長いようで短かった、教師程割に合わない仕事はないと何度思ったことだろう。
だけどあの時大変だと思ったことはこの瞬間を迎える為の試練だったのかも知れない。

体育館に響き渡る澄んだ歌声に幾つもの嗚咽が混じる。

約二百人の卒業生の中から君を見つけ出せる己の目を褒めてやりたい。約二百人の歌声の中から君の声を導き出せる己を少し誇りたい。


君は今日、俺の元から巣立っていく。









この街から一番近い駅に行くには一時間に一本しかないバスに乗るしかない。
発車時刻は午後五時、タイムリミットはあと五分。

「校舎を出るまでは泣かないって言ったけど、校舎出ても泣かないんだね」
「先生が笑って卒業しろって言ったんだろ?」
「もう先生じゃないでしょ?」
「そうだった」

古びた木製のベンチに座り片手に自販機で買ったココア、片手に君の手を握る。
春と言っても風はまだ冷たくて、開花の兆しが見えない桜の蕾を揺らした。

「今日は怒らないんだね」
「何が?」
「手、握っても」
「あんたはもう俺の先生じゃなくて、俺はもうあんたの生徒じゃない」

それは俺が一番望んでいたことなのに、言葉にしてみると案外重くて苦いものだった。
俺と君を縛る名前も空間も明日から違うものになる。日々息苦しく感じていたあの空間は今思うと、なんて愛しいものだったのだろう。あの場所は俺たちを無条件で引き合わせてくれていた。
微笑む君は時が止まったかと勘違いする程に美しいのに、無情にもバスは灰色の排気ガスを吐き出しながら停留所に止まる。

「誰も乗ってないね」
「卒業式終わったばっかだしな、みんな打ち上げとかするんだろ?」
「夜からやるみたい」
「せん…、銀八も行くのか?」
「行かないよ」
「行ってやれよ」
「行ってもいいの?」

バスの運転手が不審気な表情で俺たち二人を見ている。
それじゃなくても乗客が少ないのだから、乗るなら早く乗れと言うところだろう。

その様子に急いで大きな鞄を抱え、立ち上がる彼の腕を引く、運転手に目で合図を送るとバスは無人のまま走り去って行った。

「バス、行っちゃったね」
「誰のせいだよ」
「俺のせい?土方が引き止めてって言ったからでしょ?」
「言ってねぇだろ」
「嘘、先生にはちゃんと聞こえました。ねぇ土方?」
「何だよ、俺はもう生徒じゃねぇぞ」
「分かってる。それに、俺はお前を生徒だと思ったことは一度もないからね」
「…それはそれで嫌だな」
「あのさ、もう泣いていいよ?」

落ち葉が宙を舞う。
学ランも見納めだとその感触を楽しみながら背中を撫でると肩が濡れた気がした。

「お前は、どんな大人になるのかな?」
「…さあな」
「俺なんか忘れて、幸せになれよ?」
「なに、言って」
「なんて言えたらいいのにな」

瞳に溜まった雫がぽたりと落ちた。
君には無限の可能性と未来があって、俺は決められたレールの上を歩いていくしかない。すべきことは分かっている。
それなのに、俺は俺の幸せの為に君の幸せを犠牲にしようとしている。

「お前が俺を捨てるまで、俺はお前を手放す気はねぇよ」
「今はそう思ってても、いつかはそうじゃなくなるかも知れないだろ?」
「ならないよ」
「なんでそんなこと…」
「愛してるから」

キョトンとした顔、丸くなった瞳に己の苦笑した顔が映っている。

「そ、そんなこと初めて言われたぞ…」
「言わなかったからね。でも今日からお前はただの恋人になるから」
「今まではなんだったんだよ?」
「生徒であり、恋人でもあった。でももう人目を気にして歩くこともない、堂々としてていいんだ」

くしゃりと歪んだ顔を撫でると、君は無意識に唇を噛もうとするからそれを阻止した。

「…っ…ん…」
「狡いかも知れないけど、選択肢はいつもお前にあるんだよ」
「………」
「例えば十年後、お前は結婚して可愛い奥さんと子供がいるかも知れない。それでも俺はお前を待ってるよ。まあその時はあんなこともあったなぁと十四郎似の可愛い赤ん坊見せてくれな?」
「…俺は、あんたのそういうところが嫌いだ」

