生暖かい潮風が頬を掠める。
大きな桜の木が聳える海を一望できる丘、酒を一升瓶持って甘味とマヨネーズも忘れない。

あれから十年の月日が過ぎた。








あの日、俺が道場の掃除を終えて屯所に戻ると、いつもいる筈のトシの姿はなく変わりにアイマスクで目を覆った総悟が気持ちよさそうに寝息を起てていた。

「あれ総悟、トシは?」
「おかえりなせぇ近藤さん」

クイッとアイマスクを上にあげた総悟はいつもと何ら変わらない。
ただ少しだけ呆けたようにヤニで黄色くなってしまった天井を見上げている。

「あの野郎は市中見回りに行きやした」
「かぶき町、か」

この町にあの悪魔のようなウイルスが広まり、治療法も見つからないまま沢山の命が散った。と同時に生き残った人々は段々江戸を離れていく中で、万事屋の坂田銀時はこの町に残ったのだ。

誰もいなくなったかぶき町にたった一人残った万事屋から連絡があったのがひと月前。
俺たちは一体なにを守るために江戸に来たのかと、目的も目標も見失い始めていたトシを支えたのは紛れもなくあの万事屋で、誰よりもトシのことを分かっているつもりでいた俺は少しばかり不甲斐なく感じたものだ。

万事屋からの電話が掛かってきた時のトシは唇に加えた煙草を奥歯でぎゅって噛みしめてにやけそうになるのを我慢する。自分では気づいてないのかも知れないけど、俺はトシのあの顔をこっそり盗み見ては笑いをかみ殺すのが好きだった。

「なんで万事屋はここに残ったんだろうなぁ」
「…似た者同士なんでさァ」
「?」

あの時の俺は総悟の言った言葉の意味が理解出来なかったけど、きっと総悟はあの時既に俺よりも二人のことを理解していたんだと思う。

「迎えに、行きやすか?」
「ん?ああ」

総悟がトシを迎えに行くなんて天変地異の前触れじゃないかとその顔を盗み見るが、立ち上がった総悟は腰に差した刀を抜きその刀身に映る自分をジッと見据えていて珍しく真剣なその姿に声が掛けられない。

「もの足りなくなりまさァ」

そう呟いて刀を納めた総悟は年齢らしからぬ笑みを浮かべて歩き出した。
俺は正直訳が分からなかったが、背筋を伸ばし歩いていく姿を見ると不思議と言葉が出てこなかった。

誰もいない町でも風は吹いているものだなと思った。
頬を掠める風は暖かくて心地よくて、ひらりと舞った桃色に視線を上げれば満開の桜の木。

「きれいだなぁ」
「桜の花が、なんで桃色に染まっているか知ってやすか?」
「死体の血を吸ってるから、だろ?こんなに綺麗なのに、酷いこというよな」
「そうですかぃ?こんな綺麗に咲き誇って、きっと最高に幸せだと思いますぜ」
「そっかぁ?……なあ、この桜万事屋にも見せてやろう!きっと元気になるぞ!」

総悟は何も言わずに微笑んだ。
木の合間から差し込む日差しに目を細めるその白い頬に、薄桃色がひらひらと舞い落ちた。





人の気配が消えてしまったどこか寂しいかぶき町を桜の枝を持って歩く。
見上げた万事屋は何も変わらない。今にもあの窓から銀時が顔を出しそうだと一人笑みを浮かべた。

「万事屋、トシィ?」
「寝てるんじゃ、ねぇんですか?」
「そっか。勝手に入っちまうぞー」

鍵は掛かっていなかった。
ガラリと戸を開くと埃でうっすらと白くなった床に転々と足跡が続いていて、それは一度も立ち止まることなく、迷うことなく奥へ向かっている。

どこかで嗅いだことのある匂いがした。
嫌という程嗅ぎ慣れた、匂い。
そんな匂いがここからする筈がないのに、してはいけないのに。

目の前に立ちはだかる襖が酷く重いもののような気がしてならない。
近づく度に濃くなる匂いに目眩がした。

「……近藤さん、」

それまで黙って着いてきていた総悟が重い口を開く。
俺は黙って総悟を見下ろした。

「幸せってのは、人それぞれでさァ」
「なんで…今、それを言うんだ」
「現実は、受け入れなきゃいけねぇ」

そう言って前を向き一歩踏み出した総悟はぴったりと閉じられた襖を開け放った。

差し込む日差し、吹き込む風。
真っ赤に染まった床、立ち込める、血の匂い。

俺の手からすり抜けた枝は薄桃色の花びらを赤く、紅く染めあげた。





あれから十年の月日が経ち、江戸の町は元の喧騒に包まれている。

万事屋が、トシが大好きだったあの町に。

俺の隣に立つ総悟は大分大人びた顔をしていて、その隣に寄り添うように立つチャイナさんはすっかり伸びた桃色の髪を風に靡かせ、腕の中の小さな命に微笑みかけている。
今や道場の師範代として竹刀を振るう新八くんもすっかり男の顔をしていて、その隣の愛しい人は大きな石の塊の前で思い出に耽る俺を後押しするように背中を押した。

「トシ、万事屋、仲良くやってるか?」

「きっとこいつらのことだから年中喧嘩ばっかしてるネ。そんで直ぐに仲直り。全く迷惑なばかっぷるアル」

「はは、違げぇねえ。ほら旦那、俺の娘でさァ。この馬鹿に似てとんだあほ面だろぃ?旦那はきっとすげぇ孫想いの爺ちゃんなんだろうなァ」

「ちょっと沖田さん、銀さんの孫じゃねーから、爺ちゃんじゃねーから!でも銀さんは何だかんだで子供好きだからなァ」

「あらあら、だったら早くこの子も連れて来てあげないと」

「え?……えええええええ!?」

そっちはどんな場所なんだろう。
寂しくて泣いてないだろうか。
寒くないだろうか、暑くないだろうか。

お前たちは今、幸せだろうか。



「幸せだよ、あんたらに負けねぇくらい」



驚いて振り向けば薄桃色の花びらが照れたように、少しだけ赤く染まった気がした。



(いつかそこに辿り着く日まで、どうかあいつらを、)


拝啓、かみさま





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