江戸に入国した天人よって持ち込まれた新種のウイルスは瞬く間に江戸全土に渡った。 大した特効薬も見つからぬままに大勢の命が散っていく中で、唯一誕生した予防薬は希少価値の高い植物からほんの数滴しか採れないという代物。それは政府関係者や医者が優先して投与され、そのまま底が尽きた。 無論俺も政府関係者の一人としてその特効薬を打たれ、今もこうして誰も居ない町を市中見回りしている。 俺は人で賑わうこの町が好きだった。 昼から客引きする男たちの声も甘い声で誘ってくる女たちの声も、市中見回りをサボっている総悟を町中探し回るのも。 やっと見つけた総悟が団子屋の椅子に腰掛けて談笑している相手に眉を顰めるのも。 隣に腰掛けた俺の耳元で、運命かもね、なんて囁いて俺を翻弄する声が聞こえた気がしてあの団子屋を見れば、砂埃を被った椅子が寂しそうに佇んでいるだけだった。 近藤さんは毎日誰も居なくなった志村家に行っては道場の掃除をしている。今何処でなにをしているのかも分からない女の為に。 剣を奮わなくなったあの人に、俺の守るべきものはもうないのかもしれない。 * 万事屋に足を踏み入れるのはもうひと月振りになる。 掃除をしていた志村がいなくなったせいか埃の溜まった廊下に黒い靴下が白く汚れて行く様子に眉を寄せた。 これじゃまるで、誰もいないみたいだ。 ウイルスが江戸の町に広がり、チャイナは一時帰宅、志村兄弟は江戸から離れたと聞いている。 柱に付いた傷、襖や障子に空いた穴は確かに彼女たちがここに存在していたことを物語っているのに、どこか現実味を帯びていない。 通いなれた家、通いなれたあの部屋の戸を開ける手が微かに震えた。 「よう」 「おう、久し振り」 そう言って片手を上げる銀時はひと月前と何も変わっちゃいなくて、俺は緊張に詰めていた息を吐き出した。 「噂の特効薬は打って貰ったのか?」 「…ああ、やっと屯所から出れる。このままじゃ身体が鈍っちまう」 「そう言えばお前ちょっと太ったんじゃねぇの?」 ベストの上から腹を摘まれて笑いながら顔を上げる。 予想以上に近い顔に一瞬驚くが、迷わず唇を寄せた。 「なんで、避ける」 俺の唇は銀時のそれに届かない。最後にあのカサついた唇に触れたのはいつだっただろうか。 このままじゃ、忘れてしまいそうだ。 「俺には移らねぇよ。テメェも分かってんだろ?いつもみてぇに噛みつくようなキスしてみろよ…ッ…口の中、舐め回して舌吸って、」 思い出、なんて馬鹿馬鹿しいのかも知れない。 それでもこの男といた時間を、唇の感触を、忘れたくなかった。 「土方、泣かないで」 「うるせえ!だったら、早くキスしろ…!」 銀時はひと月前となにも変わらない顔で苦笑して髪を撫でた。 少しだけ血色の悪い唇が近づき、離れる。 ほんの一瞬掠めるように触れた唇はすぐに離れた。目は瞑らない。一瞬一時一秒足りとも忘れないように焼き付けておく。 「子供みてぇなキス」 「たまにはプラトニックもいいだろ?」 「らしくねぇんだよ」 「なあ土方。俺、死ぬよな」 少し遠くを見るような目をした銀時はしかし直ぐに眉を垂らして笑った。 「やっと死ぬんだなって自覚が湧いてきやがった。力が入らねぇ」 「ああ」 「指なんかこんな細くなっちまってさ」 「ああ」 「…俺が、望んでたことってこんなことだったのかな」 俯く銀時の表情は伺えない。ぎゅっと力なく握られた拳だけが嫌に目に付く。 「これじゃ、お前を抱き締めてやることも出来ねぇよ」 「…ッ、じゃあ、俺がお前を抱き締めてやる」 「…はは、男前だなぁ、お前」 抱きしめた身体はもう既に大分冷たくなっていて、俺は隙間がなくなるように力一杯銀時を抱き締めた。 「土方、箪笥の一番上開けてくれる?」 身体を離し言われるままに箪笥を開ける。 使い込まれてはいるがよく手入れされた刀と、汚れた本が一冊。 ただそれだけが広い箪笥を占拠していた。 「まあ、ザクッといっちゃってくれや」 「お前…」 「俺を、殺してくれ」 そう言って立ち上がった銀時が箪笥から刀を取り、慣れた仕草でその刀身を露わにした。 もう歩く気力など残ってなどいないだろうに、背筋を伸ばして立つ姿は何も変わらない。 俺が追い求めて、焦がれて止まない姿そのものだ。 「俺を殺すことが出来るのは、お前だけだ。新八でも神楽でもねぇ。俺はお前がいいんだよ」 「勝手なこと言うな。俺がお前を殺して…俺の気持ちはどうなる?お前だけが、望んでると思うな!」 俺だって本当はお前に、 「じゃあ……、」 音も無く動く唇に時が止まった気がした。 しかし直ぐに弧を描いた唇がいつもの調子で冗談だよ、と小さく呟く。 「病で死ぬなんて侍らしくねぇだろ?それに、お前に殺されるなら本望だ」 限界なのか布団に横たわる銀時を見下ろす。 しっかり握らされた刀と足が震えているのが分かった。 「土方…おいてって、ごめんな?」 「…ッ……」 「泣くなって。最後に見た顔が泣き顔なんて寂しいじゃねぇか。俺はお前の笑った顔が好きなんだ」 「だったら、お前も…笑え」 「笑ってる、だろ?だって俺、今最高に幸せだよ?」 二人分の涙で濡れた顔が力無く微笑むのと同時に、冷たい刀を振り下ろした。 「……ッ…う、く…」 「っは、ばーか…泣くな、つってんのに。しょうが、ねぇなあ」 「ぎん、とき」 「ひじかた、」 「あいしてる」 ふわっと幸せそうに笑って閉じた瞼は、もう開くことは無い。 今まであいつの口から愛してるなんて言葉聞いたことが無かったし、俺も言った覚えはない。 妙に重く感じる刀を見れば赤い紅い血が滴っている。 「ちゃんと、紅いじゃねぇか」 “一緒に死んで” 声こそ出ていなかったが、あの時血の気の失せた唇は確かにそう紡いだ。 誰よりも一人が怖くて死にたがりのあいつをひとりぼっちにしてしまった。 置いてったのは、俺の方だったんだ。 「そういう、ことかよ」 何時だってあいつの思った通りになるのだ。それが癪だが、きっとそうなる運命なのだろう。 微笑んだままの唇に口づければ動く筈のない冷たい唇がニヤリと笑ったような気がした。 (待ってろ、今追い掛けてやる) 君色に染まる |