折角阻止したのにその唇には血が滲んでいる。痛々しい様子に眉を寄せるとヒヤリと冷たい指先が俺の頬を包み込んだ。

「なんでいつも諦めたような言い方して引くんだ?」
「お前はまだ若いから、」
「若かったら人を好きになっちゃいけねぇのか?銀八には、俺がお前を選ぶって選択肢はねぇのかよ?」
「だから選択肢はお前に…」
「俺は銀八が好きだ」

俺の瞳を真っ直ぐ見据えられて目が逸らせない。
想いを伝えられるのは初めてだった。

「愛してるとかよく分かんねぇけど、今好きなんだからそれでいいじゃねぇか」

トンっと胸に額が当たる。指を入れるとサラサラと滑り落ちる髪の感触になんだか泣きたくなった。

「もう、次のバスが来るね」
「今度こそ乗らねぇと運転手が変に思うな」

すぐにさっきと同じバスが停留所に止まった。運転手の訝しげな視線が少しばかり痛い。
大きな鞄を持って立ち上がる君を追って俺も立ち上がると意外と細い手首を掴んだ。
「ちゃんと待ってろよ?浮気したら許さねぇからな」
「はいはい、鞄引っ掛かってるからね」

扉に引っ掛かった鞄を直してあげると君は唇を尖らせて話を逸らすなとむくれた。

俺は上手く、笑えているだろうか。

「どっちが子供だか分かんねーな」

苦笑して軽く触れた唇に驚く間もなく、君はゆっくりバスに乗り込んだ。
俺は何も答えられずに俯いたまま、少しだけ大きく見える君に手を振る。

「…さよならなんて、言わねぇからな」

小さく呟いた声に顔を上げた時には既に遅く、無情にも扉が閉まりバスは進んでいく。

最後に見た顔が泣き顔なんて、自分が情けなくて仕方なかった。





あれから五年の月日が経った。
俺はまだ教師をしていて、また性懲りもなく卒業生の担任なんかをしていて。

あの時と同じ制服に身を包んだ生徒達があの時と同じ歌を歌う。

体育館に響く嗚咽が混じった声は五年前の君を思い出させて、卒業生そっちのけで思い出に耽り苦笑する俺に隣の教師が咳払いをする。

小さく開いた窓から吹き込む風が紅白幕を揺らした。





「仰げば尊し、我が師の恩、か…」

誰も居ない屋上で卒業生の歌を思い出し、口ずさむ。

そう言えば、俺は先生にありがとうも言えなかった。

「忘るる間ぞーなき、ゆく年月ー」

君に、この歌声が届けばいい。

「今こそ別れ目、いざさらば…」

煙草の煙が白く細い線を描きながら空に消えるのをぼんやりと眺めていると、錆びて建て付けが悪くなった屋上の扉がギィと鈍い音を起てた。

「感心に浸ってるなんてあんたらしくねぇな」
「いやいや、先生結構感情的な方だからね」
「いつまで先生気取りだよ」

黒いスーツを身に纏った彼はくわえていた煙草をポイッと投げ捨てるとよく磨かれた靴底で踏み消した。

「これは失敬、土方先生?」
「なんかムカつくな」
「可愛い奥さんと赤ん坊は?」
「可愛い恋人なら目の前にいるけどな?」
「どっちが」

あの時は少し見下ろしていた目線が今はぱったり合うようになっていて、五年という月日の長さを実感させる。

「仰げば尊しなんて、相変わらずマイナス思考は継続中みたいだな」
「土方、人生の先輩として一つ教えてあげよう」
「はいはい、何ですか先輩?」
「別れがあるから、出会いがあるんだよ」
別れて出会って別れて、それでもまた出会うのならきっとそれが運命なのだろう。

頬を包み込んで瞳を覗き込むと、君は幾分か大人びた顔で笑って、やっと分かったのか馬鹿野郎と額を合わせた。

「おかえり、十四郎」

五年振りに合わせた唇は苦い煙草の味がした。



(俺も五年前はあんたを思って歌ったんだぜ?)
(知ってたよ)



(仰げば尊し、君に贈るラブソング)



END





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