤になって固まっている。
 ああ、その目の前に広がる道行きが、せめてここから先は穏やかであるように。



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