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兄様、街のざわめきに掻き消されそうになりながらも確かに聞こえたその声は、先ほど可愛いと思ったあの声で。その言葉が自分に向けられているものだと理解したのは、袖を彼女に引かれてからだった。
「名字、さん?」
「兄様、待ってくださいっ。」
「兄様って、え?」
私を引き止める為か、遠慮がちに袖を掴みながらこちらを見上げて、兄様と言う彼女。やはり聞き間違いでは無かったが、この状況にはなにか堪え難いものがあり、何故彼女が自分の事を兄だと呼ぶのか、考えを巡らせる余裕も無い。
「あの、兄妹っていう設定だったから…あ、兄様じゃなくて兄上とかのほうがよかったかな?」
「あっ?ああ、そうだったな。いや、その呼び方でいい。」
そういえば私達は兄妹という設定で来ているのだった。いきなり兄様だなんて懇願するような瞳で見上げられたものだから、驚きで忘れてしまっていた。それにしてもやはり名字さん相手だと思うように喋れない。挙げ句、心臓も未だに静まらないときたものだ。彼女が嫌いな訳でもないのに、一体私はどうしてしまったのか。
「よかった。あの、じゃあ田村君も、私のこと名前で呼んで。」
「ええっ!?何故!?」
「何故って…兄が妹を名字で呼ぶのは可笑しくない、かな。」
「あ、ああ!それもそうだな。じ・じゃあ、」
あれ、可笑しいぞ。名字さんと話していて今までで一番喋りにくい。下の名前を口にするだけなのに、何故こんなに難しいんだ。
「………名前。」
自分で言って羞恥が募るが、名字さんは更に追い撃ちをかけるような事を言ってきた。
「はい。それであの…私ちびで兄様の足についていけないので、逸れないようにこのまま掴んでいてもいいですか?」
なんだなんだ、何だっていうんだ?名字さんは私を殺す気なのか?やめてくれ、その瞳に自分を映される度、心の臓がきゅう、と啼いて苦しくなるんだ。
「あの…やっぱりだめ、でしょうか。」
「別に…構わない。」
袖を掴まれる位どうということもないから、別にいいんだが。いいんだが、そんな表情をされては断れないじゃないか。ふいに、小さな名字さんが自分の袖を掴みながら、後ろをちまちまとついてくる様子を想像してしまった。
…………なるべく後ろは振り返らないようにしよう。